宗教的確執を抱えるロシア・ウクライナ戦争やイスラエル・ハマス戦争が勃発、国内では安倍元総理銃撃事件が起こるなど、人々の宗教への不信感は増す一方だ。なぜ宗教は争いを生むのか? 国際情勢に精通した神学者と古代ローマ史研究の大家が、宗教にまつわる謎を徹底討論——。
2024年1月31日に刊行予定の『宗教と不条理 信仰心はなぜ暴走するのか』(幻冬舎新書)は、日本人が知らない宗教の本質に迫る知的興奮の一冊です。その発売の前に、一部を先行してお届けします。
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近代合理主義の限界と宗教の影響力
本村 古代ローマ史を研究してきた僕から見ると、いまの歴史教育はルネサンス以降、あるいはフランス革命以降の近代史を重視しすぎて、前近代が軽視されているように感じます。
もちろん、自分たちにとって身近な時代のことを知りたいのはわかりますし、たしかに近代について学ぶのは大事だとは思いますよ。とはいえ、5000年に及ぶ人類の文明史のうち、4000年は古代ですからね。切り捨てていいわけがありません。
ところが高校の世界史の授業でも、古代からやっていると時間が足りなくて20世紀までたどり着けないという理由で、近代史から始めたりしています。それはいいことです。しかし、身近な時代は馴染みやすいので自分の感覚で理解できる面がありますが、遠い昔のことはリアリティを感じにくいですよね。だからこそ、前近代、とくに古代のことは本来より深く勉強する必要があるでしょう。
それに、長い前近代史は、その後の歴史を読み解く上でのひとつのモデルとしても重要です。とりわけ宗教の問題は、現代の社会でも避けて通ることができません。いまも世界情勢に大きな影響を及ぼしているユダヤ教、イスラム教、キリスト教という一神教は古代地中海世界で生まれました。
そしてロシア・ウクライナ戦争など、現代の国際問題を捉える上で宗教的視点は欠かせません。そこで今回は、国際情勢に詳しく、キリスト教の神学者でもある佐藤さんと、近代社会における宗教の存在意義や、宗教と戦争との関係などについて、じっくり語り合いたいと思いました。
佐藤 近代的な価値観や常識は、必ずしも人類史全体に通用するものではありません。しかも近代という枠組みそのものが、二〇世紀以降はいろいろな意味で限界を迎えようとしています。
したがって、いまは近代とは異なる世界像について考えを深めなければいけないと私も考えていました。そのためには、前近代史の専門家の力を借りる必要があります。そういう意味で、こうして本村さんとお話しする機会が得られたのは、私にとっても大変ありがたいことです。
18世紀的な近代合理主義は、ロマン主義的な反動もある程度はあったものの、一応は19世紀を乗り切りました。しかしその後、近代的な合理主義と科学技術の発展が何をもたらしたかといえば、第一次世界大戦における大量殺戮と大量破壊です。その時点で、すでに近代の限界は見えていました。
ところがその問題が解決されないうちに、第二次世界大戦はアメリカが物量にものを言わせて勝ってしまった。これは「合理的なやり方をしたほうが勝つ」という意味で、18世紀型の戦争です。
その結果、第一次世界大戦で見えた近代の限界が、第二次世界大戦では逆に見えにくくなりました。自由と民主主義を謳歌し、物量をたくさん生産できる経済力を持つ者が強い──という話になったわけです。
「マインドコントロール」は宗教だけの話ではない
本村 なるほど。そのためわれわれは、限界を迎えたはずの近代合理主義であるのに、その枠組みからまだ抜け出せていない。しかし実際には、近代合理主義では割り切れない「宗教」というファクターが、国外でも国内でも常に社会に影響を及ぼしていますよね。
佐藤 とりわけ2022年は、宗教をめぐってさまざまな問題が噴出した嵐の年でしたね。日本国内では、安倍晋三元総理の銃撃事件によって、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)問題が浮上しました。じつはこの問題をめぐる議論の中でも、近代合理主義の限界が露呈しています。
というのも、旧統一教会を批判する人たちのロジックは、単純な啓蒙思想に基づいています。「宗教のように非合理なものを信じて多額の金を寄付するのは、マインドコントロールによって理性を失っているからだ」というわけです。
しかしマインドコントロールによって非合理なものを信じることは、宗教にかぎらず、あらゆる局面であるわけですよ。たとえば「厳しい受験競争に勝って難関大学に入学すれば将来は安泰だ」と信じている受験生やその保護者も、そういうマインドコントロールを受けていると言えます。
本村 それこそ人権思想を多くの人々が信じているのも、ある意味では近代社会によるマインドコントロールの結果と見ることもできますからね。歴史的には、たとえばヨーロッパで起きた1848年革命が、人々が人権思想に洗脳されたと見ることができる最たる出来事です。この年に、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって『共産党宣言』が刊行されています。
約半世紀前に起きたフランス革命もあって、人権思想が人々に浸透した結果、普通選挙の実現を拒否した王政に反発して革命が起こり、フランスは第二共和政に移りました。まだ領邦国家が群立するイタリアにすら人権思想が広まり影響がもたらされたほどで、ヨーロッパ中がある種のマインドコントロール下にあったと言えるでしょう。
