漫画家の鳥山明さんが亡くなった。わたしが中学生になったころ『ドラゴンボール』の連載がはじまり、わが家はずっと、父親が子どものために毎週『週刊少年ジャンプ』を持って帰ってくる家だったから、そのあらすじや登場人物はよく知っている。しかしそれについて誰かと語り合ったり、コミックスを全巻揃えたりということはなかったから、ハマったというほどではなかったのだろう(ほかの作品と比べ特に線がきれいで、洗練されているとは思っていた)。
しかし考えてみれば、当時人気漫画が目白押しだったジャンプの中でも、これが特別好きだったという漫画はなくて、どれも内容なら知っているという程度。いまならわかるがわたしは漫画というものが少し苦手で、特にジャンプが得意としていた長大なストーリー作品に、自分を預けることができなかったのだと思う。
もちろん当時、『ドラゴンボール』にハマっていた同級生はたくさんいた。このあたりが人生の分かれ目という気もしていて、そうした流行りをどう受け取ったかで、その後の人生の過ごしかたが変わってくるようにも思う(一旦社会に出てしまえば、人はモザイク模様のようにバラバラに散ってしまうが、それにハマった人ハマらなかった人でふたたび集めてみると、面白い違いが見えてくるのではないか)。
数年前、主人公がただ歩くだけ、歩くにつれて風景が少しずつ変わっていくだけという、谷口ジローの『歩くひと』を読み、これはわたしのための漫画だと思った。だがそれは漫画として読んでいたのではなく、描かれた風景のなかに自分を浸す、長いフィルムのようなものとして受け取っていたのだと思う。思えばこれまで心に残っている映画や小説についても同じで、重要なのはそれに触れているとき、世界に触れたと思えるかどうかということ。ストーリーは覚えていなくても、喚起力の強いワンシーン――例えば映画『ユリシーズの瞳』で、重たい空の下、ドナウ川をゆったりと流れていく巨大なレーニン像や、『秋刀魚の味』で唐突に挟み込まれる軍艦マーチ――だけをいつまでも憶えているのだ。
わたしはおそらく、世界をストーリーのある物語として読んでいるのではなく、そのときそこにある一片の詩のようにして見ているのだと思う。だから人からはよく淡々としているねと言われるが、この人とは少し合わないなと感じるときなどは、掘り下げていけばそのあたりに根深い違いがあるのだろう。
そしてそうした自分がつくる店も、“思いにあふれた店”ではない。それはできる限り“思い”を排したもの、その時々で本の重なりがつくる一つの世界として、より完成度が高いものを目指している。そこにわたしの物語はなくても、棚の中に一つの世界が現れていればそれで正解、それがうまくいっていればいいなと思うのだ。
しかし、そうした散文的な人生を生きていれば、孤独ということは避けられない。街を歩いていて、ふと自分だけがその中にいないと感じるときがあるが、そのようなわたしは、世界を見ることに慣れすぎて、その扉を開くことを忘れてしまっているのかもしれない。
わたしはこのまま世界を見ているだけなのか?
それって生きていると言えるのだろうか?
少し疲れたときなどには、そうした気持ちに取りさらわれることもある。
人間とはわがままなもので、たまにはわたしも物語が恋しくなるのだった。そしてそのために扉は開かれなければならず、そこにいる他者の存在があってはじめて、わたしはわたしの物語を生きることができるのかもしれない。
もう遅すぎるかもしれないが、そうした出入りがうまくできる人になりたい。
今回のおすすめ本
『口の立つやつが勝つってことでいいのか』頭木弘樹 青土社
語られなかった思い、言い淀みにこそその人の真実がある。弱い人への視線があたたかな、著者はじめてのエッセイ。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2024年12月6日(金)~ 2024年12月23日(月) Title2階ギャラリー
2023年に絵本雑誌『さがるまーた』創刊号が刊行されて約1年。新たにVol.2が刊行されたことを記念して、原画展を開催します。vol.2のテーマは「わからない と あそぶ きもちいい と まざる」。創刊号以上にチャレンジのつまった一冊となっています。23人の作家たちが織り成す多種多様な世界を、迫力ある原画や複製原画などとともにお楽しみください。
◯2025年1月10日(金)19時30分スタート Title1階特設スペース
ポストトゥルースに向き合う
青木真兵×光嶋裕介『ぼくらの「アメリカ論」』刊行記念トークイベント
アメリカ大統領選ではドナルド・トランプが圧勝、国内でも選挙のかたちに変化が現れるなど、2024年はまさに「真実」が揺さぶられる1年でした。これからますます顕在化しそうなポストトゥルースに、私たちはどう向き合えばいいのか。大統領選直前に刊行された『ぼくらの「アメリカ論」』(青木真兵、光嶋裕介、白岩英樹著、夕書房)を媒介に、危機感を共有する著者のお2人が、本書のその先を熱く語り合う1時間半です。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【書評】
『決断 そごう・西武61年目のストライキ』寺岡泰博(講談社)ーー「百貨店人」としての誇り[評]辻山良雄
(東京新聞 2024.8.18 掲載)
◯【お知らせ】
我に返る /〈わたし〉になるための読書(3)
「MySCUE(マイスキュー)」
シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第3回が更新されました。今回は〈時間〉や〈世界〉、そして〈自然〉を捉える感覚を新たにさせてくれる3冊を紹介。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。
毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間
東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。