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本屋の時間

2024.09.20 公開 ポスト

第168回

何をしたいのかわからない辻山良雄

今年は紫式部を主人公にした大河ドラマ『光る君へ』を毎週楽しみに見ているが、第三十四回の放送の中で、中宮・彰子(しょうし)がまひろ(紫式部)に対し、次のように言うシーンがあった。「そなたの物語だが、何が面白いのかわからぬ。男たちが何を言っているかもわからないし、光る君が何をしたいのかもわからぬ」。

 

彰子は何も、意地悪からそのように言ったのではない。それは彼女にとって素朴な疑問で、時の最高権力者・藤原道長の娘として大切に育てられた彰子は、まだよのなかというものがわかっておらず、したがって『源氏物語』に描かれた男女の機微もピンとこなかった。しかしその「光る君が何をしたいのかもわからぬ」という言葉には、わたしが長年『源氏物語』に抱いていた、かすかな違和感の在り処を示されたようで、目のまえが少し明るくなった。

大体が「源氏」に出てくる男君はみな、何をしたいのかよくわからない。彼らのほとんどは皇族か、貴族の中でも最も上流階級に属するエリートで、この国の(まつりごと)の中心にいるはずなのだが、色恋にうつつを抜かすか、さもなければよをはかなんで、ざめざめと嘆き悲しんでいるかのいずれかで、そこに強い信念や人生の目的を見つけることはできない。

でもいまのわたしたちだって、別の時代や違う文化圏にいる人たちからすれば、「ずっと小さな画面を見ているばかりの、何をしたいのかわからない人たち」だろう。そればかりか、この世界にいる多くの人は、自分でもほんとうのところ何をしたいのか、よくわかっていないのではないか。かといってそれを認めてしまえば、話はそこから先に進まないから、いかにも自分で決めましたという顔つきで、それらしくふるまっているだけなのだ。

彰子の何気ない言葉は、案外、人間の普遍というものを突いていたのかもしれない。

数年前、新宿西口の喫茶店で古い友人と会った。用件をひと通り済ませ、少し間が開いたあと、彼は少し躊躇いながらこう言った。「まあ俺は、早くこの世からいなくなろうと思ってるから……」。

わたしは突然のことに驚いて、何も言葉を返すことができなかったが、彼は「だって生きていても、この先何もええことなんかないやろ」と続けた。

彼は大企業の重要な役職についており、世間的には成功した人と見られているが、パートナーとの関係や子どもの進路など、ままならないこともあるようだ。だが彼の憂いは、そうした個人的なことに留まらず、多くの人に共通するもっと根深い場所から発せられたもののように思えた。

誰しも生きていればいつかは病気になる。

人間が地球を酷使した結果、気温の上昇は年々酷くなるばかりである。

世界のどこかでは今日も戦争が行われている。

そのような世界で、人は自分のしたいこともわからないままウロウロと生き、時間がくれば死んでいく。つらいばかりに思えるよのなかで、どうしてこの先も生きながらえていこうと思えるのか。『源氏物語』では巻がすすむにつれ、そうした憂いが深いものとなって現れるが、古今東西の文学は、多かれ少なかれこの無常観を主題にしていると思う。

だが、人になぐさめを与えることができるのもまた文学なのだ。

ドラマの中で、まひろは道長に、わが身に起きたことはすべて「物語の種」であると、作家としての決意を語りつつ、次のように続けている。「ひとたび物語になってしまえば、わが身に起きたことなど霧のかなた。まことのことかどうかもわからなくなってしまうのでございます」。

それは読む人にとっても同じで、たとえそれが「まことのこと」でなくとも、そこに明らかにされている憂きこころが、読むものの辛さやさびしさをなぐさめるのだ。文学は「何をしたいのかもわからぬ」登場人物たちを、何も言わずに包み込むが、それはそうした彼らの苦しみこそが、人間の持つ普遍的な宿業だからだ。

この物語が、作者の生きた時間をはるかに越え、いまも生きながらえている秘密は、案外そのようなところにあるのではないか。

今回のおすすめ本

一年前の猫』近藤聡乃 ナナロク社

猫は、人間とともに暮らしてきた生きものだ。我々のすぐ隣にいながら、我関せずと、その場所で独自の営みを過ごしている。そんなつかず離れずの距離感が、小さな一冊となった愛らしい本。

◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBSHOPでもどうぞ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

辻山良雄さんの著書『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』のために、写真家・齋藤陽道さんが三日間にわたり撮り下ろした“荻窪写真”。本書に掲載しきれなかった未収録作品510枚が今回、待望の写真集になりました。

○2024年11月15日(金)~ 2024年12月2日(月)Title2階ギャラリー

三好愛個展「ひとでなし」
『ひとでなし』(星野智幸著、文藝春秋刊)刊行記念

東京新聞ほかで連載された星野智幸さんの小説『ひとでなし』が、このたび、文藝春秋より単行本として刊行されました。鮮やかなカバーを飾るのは、新聞連載全416回の挿絵を担当された、三好愛さんの作品です。星野さんたってのご希望により、本書には、中面にも三好さんの挿絵がふんだんに収録されています。今回の展示では、単行本の装画、連載挿絵を多数展示のほか、描きおろしの作品も展示販売。また、本展のために三好さんが作成されたオリジナルグッズ(アクリルキーホルダー、ポストカード)も販売いたします。

※会期中、星野さんと三好さんのトークイベントも開催されます。
 

【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】

スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。

『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』

著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト

◯【書評】

『アウシュヴィッツの小さな厩番』ヘンリー・オースター [著]/デクスター・フォード [著]/大沢 章子 [訳](新潮社)ーーアウシュヴィッツを含む3つの強制収容所を生き延びたユダヤ人が書き残した悪夢のような日常とは? [評]辻山良雄
(Book Ban)

『決断 そごう・西武61年目のストライキ』寺岡泰博(講談社)ーー「百貨店人」としての誇り[評]辻山良雄
(東京新聞 2024.8.18 掲載)

◯【お知らせ】

我に返る /〈わたし〉になるための読書(3)
「MySCUE(マイスキュー)」

シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第3回が更新されました。今回は〈時間〉や〈世界〉、そして〈自然〉を捉える感覚を新たにさせてくれる3冊を紹介。

NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。

毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。

関連書籍

辻山良雄『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』

まともに思えることだけやればいい。 荻窪の書店店主が考えた、よく働き、よく生きること。 「一冊ずつ手がかけられた書棚には光が宿る。 それは本に託した、われわれ自身の小さな声だ――」 本を媒介とし、私たちがよりよい世界に向かうには、その可能性とは。 効率、拡大、利便性……いまだ高速回転し続ける世界へ響く抵抗宣言エッセイ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

新刊書店Titleのある東京荻窪。「ある日のTitleまわりをイメージしながら撮影していただくといいかもしれません」。店主辻山のひと言から『小さな声、光る棚』のために撮影された510枚。齋藤陽道が見た街の息づかい、光、時間のすべてが体感できる電子写真集。

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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。

バックナンバー

辻山良雄

Title店主。神戸生まれ。書店勤務ののち独立し、2016年1月荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店 「Title」を開く。書評やブックセレクションの仕事も行う。著作に『本屋、はじめました』(苦楽堂・ちくま文庫)、『365日のほん』(河出書房新社)、『小さな声、光る棚』(幻冬舎)、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』(ナナロク社)がある。

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