宗教的確執を抱えるロシア・ウクライナ戦争やイスラエル・ハマス戦争が勃発、国内では安倍元総理銃撃事件が起こるなど、人々の宗教への不信感は増す一方だ。なぜ宗教は争いを生むのか? 国際情勢に精通した神学者と古代ローマ史研究の大家が、宗教にまつわる謎を徹底討論——。
2024年1月31日に刊行予定の『宗教と不条理 信仰心はなぜ暴走するのか』(幻冬舎新書)は、日本人が知らない宗教の本質に迫る知的興奮の一冊です。その発売の前に、一部を先行してお届けします。
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(前回を読む)
本村 そういえば、『多神教と一神教』を出したときに意外だったのは、読んだ人から「本村さんはキリスト教徒ですか?」と言われたことでした。なぜかそう思わせるところがあったらしくて。
佐藤 なるほど。でも、たとえば『ローマ人の物語』(新潮社)の塩野七生さんと比較したら、そう思わせる部分があります。塩野史観では、キリスト教を導入して以降のローマはどんどん偏狭になっていきますからね。「多神教は寛容で、一神教は非寛容」だというメッセージを強く押し出しています。
本村 たしかに、ローマがキリスト教を導入してから変わった面はなくはないでしょうけれどね。ただ、キリスト教が一神教だから暴力的だとは僕は思いません。
佐藤 塩野史観にかぎらず、世間では「一神教は多神教よりも非寛容」だと思い込んでいる人が多いですよね。でも、たとえばミャンマーでベンガル系ムスリムのロヒンギャを迫害しているのは仏教徒です。あるいはスリランカでタミル人と内戦をやっているシンハラ人も大半が仏教徒でしょう。たった二例を挙げるだけで、「多神教は寛容」説に反証できてしまいます。
そもそも「八百万の神」の大日本帝国だって、八百万の頂点にいる天照大神を祖先神とした現人神の天皇のもとでかなり乱暴だったわけですよ。それを脇に置いて日本人が「多神教は寛容だ」などと言うのは、議論のレベルが低すぎます。
本村 まあ、居酒屋談義のレベルですよね。多数の神々だから寛容で唯一の神だから非寛容だというのは、非常にわかりやすいレベルの反応だと思います。
結局、唯一の神であっても、キリスト教の神は本来ならば無私の神であって、許すことのできる神ですよね。自分の行ったことを懺悔するというのは、人間が過ちを犯しやすいことを認めているわけです。許しの場所を設けるというのは、非常に寛容であるように思われます。逆に、ユダヤ教の神は非常に厳格な神であり、罰することを当然とする。
佐藤 逆に、一神教であるがゆえの寛容さというのもあるわけです。というのも、一神教の信者は基本的に「神と自分」の関係にしか関心がないからなんですね。だから他人に対しては「無関心」という意味で寛容になり得るんです。家庭でも、妻が夫への関心をなくしていたら、何をやっても文句をつけられないでしょ(笑)。
ですからエルサレムも、昔はロシア正教やヤコブ派(シリア正教会)を含めていろんな宗派が入ってきても、隣人が何を信仰しているか誰も知らないし、関心もなかったんですよ。これは、一神教であるがゆえの無関心です。
本村 それこそ表札に名前のないマンションみたいな感じですね(笑)。どこに誰が住んでいてどんな生活をおくっているのかわからない。だから争いが起こりようもない。
佐藤 そうなんです。あそこで宗教をめぐるドンパチが始まったのは、イスラエル建国の頃からですものね。それは「一神教同士の対立」というより、ナショナリズムの問題なんですよ。
ですから結局のところ、戦争は人間が群れをつくる動物だから起きるのだと思います。群れをつくるから、縄張り争いが生じてしまうんですよ。
本村 それは人間の本性でしょうね。
佐藤 たぶん、人間だけではありませんよ。わが家では以前、ダボハゼ(アカオビシマハゼ)とヤドカリを一緒に飼っていたんです。ダボハゼは最初のうちメダカぐらいの大きさだったので、油断していました。それが五センチぐらいまで育ったら、ある日ヤドカリが全滅していたんですよ。ダボハゼがヤドカリを食べてしまった。だから水槽を二つに分けました。
その後、こんどはイソガニを取ってきたんですね。同じ水槽に二匹入れておいたら、カニたちも殺し合いを始めた。
