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ロンドン留学で夏目漱石に生まれた「被害妄想」
夏目漱石は、子ども時代里子に出されたり養子にやられたりしたうえに、実家に戻ってからも実父に疎まれたこともあり、ひがみ根性が強かった。
松山中学に赴任しても、そこになじめず、そのときの体験をつづった『坊っちゃん』には、土地の教師や生徒に親しみを覚えるというよりも、得体のしれない者として目の仇にする主人公の態度が顕著であるが、それは裏を返せば、漱石が、教師や生徒から疎外感を味わっていたということでもある。
そんな漱石が明らかな異常心理に陥ったのは、ロンドンに留学中のことである。小柄な漱石からすると、背丈の高いイギリス人は、体格からして強い劣等感を抱かせる対象となった。
さらに官費から支給される金だけで留学費用を賄わねばならなかった漱石は、経済的にも余裕がなく、社交や外出を極力控えねばならなかったこともあって、次第に下宿にこもりがちの生活となった。真っ暗な部屋にうずくまって、食事もせずに、泣いているという状態にまで陥った。
下宿屋のおかみである老姉妹は漱石のことを心配してくれていたのだが、漱石はそれはうわべだけで、陰では自分の悪口を言っていると思い込んでいた。「それからまるで探偵のように、人のことを絶えず監視してつけねらっている」とまで勘繰っていた。被害妄想や幻聴にとらわれていたのである。
「気分転換に自転車に乗ってみては」と勧めてくれたのも下宿屋の老姉妹で、同じ下宿にいた日本人留学生が漱石に乗り方を教えてくれたのだが、漱石はこうした親切も、「悪意ある敵」からの責め苦だと受け止めてしまうのだった。
一刻も早く帰国して、精神を休めることが必要だったと思われるが、そうした状況にありながらも、漱石は帰国費用として届いた金で、取り憑かれたように本を買い漁るという具合で、同宿の留学生が心配して、帰国の船のチケットを確保させたほどであった。
学問をして業績を上げねばならないという使命感だけが空回りしていたと思われる。
帰国後に突然、娘を殴りつけた漱石
どうにか帰国した漱石を、妻の鏡子が神戸まで迎えにいくと、特別に変わった様子もない。ほっと一安心していると、家に戻って4日目に不可解な行動を見せた。
娘と火鉢に当たっていた漱石は、火鉢の縁に銅貨が載せてあるのを見るや、だしぬけに娘を怒鳴って殴りつけたのである。理不尽な仕打ちに娘は泣き出し、妻の鏡子にも理由がさっぱりわからなかったのだが、よくよく聞いてみると、次のような思い込みから出た行動だとわかった。
以下は、妻鏡子の口述筆記による『漱石の思い出』からの引用である。
「ロンドンにいた時の話、ある日街を散歩していると、乞食があわれっぽく金をねだるので、銅貨を一枚出して手渡してやりましたそうです。するとかえってきて便所に入ると、これ見よがしにそれと同じ銅貨が一枚便所の窓にのってるというではありませんか。
小癪な真似をする、堂々下宿の主婦さんは自分のあとをつけて探偵のようなことをしていると思っていたら、やっぱり推定どおり自分の行動は細大洩らさず見ているのだ。しかもそのお手柄を見せびらかしでもするように、これ見よがしに自分の目につくところにのっけておくとは何といういやな婆さんだ。実にけしからんやつだと憤慨したことがあったのだそうですが、それと同じような銅貨が、同じくこれ見よがしに火鉢のふちにのっけてある。いかにも人を莫迦にしたけしからん子供だと思って、一本参ったのだというのですから変な話です」
銅貨をみて子どもを殴りつけたという行為には、漱石なりに理由があったのだが、そこには根拠の乏しい推定や、まったく無関係な過去の出来事との混同といった、事実を歪曲した認識がみられる。
漱石のような優秀な知性の持ち主であっても、明らかな矛盾や誤謬に気づかず、そう信じ込んでしまうのである。
極めて明晰な頭脳をもつ人さえもが、明らかに誤った推論に陥ってしまうのはなぜなのだろうか。
こうしたケースを数多くみてきて言えることは、自分が貶められているという結論が先にあって、すべての出来事が解釈されるということである。「すべての人間は私を莫迦にしようとしている」という結論があって、目にするすべての出来事が、その根拠として解釈されてしまうのである。
漱石は、その後もときどき被害妄想にとらわれ、妻や子どもに怒鳴ったり、女中を辞めさせたりするようになる。
だが、漱石の精神はすっかり破綻していたわけではない。というのも、漱石が次々と作品を書き、作家として名を成すのは、こうした漱石の被害妄想が始まって以降のことだからである。
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あなたの中の異常心理
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