わたしが子どものころ、「戦争」とは、本や映画のなかにあるものだった。
わたしの父は昭和14年生まれ、母は19年生まれだから、あの戦争のときはまだ年端のいかない子ども。だからという訳ではないだろうが、両親から戦争の話を聞いたことはなかったし、こちらからわざわざ尋ねることもしなかった(彼らが早くに亡くなってしまったこともある。訊かなかったことに関してはいまも後悔している)。それを意識せずとも、生きていける時代だったのだと思う。
わたしがはじめて「戦争」に触れたのは、以前勤めていた会社の転勤で、広島に住んでいたときだった。現在の広島は、100万人以上が暮らす現代の都市だから、ふだん「戦争」を意識する場面はほとんどない。当時わたしが働いていたのも、若い人が多く集まるファッションビルで、地元の人と戦争や原爆について話すことは一度もなかった。しかし、川沿いを歩いているときやチンチン電車に乗っているときなど、ふとそのことが頭をよぎるのだ。
いまわたしが踏んでいるこの同じ土地で、かつて大勢の人が一瞬にして亡くなった。
目のまえの景色は途端に色あせ、本や映画、資料館で見た光景が、同じ場所にページをめくるようにして現れる。かつてこの場所に存在していた一つ一つは異なる人生が、大きな力によって一瞬にして押しつぶされたのだ。わたしは体じゅうから、力が抜けていくのを感じた。
死者の魂を弔い、それを海や川に流す灯籠流しは全国で広く行われているが、広島ではそれが、特に原爆の犠牲になった人たちの魂を鎮める儀式として行われている。当時わたしは、太田川という川の近くに住んでいたが、毎年8月6日の夕方になると、部屋の窓から灯籠流しの灯が、川面にちらちらゆらめきながら流れていくのが見えた。川原まで行き、少し離れた場所からぼうっと光る灯籠の灯りを眺めていると、いまの我々と変わることのないいのちが、かつて確かに存在したことを実感できた。
今年の8月6日は、「原爆の図 丸木美術館」をはじめて訪れた。美術館は埼玉県東松山市の都幾川のほとりにあり、丸木位里・俊夫妻が共同制作した「原爆の図」を常設展示するために建てられた場所だ。「原爆の図」は教科書で見たことがあったし、美術館の存在は前から知っていたが、そこには何かイデオロギーのようなものも貼りついているような気がして、これまでどこか敬遠していた。だがカレンダーを見ると、今年の8月6日は店の定休日。ここ数年、世界で起こっていることを考えると、いまがそのときなのではないかと思い立ち、東松山まで行くことにした。
実際、先入観なく絵を観てみると、「原爆の図」はどこか宗教画を思わせる考え抜かれた構図で、一人一人の姿が力強く描かれた、一枚の絵として美しい作品だった。当日は美術館にとっても特別な日だったから、絵本の読み聞かせや映画の上映会なども行われていたが、映像で見る二人の姿がとにかくチャーミングで驚いた。農村の川べりで動物を飼い、作物を育てながら暮らしている生活から生まれた絵が二人の絵なのだと腑に落ちた。
映画の途中、不意に手や足をあらぬ方向に曲げ、俊さんのデッサンのために寝転がってポーズをとる位里さんの姿がスクリーンに映った。絵に描かれた大勢の被爆した人たちは、彼ら自身がモデルでもあったのだ。それを見ていると、絵筆をとる自分も、犠牲になった被爆者も、そこには何も違いがないんだということを身をもって示しているようで、心動かされた。
広島に原爆が落とされた8月6日。二人は東京に住んでいたが、位里さんのお母さんが広島に暮らしていたこともあり、すぐに広島まで駆けつけ、そこで惨状を目の当たりにした。東京に戻ってきたあと、二人は明るい絵を描こうとしたが、いざ描こうとするとどうしても暗い絵になってしまう。それならばその暗さを見つめ続けるしかないと描きはじめたのが「原爆の図」だった。二人はその後、たくさんの虐げられた人びとから動かされるように、ありとあらゆる人間を押しつぶすもの――南京、アウシュヴィッツ、足尾、水俣、原発など――のことも描いた。
映画の途中、「地獄の図」を製作中の位里さんが、自分はもう地獄に行くことは決まっていると口にした。ヒトラーもトルーマンも天皇も、戦争をしたものはみな地獄行きだが、自分もまた地獄行きなのだと。それは戦争を止められなかったことに対しては、どの人間もみな同じように責任があるということで、だから二人は目をよく見開き、人間というものの愚行を延々と描き続けているのだ。
東松山から東京に帰ってくる電車のなかは、いつもと変わらない風景だった。近くに大学があるのか、夕方のこの時間には、学生らしき若い人の集団に混じり、買い物帰りの主婦や、会社に戻るサラリーマンの姿もあった。
それでもいま、この平和な光景のなかに、「戦争」はあるのかもしれなかった。
世界がこれだけ狭くなり、この同じ時に戦争がどこかの国で行われているとして、「でも少なくとも、戦争なんてここにはない」と、誰が言い切れるのだろうか。
今回のおすすめ本
『文化の脱走兵』奈倉有里 講談社
戦うことではなく、逃げることが勇気である。この時代、大きな声に含まれた欺瞞に気がつくためにも、本を読むことが必要だ。幼き日から続くかけがえのない日常を、ロシア文学を交えて語ったエッセイ集。
◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます
連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBS
◯2024年12月6日(金)~ 2024年12月23日(月) Title2階ギャラリー
2023年に絵本雑誌『さがるまーた』創刊号が刊行されて約1年。新たにVol.2が刊行されたことを記念して、原画展を開催します。vol.2のテーマは「わからない と あそぶ きもちいい と まざる」。創刊号以上にチャレンジのつまった一冊となっています。23人の作家たちが織り成す多種多様な世界を、迫力ある原画や複製原画などとともにお楽しみください。
◯2025年1月10日(金)19時30分スタート Title1階特設スペース
ポストトゥルースに向き合う
青木真兵×光嶋裕介『ぼくらの「アメリカ論」』刊行記念トークイベント
アメリカ大統領選ではドナルド・トランプが圧勝、国内でも選挙のかたちに変化が現れるなど、2024年はまさに「真実」が揺さぶられる1年でした。これからますます顕在化しそうなポストトゥルースに、私たちはどう向き合えばいいのか。大統領選直前に刊行された『ぼくらの「アメリカ論」』(青木真兵、光嶋裕介、白岩英樹著、夕書房)を媒介に、危機感を共有する著者のお2人が、本書のその先を熱く語り合う1時間半です。
【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】
スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。
『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』
著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト
◯【書評】
『決断 そごう・西武61年目のストライキ』寺岡泰博(講談社)ーー「百貨店人」としての誇り[評]辻山良雄
(東京新聞 2024.8.18 掲載)
◯【お知らせ】
我に返る /〈わたし〉になるための読書(3)
「MySCUE(マイスキュー)」
シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第3回が更新されました。今回は〈時間〉や〈世界〉、そして〈自然〉を捉える感覚を新たにさせてくれる3冊を紹介。
NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。
毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。
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本屋の時間
東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。