近代社会でなくとも、ローマでは共和政に対する信奉が根強く、これも見方によってはマインドコントロールと捉えることができます。カエサルがこの体制を破壊したことで、暗殺にすら発展しているわけです。マインドコントロールはごく自然に起こっている。
佐藤 おっしゃるとおりです。旧統一教会問題では、被害者救済のための新法にこの「マインドコントロール」なる文言を入れるかどうかが議論になりました。これは、きわめて危うい議論です。
たとえばキリスト教なら、「生殖行為なしに生まれた男の子が救い主となり、その救い主は死んでから三日目に復活した」という教義が、ほとんどの教派で採用されています。こんな非合理な話を信じているのですから、キリスト教徒はほぼ全員がマインドコントロールされていることになる。したがって、もしマインドコントロールを法律で禁止できるとなれば、キリスト教を禁止できることになるわけですよ。
本村 世界中が大騒ぎになって、戦争になるでしょうね。実際、八世紀に中世スペインで起きたレコンキスタ(国土回復運動)がそうでした。キリスト教徒、ムスリム(イスラム教徒)、ユダヤ教徒がこの土地には共存していたわけですが、キリスト教徒がムスリムたちを追い出そうとしたわけです。1492年に成功したものの長きにわたる混乱に陥りました。
一方で、それとは反対に東のオスマン帝国は非常に寛容で、国教はイスラム教でも、キリスト教徒やユダヤ教徒も受け入れています。とくにユダヤ商人の活躍は、オスマン帝国が繁栄する大きな要因にもなりました。マインドコントロールを禁止するとなると、宗教を互いに認めることは不可能になってしまう。
佐藤 それを議論すること自体が危険すぎますよ。そういう危うさに対して鈍感になってしまうのが、啓蒙思想というマインドコントロールの怖いところです。
近代的な思考に限界があること自体は、日本では1980年代にいわゆる「ポストモダン」的な思想が嵐のように吹き荒れて以降、みんな口やかましく言ってきました。ところが、いざ日常的な問題を前にすると、単純な啓蒙思想で片づけようとするんです。
もうひとつ、多くの人々が依存しがちな考え方があるとすれば、ナショナリズムですね。国民国家の概念も前近代にはなかったものですが、いまはそれが自明の枠組みであるかのように語られる。18世紀的な啓蒙思想と19世紀的なナショナリズムによってほとんどの物事が動いているのが、現在の世界です。
疫病・戦争・飢餓をめぐる「ハラリ・モデル」の崩壊
本村 啓蒙思想もナショナリズムも、近代の産物にすぎません。人類の文明史全体から見れば、最近になって出てきた新しい枠組みです。しかしそれが普遍的な「常識」だと思い込まれているから、疑おうとしないんですよね。
イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、『ホモ・デウス ~テクノロジーとサピエンスの未来』(柴田裕之訳/河出書房新社)という著書で、人類は疫病、戦争、飢饉を撲滅する時代に近づいていると言いました。すでにそれらが「撲滅された」と言ったわけではありませんが、その本が出てから間もなく、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックが発生したのは皮肉です。
まあ、いまから考えれば、疫病についてはハラリの予想どおりにならないことは十分にあり得ました。しかし戦争に関しては、「もうそれほどひどい争いは起きないのではないか」と現代人が考えていたのはたしかだと思います。
ところが、ハラリの予想を嘲笑うかのような戦争がウクライナで始まりました。前近代史をやっている私の目には、フランス革命以前の時代に覇権主義を掲げて行われた戦争と似たことが起きたように見えます。そういう意味で、ロシアのウクライナ侵攻は衝撃的でした。
佐藤 いわゆる「ハラリ・モデル」の崩壊ですよね。ロシア・ウクライナ戦争だけでなく、2023年10月7日に起きたパレスチナ自治政府のガザ地区を実効支配するイスラム教スンナ派武装集団ハマスによるイスラエルに対するテロと、その後のイスラエル軍によるハマス掃討作戦も、ロシア・ウクライナ戦争以上のインパクトを国際政治にもたらしました。2018年と2020年のダボス会議(世界経済フォーラムの年次総会)で、ハラリは基調報告を行いました。つまりその時点までは、世界の政治エリートや経済エリートたちが、今後の世界は「ハラリ・モデル」にしたがって動いていくと思っていたわけですよ。
しかしそのモデルに反して、人類は疫病も戦争も克服できていませんでした。それに関するハラリの釈明文の翻訳が朝日新聞に載りましたが、ほとんど説得力がありませんでしたね。私の見立てでは、すでに時代はハラリからエマニュエル・トッドに移っているんです。
トッドの『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(堀茂樹訳/文藝春秋)には、ハラリに関する言及も引用も一切ありません。それ自体が、ハラリに対する彼の端的な評価だと思います。おそらくトッドの認識では、ハラリなど視界に入れる水準にも達していないエセ学者ということなのでしょう。
本村 人口動態学を基本に据えて、家族類型によってデモクラシーを分析したところがトッドの慧眼ですね。
(※次回1/5公開予定)