宗教的確執を抱えるロシア・ウクライナ戦争やイスラエル・ハマス戦争が勃発、国内では安倍元総理銃撃事件が起こるなど、人々の宗教への不信感は増す一方だ。なぜ宗教は争いを生むのか? 国際情勢に精通した神学者と古代ローマ史研究の大家が、宗教にまつわる謎を徹底討論——。
発売直後から話題の『宗教と不条理 信仰心はなぜ暴走するのか』(幻冬舎新書)は、日本人が知らない宗教の本質に迫る知的興奮の一冊です。その試し読みをお届けします。
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(前回を読む)
神を人間の「外部」に位置づけたカール・バルトの弁証法神学
佐藤 悲劇が訪れることが明白でも、人間は時にその選択をとってしまう。そうなると、人間の理性がどこまで信用できるのか疑問になりますし、その人間の心の中に神がいるという位置づけで大丈夫なのかと不安にもなります。そこで、改めて「上にいる神」と言い出したのが、スイスのプロテスタント神学者カール・バルトです。
ただしこれは「天」のような空中的な「上」ではなく、「外部」と言ったほうが適切ですけどね。神をそこに位置づけることで、人間が神について考えるのではなく、神が人間について語っていることにもういちど耳を傾けようという主張です。
ここから、「危機の神学」とか「弁証法神学(べんしようほうしんがく)」などと呼ばれる神学運動が始まりました。シュライエルマハーの近代自由主義神学は近代的な知識人やブルジョア社会の要求に適合するものでしたが、資本主義の矛盾や帝国主義戦争を解決する力を持たなかったんですね。大戦後の荒廃の中で、人々は教会の無力に失望していました。そこに登場したバルトの弁証法神学は、キリスト教神学が近代主義の枠を乗り越えて現代的展望を持つ突破口となったわけです。
バルトの『ローマ書』という本が刊行されたのは1919年ですから、その背景には、物理学における量子力学、ゲーデルの不完全性定理、あるいは美術界のキュビズム、文学における表現主義、さらには実存主義哲学などの出現があったと思います。いずれにしろ、第一次世界大戦は当時の人々にとって、それまでの常識をすべてひっくり返すような恐ろしいインパクトを持っていたわけです。
本村 前におっしゃったように、その時点で近代の限界が見えていたわけですね。ところが第二次世界大戦では、限界が逆に見えにくくなった。
1928年に結ばれた不戦条約は第一次世界大戦で懲りた人々によって締結されたのに、抑止力になることもなく、再び戦争が起きてしまいました。そのほかにも、第二次世界大戦の大きな要因である世界恐慌に対して、アメリカはニューディール政策をとりますが、ある程度成功を収めるけれども、やはり最終的には成功しなかった。
不戦条約や経済政策といった、人間の知力を尽くした行為がありながら、再び大きな世界大戦になってしまった。天井がわからなくなってしまいました。
佐藤 そうです。第一次世界大戦と第二次世界大戦は「20世紀の三十一年戦争」と考えたほうがいいんですが、第二次世界大戦はアメリカが本格的に参戦しました。
しかしアメリカは、基本的に「18世紀の国」なんです。戦争に苦しむヨーロッパで反動としてのロマン主義が出てきたときに、アメリカではフロンティア開拓という形でそのロマンが実現しちゃうわけですよ。だから、近代社会の矛盾をめぐるヨーロッパ人のウジウジした心境が、アメリカ人にはよくわからない。そういう鬱屈みたいなものがないから、アメリカ人は金持ちをストレートに尊敬したりするでしょ? そういう意味でも、アメリカは18世紀の国なんです。
本村 第一次世界大戦では「19世紀の国々」が限界に突き当たり、第二次世界大戦では「18世紀の国」が勝ったわけですね。歴史の逆行というのは、じつはこれ以前からも起きてはいます。
三十年戦争後にウェストファリア条約が成立して、国民国家としての近代国家が生まれました。それぞれの国がこれ以上は宗教的対立をしない、という了解ができたと思っていたわけですが、オーストリア継承戦争が起こりました。
君主のマリア・テレジアは、長年にわたって敵対していたフランスと同盟してプロイセンに対立し、七年戦争が起こってしまいます。もう国民国家・近代国家ができたという了解があったのに、逆行して仕返しをすることになった。こういったことは繰り返し起きています。
佐藤 そういうことだと私は考えています。第二次世界大戦ではアメリカが大量の物量によって勝利しました。18世紀的な「理性」が勝ったために、第一次世界大戦後に生じた時代の危機が見えなくなり、解決が先延ばしになったんですね。
ところが、いまはそのアメリカも弱り始めています。そのために、第一次世界大戦で明らかになった問題が揺り戻しのように表出しているのでしょう。宗教的な価値観戦争に日本もリアリティを持って関与していること自体、時代がきわめて厳しい状態になっていることを物語っていると思います。
AIは現代の「一神教」を生むのか
本村 科学と宗教の関係性は、近代が抱える大きな問題のひとつだと思います。地動説にしろ進化論にしろ、科学は次々と新しい知見をもたらしますよね。宗教は、それと折り合いをつけないといけないわけです。
しかし基本的には、やはり科学のほうが勝つわけですよ。とくに一神教の場合、「全能の神」の前では人間は弱者であり、神の前では平等だと考えるわけですよね。ところが近代科学によって、「全能の神」という前提がいったん崩れてしまった。さらに科学技術がどんどん進んだ結果、人間が頭で考えることよりも、AIの出してくる答えのほうが正しいんじゃないかと思われるようになってきたわけです。これがまた新たな「一神教」になるかもしれません。それが人類にとって僥倖なのか危険なのか、いずれにしても避けようのない流れなのかもまだわかりませんが。
佐藤 たしかに、いまAIが果たそうとしている機能はそれに近いですよね。国会の質疑でも対話型AIを使ったりしていますが、まだ危ない。
本村 私はまだ使ったことがありませんけれど、どうなんですか。
佐藤 一見するとまともな感じのする、それっぽいことは言いますけれど、ときどき、とんでもない答えが出てきますね。
本村 しかし今後はどんどん進歩していくでしょう。人間の知能を超えるという予想もあります。かつての「神権」が「人権」になったのが近代だとすると、次はその「人権」がAIという権威に奪われるかもしれません。これはある意味で、神が人間社会を支配していた中世に逆戻りするような面もある気がするんですよ。前近代における神の位置にそのままAIが据え置かれる。戦争や暴力の是非も、人間の判断ではなく、AIが決めることになるかもしれない。