本村 イソガニ同士で? 餌が足りないわけではないでしょうに。
佐藤 餌をめぐる争いではなく、本能的なものなんです。30センチぐらいの水槽だと殺し合いを始めちゃうので、イソガニは複数飼いが難しいんですよ。だからこちらも水槽を分けましたが、それを見ているとイソガニも人間も基本的に同じだと思いますね。
ですから、戦争を宗教と結びつけて読み解くというアプローチ自体が妥当なのかどうかも、よく考えないといけません。たしかに宗教が戦争や暴力を加速させることはあるでしょうが、それは皮相的な話にすぎないかもしれないわけです。
本村 前におっしゃったように、宗教は「大義」の説明をショートカットできますしね。もともと本能的に人が戦争状態にあったとしても、人には理性があるから戦争を行うには理由付けが必要になる。その理由付けを宗教はすべて満たしてくれる。
ナチズムとファシズムは違う
佐藤 ウンベルト・エーコが晩年に書いた『永遠のファシズム』(和田忠彦訳/岩波書店)という本がありますが、戦争を考える上でこれは非常に示唆に富んでいると思っています。
それによると、ファシズムの起源は「人間が群れをつくる動物だから」という生物学的な問題だったというんですね。「あいつらはトカゲを食う」「こいつらはニンニクを食う」、だからわれわれと違うんだ──ということで、それを排除し始める。群れをつくる動物には原初的にファシズムの原型が備わっているから、常に反ファッショ教育を行うなど脱構築の努力をしなければいけない、というわけです。
さすがファシズムが生まれた国の知識人だと思いますね。戦争も、そういう人間の本性から説明するほうが納得できるんじゃないでしょうか。
本村 佐藤さんは以前どこかで「ナチズムとファシズムは違う」とお書きになっていましたが、そこを区別できていない人は多いですよね。
佐藤 ナチズムは非常に特殊で荒唐無稽なケースですからね。そこには、ドイツの特殊性と「血と土」の神話と「ドイツは痛めつけられてきた」という意識が共有されていた。
本村 一方のファシズムは、より普遍的に人間の本性に組み込まれている。
佐藤「パレート最適」などで知られるイタリアのヴィルフレド・パレートなんか、戦前・戦中の時点では「ファシズムの経済学者」と紹介されていましたからね。パレート自身、ムッソリーニと仲が良かったんです。スイスのローザンヌ大学には「ファッショ・インターナショナル」があって、ファシズムの国際運動をやっていました。
子どもの発達モデルに基づいたモンテッソーリ教育を考案したマリア・モンテッソーリもファシズムの流れで理解されています。彼女のこともムッソリーニは評価していました。ムッソリーニにとっては、イタリアのために努力している人が立派なイタリア人なんですよ。そこに男も女も関係ない。また、人間には能力差があるから、障害者がいることも当然の前提になっている。モンテッソーリ教育は、日本では英才教育として受け入れられているけれど、あれはもともとは障害児教育なんです。
そういうことを含めて考えると、ファシズムはまだ潜在力を使えていないから、今後また蘇ってくる可能性があるんですよ。ナチズムは潜在力を十分に使ったと思う。あれはもう、今後はなかなか出てこないでしょう。
本村 ファシズムの語源である「ファッショ」は、もともとローマ人の高官が出歩くときに棒の上につける飾りのことなんですよ。権力の象徴みたいなものですね。イタリア語で「束」や、そこから転じて「集団」を意味する言葉でもあります。
佐藤 そこに人々が集まってくるわけですからね。「束ねる」という役割があった。ムッソリーニは、古代ローマのイメージを最大限に使いましたよね。
本村 そうです。コロッセオの横にとても大きな通りをつくったりね。あと、現在のローマの近くに古代文明の博物館があるんだけれど、そこに20メートル四方ぐらいの古代ローマのジオラマがあるんですよ。それもムッソリーニの時代につくられました。
佐藤 それも国民を「束ねる」ためでしょう。いずれにしろ、人間が群れをつくる動物である以上、ナショナリズムやファシズムの台頭は避けるのが難しい。だから戦争も起きてしまうわけです。
戦争を加速させる「殉教」の問題
本村 ただ、その戦争を宗教が加速、過熱させる側面はあるわけですよね。「神のためなら命を投げ出せる」となると、激しい戦闘も厭わなくなるでしょう。
