『パーティーが終わって、中年が始まる』を発売日に読み、あまりのおもしろさに興奮したという経営コンサルタントの坂口孝則さん。シェアハウスを主宰し、インターネットを駆使した自由な生き方で注目を集めた著者であるphaさんと坂口さんは同じ1978年生まれです。phaさんの変化を坂口さんはどう読んだのでしょうか?
ライブハウス、ノイズ、青春の終わり
私が16歳のとき。約30年前。ライブハウスにはじめて足を踏み入れ、タバコの煙、酒、喧騒、喧嘩、緊張感に包まれながら、最高の音楽を聴いた興奮は、それを経験していない人に伝えるのは難しい。
演奏がはじまった瞬間に、それまで客席で無口だった男たちが叫びながら集まり、モッシュとダイブを続ける。ステージのアーティストはあとのことを考えずに、ただただ今に集中し、熱情と狂気だけを武器に演奏を続ける。ステージにはたったの3人だか5人しかいない。楽器と叫びだけで、会場の誰をも熱くそして振動させる。
なんだろう、この世界は。
佐賀県で過ごしていた私は週末のたびにライブハウスに出かけ、そこでハードコア、ノイズ、メタルといった音楽を聴いた。大げさにいえばそこには両親がそれまで教えてくれなかった人生のすべてがあった。何もかもが私にとって新しく、暴力的で、そして衝撃的だった。
私はその後、社会人になり会社を設立したり、書籍を出版したり、テレビの情報番組でコメンテーターをしたりするようになった。現在、複数のプロジェクトを主催している。しかし、いまだに16歳のころの光景を忘れずにいる。
私は、あのときに得た体感や興奮を、形を変えて味わいたいだけではないのか。起業も出版もプロジェクトも、ライブハウスでの煌めきのような何かをふたたび希求しているにすぎないのではないか。
現在でも、新たな刺激をもとめてライブハウスに向かう。年齢に抗おうと、配信サービスで新曲ばかりを聴く。しかし聴いても聴いても、この年齢ではじめて聴いた、と思えるみずみずしい感動には出会えない。
もしかすると、音楽でも人物でも、40代になってから出会う多くは、かつて出会ったものの再会かもしれない。はじめて聴いても以前に聴いた何かとの連関を思索してしまう。新たに会う人物にも、別れたり疎遠になったりした人物のかけらを探してしまう。
経験するほどのちの人生のみずみずしさがなくなるとは、人間は悲しい動物にほかならない。
40代から始まる本物の衰退
phaさんの著書『パーティーが終わって、中年が始まる』は40代中盤男性の、すがすがしい悲哀感を描いたエッセイだ。phaさんは日本でもっとも有名な元ニートといっていいのか、元シェアハウス企画者といっていいのかわからない。同書では、著者が一人暮らしをはじめ、そして書店員として働く過程で感じた、中年としての危機を吐露している。
私は「すがすがしい悲哀感」と書いた。あるいは、同書のなかで登場する「みずみずしい喪失感」といってもいい。この矛盾するような組み合わせこそが、もっとも本書を表しているように思う。つまり中年の悲哀を感じたばかりのみずみずしさ。それが同書にあふれており、多くの中年の共感をつかむだろう。
なお、phaさんは私とも同年齢の1978年生まれであり、日本人の年齢中央値は48歳だからそれとも近い。この『パーティーが終わって、中年が始まる』は日本人の中央値たる世代が感じる悲哀と喪失の代弁と位置づけることもできる。
ページをめくるたびに等身大の実感によりそった文章が続く。
「もうだめだ」が若い頃からずっと口癖だったけれど、今思うと、二十代の頃に感じていた「だめ」なんてものは大したことがない、ファッション的な「だめ」だった。四十代からは、「だめ」がだんだん洒落にならなくなってくる。これが衰退と喪失なのだろう。
孤独を愛していた著者なのに、一人は寂しいと書く素直すぎる文章もいい。
昔は「ひとりでいるのが一番楽しい」と平気でうそぶいていたのに、ひとりでいる時間がやたらと寂しくてしかたなくなってしまった。
こんな状態なら、会社勤めが普通にできそうだ。ひとりでひたすら虚無の時間を過ごすくらいだったら、会社にでも行っていたほうがいい。そうか、みんなこんな感じで会社勤めをしていたのか。
そして著者は40代からバンドをはじめるが、追憶ゆえと認める。
ヒップホップやユーチューバーならパソコンやスマホが一台あれば活動できるのに比べて、バンドは結構大変だ。楽器の練習も面倒だし、スタジオを借りないと練習できない。ライブハウスでライブをするのもお金がかかる。
それでも自分たちが今さらバンドをやるのは、若い頃にバンドをやらなかったという、失われた青春を取り戻そうとする気持ちがあるのだろう。
そして、私が冒頭で描いた人生への感想ともつながる。
四十代になった今はもう、ここではないどこかに何かもっと素晴らしいものがあるはずだ、という気持ちはあまりなくなってきた。大体のことはもう見た気がする。期待を超えることはもうそんなに人生で起きないのだろうと思う。