ローマでは、キリスト教がだんだん頑なになっていくにつれて、「殉教」という考え方が出てきました。いちばん初期の例として有名なのは、カルタゴのペルペトゥアという女性です。
佐藤 信仰のためならライオンに食われてもかまわない、という話ですね。
本村 そうそう。203年に逮捕されて、闘技場で野獣刑に処されました。自分の神に仕えるために、ローマ皇帝には跪かなかった。周囲の人たちは「そこまでする必要はないじゃないか」と説得しましたが、彼女は信仰を守って死ぬことを選んだんです。当時のローマ人にとっては、理解できない行動だったでしょうね。
佐藤 その一方で、キリスト教の布教を禁止した清朝の雍正帝の前で土下座したイエズス会のようなケースもあります。信仰の本質さえ譲らなければ、土下座のような形式的な問題には拘らない。
本村 遠藤周作の『沈黙』(新潮社)では、逆にポルトガルから来たイエズス会の宣教師が日本の論理に負けていきますよね。むしろ日本のキリシタンのほうが殉教的な傾向が強い。最近、『殉教の日本 ~近世ヨーロッパにおける宣教のレトリック』(小俣ラポー日登美/名古屋大学出版会)という本が出ましたが、それを読んでも、日本では「殉教」が美化されやすいようです。
佐藤 『沈黙』のエピソードについては、私に言わせればイエズス会の指導が間違っているんです。踏み絵なんて、言われるままに踏めばいいんですよ。
実際、オランダ商館の人たちは踏んでいたでしょう。あんな板に描いてあるのは偶像ですから、そんなものを信仰の対象としていること自体がおかしい。遠藤周作はカトリックでありながら、よくそこに気づいたと思いますよ。むしろ、それを踏むことによって信仰が強化されるわけです。
ちなみに、遠藤周作の原作を映画化したマーティン・スコセッシの『沈黙 —サイレンス—』を神学部の若い助教が「すばらしい映画だから」と学生たちに見せたんですよ。すると、私がいちばん目をかけている女子学生が手を挙げて「ひどい映画ですね。カトリックのプロパガンダそのものじゃないですか」と発言したんです。
というのも、あの時代は三十年戦争の最中で、対プロテスタント殲滅戦をやっていました。その人たちが、日本で違うことを考えていたとは思えない。映画で取り上げられた局面より前には、神社仏閣に対する焼き討ちなども散々やっていた。棄教を迫られた部分だけ取り上げて「宣教師が酷い目に遭っている」というのは、とんでもないプリズム効果だというわけです。そもそも日本の文化や風土を無視して強引に宣教したのだから、ああいう目に遭うのは当然だ、私は井上筑後守が正しいと思う——と。
本村 ずいぶん優秀な学生じゃないですか。
佐藤「なかなかよく理解してますね」と褒めましたけれどね(笑)。映画が原作と違うことにも怒っていました。最後にロドリゴ神父が棺桶の中でキリスト像を握らされているのがおかしい、あれでは最後まで改教しなかったことになるので原作の趣旨と違う、二重三重の意味で最低の映画だと酷評していましたね。われわれはプロテスタント神学を学んでいる人間だから、映画監督の視線ではなく、プロテスタントの立場から見るとどう評価できるかが授業の課題なんです。
本村 映画は教材としてよく使うんですか。
佐藤 はい。前にお話しした『新しき土』も見せました。面白かったのは、1982年に北朝鮮で製作された『月尾島 ウォルミド』という映画ですね。朝鮮戦争で「米軍の上陸作戦を三日間遅延させよ」という命令を受けた100人ぐらいの砲兵中隊が、2万人の米軍を相手に命令を果たし壊滅したという伝説に基づく話です。
最後は弾薬も尽き果てて、手榴弾を持って敵の戦車に飛び込んでいくところで終わるんですが、学生たちに見せたら「これはすごくキリスト教的ですね」という感想を口にしていました。金日成がイエス・キリストで、朝鮮労働党は教会だというわけです。金日成や教会のために殉じれば、その人の命は永遠に生きる。
本村 まさにキリスト教の殉教と同じ構図ですね。
佐藤「先生、この構図はプレスビテリアン(プロテスタントの長老派教会)そのものですよね」というので、「金日成は長老派のキリスト教徒なんだ」と言いました。世俗化した価値観の中にキリスト教が潜り込んでいるんですね。
(※次回は2月上旬公開予定)