ところで、同書は悲哀だけではない。ふいに読者を笑わせる文章と出会う。
たとえば今後の人生についての箇所だ。
貯金があと半分くらい減ったらさすがに尻に火のようなものがついてきて、「そろそろ真剣に考えないといけないな、人生とか」という気持ちになるのではないか、とぼんやりと期待しているのだけど、実際にそのときになったら「さらに半分くらいになるまで意外と平気だな」となりそうな気もする。
どちらかというと、哀しみが覆うテーマなはずなのに、それでいて本書全体が洒脱なのは、著者が文章の可能性を信じているからにほかならない。
説明するのも野暮だが、タイトルの「パーティー」は30代のことだが、同様の感情を抱く40代以降の人たちは手に取ったほうがいい。問題が解决するわけでも、前進するわけでもないが、きっとphaさんの文章はただただあなたのそばにそっといてくれる。
パーティーは終わっても人生は続く
青春という言葉を容易に使いたくはないものの、青春期には、性欲に衝き動かされたり、自分の可能性を探したり、また人間関係での感傷に心が揺れ動いたりした。そこでは歓喜と絶望がめまぐるしく移りゆく苦しい時期ではあるものの、同時に人生の柔らかな充実感があった。そして中年になるとは、心の傷つきやすさや感動しやすさを失っていく過程であるといえる。
輝く時間は10代の終わりから30代の中盤までと短いのに、その後も人生は続いていく。なんと残酷なことだろう。私たちは自分の人生を通じて、人間とは何か、社会とは何かを知ることになる。男性の中年化について語った書籍は多く、おそらく著者も読んでいただろうし、私も読んでいたが、経験によって中年というものの認識を深めるしかなかった。
ただし中年とは艶がなくなるといった負の側面だけではない。
これから芽が出る者と、花がしぼんでいく者。この両者が混じり合って社会が成り立っていると認めることこそ円熟ということではないか。夢の光を追いかけた時代と、希望と現実の差異に打ちひしがれた時代を経て、自分の限界も内実も受け入れるようになってこそ、人は自己認識を深めることができる。
その証拠に、私は著者の過去作品を拝読しているが、最新刊『パーティーが終わって、中年が始まる』ではこれまでにない文体と内容に著者の新たな季節の到来を感じさせる。
人生の価値が刺激から美への移り変わるとき
最後に私がもっとも強く感じたことを述べる。
私はよく長時間の散歩をする。繁華街の外れで、地べたに座り輪になって酒を飲み合う、50代くらいの集団とよく出会う。日焼けか酒焼けでほてった顔を隠そうともせず、語り合い、相槌を打ち、そして笑顔と大声であふれている。そこには一切の悩みも後悔もないように感じられ、人生の循環をただただ抱きしめているようにも見える。
おそらく――、著者は中年になった自分を諦念している。しかし、この集団のように、諦念しきってはいない。繰り返す、諦念「しきって」はいない。この差異が私にとってもっとも重要だと思われた。青年期の輝きと決別することは、人生に諦念しきることではない。著者は今後の人生を美しくしたいと思っているのだ。そして著作の世界観を美しくしようとしているのだ。そこには刺激から美へのあざやかな転換がある。
私は、さきにパーティーとは30代のことだと述べた。この本が投げかけるのは、なぜ人間は自分自身が若いと、他者からも自己も認識されたいか/認識したいか、という問題に帰着する。考えてみれば不思議な話で、「自分の幸福なんて他者がどう思っても関係ないでしょ」という人ですら、他者から、おじさんとかおばさんとか、老けて見られると残念に思ったり嫌に感じたりするようだ。
『パーティーが終わって、中年が始まる』を通して、その理由が明らかになる。つまり私たちは無知で無経験な人間であり続けたいし、それが幸福の源泉ということである。おじさんとおばさんになると、人生の刺激と愉悦がないと認識しているがゆえに、自分がおじさんおばさんと見なされたくないわけだ。しかし同書は“美”という新たな価値観を提供した。
現在、日本語では「おじさん」「おばさん」「中年」しかない。しかしこれから中年が大半になる社会では、「諦念しきった」側と「諦念しきってはおらず美を追求する」側の、二つに概念がわかれていくだろう。
そのときあなたはどちら側に立っているだろうか。これが本書の突きつけた最大の問いである。
私たちはパーティーが終わって、中年が始まり、さらにその先の人生も考える必要があるのだから。
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パーティーが終わって、中年が始まる
元「日本一有名なニート」phaさんによるエッセイ『パーティーが終わって、中年が始まる』について