大阪大学医学部を定年退官して隠居の道に入った仲野教授は、毎日、ワクワク興奮しています。秘密は家庭菜園。いったい家庭菜園の何がそんなに? 家庭菜園をやっている人、始めたい人、家庭菜園はどどうでもいいけど「おもろいこと」が好きな人に贈る、新連載エッセイです。
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「たった2年で何様のつもりやねん!」への言い訳
『知的菜産の技術』、かっこよろしいやろ? どう見ても、農業の専門家が書くようなタイトルです。でも、ちがうんです。定年退職を機会に始めた家庭菜園についてのお話なのです。こう書くと、いきなり「何様のつもりやねん!」という罵声が飛んで来そうな気がします。自分でもそう思うくらいなのですから、他人様ならもっと思われても当然です。
さらに、じつは野菜作りを始めてちょうど2年にしかなりませんねん、と白状すると、「何様のつもりやねん!」がエコーになって響き渡るような気さえします。そんな素人が、「知的菜産」などという偉そうな言葉を使って連載を始めるなどというのは、たしかに無謀っちゅうたら無謀ですわな。
自己肯定感が強いと言われる私ではありますが、さすがにその程度のことはわきまえておりまする。でも、どうしても書いてみたいのであります。まずは、そのあたりの理由というか、言い訳から。
なによりも大きいのは、家庭菜園が単に楽しいだけでなく、新鮮な驚きと学びに満ちた知的活動であると気づいたことだ。わたしは、とある業界誌で「押し売り書店 仲野堂」という連載を持っているくらい、面白い本や面白いできごとを見つけたら、人に伝えたくてたまらなくなる性分である。相手にとってはいささか迷惑なことかもしらんが、そうなのだから仕方ない。そして、家庭菜園はまさしく押しつけたくなるアイテムなのだ。なにしろ、楽しい、健康的、知的刺激と三拍子揃っているのだから。
「たった2年で素人がぐちゃぐちゃぬかすな!」とか、「5年とか10年、もっと十分な経験を積んでから書くべきやろ!」とかいうお叱りがあるやもしれん。ごもっともではある。しかし、こういうことは、気持ちが新鮮な間に書いておかないとヴィヴィッドに伝わらないのではないか。何年かたつといろんなことが習い性になってきて、まぁこんなことは言わんでも当たり前やわな、とかになって、始めたころのナイーブな興奮が冷めてしまっている可能性が高い。それ以前に、記憶力がいまひとつなので、なにがすごかったかを忘れてしまっているにちがいない。
それなら季節が一巡した1年目のタイミングで書き始めたらよかったのではないかと言われるかもしれないが、それは違う。なにしろ初めは、まったくのド素人からのスタートだったので、解説書に書いてあることをなぞっていくだけで精一杯。自分なりの考えやら工夫やらをいれる余地などまったくなし。とても「知的」とは言えない状況だった。
一方で、ゼロからのスタートというのは、未経験という難しさはあるが、リアルの表現でも比喩の表現でも「更地」で始めるという容易さがあった。それ以前のしがらみや先入観なく進めることができるというメリットだ。なんでもないことのようだが、始める時の難しさと易しさ、これは仕事など他の多くのことにも共通する重要な原理ではないか。こういうことをしみじみと実感できる、すなわち、世の中のいろいろなことを違った角度から再確認できる、というのも、知的菜産の素晴らしき一面である。
3年目以降は、過去2年間の蓄積もあって慣れというものが始まっていくし、想像するに、2年目とそう多くは違うまい。なので、2年経った時点で書き始めることにしたのである。もうひとつ正直に書いておくと、編集者さんに急かされたこともある。けど、こういうのはきっかけが大事やから、それもよろしいやろ。
野菜作り1年目は、なにを隠そう、農作業や植物についての知識も経験も皆無からのスタートだった。周囲に尋ねる人もいないので、見よう見まねという訳にもいかない。よく独学で始めたという気がするが、まずは、そのための書籍を10冊以上も購入した。そんなにたくさん買ってどないすんねん、と言われそうだが、それ以外に学べるものがないんやから、いたしかたなし。それでも、初めの年から驚くほどうまくできた。才能あるんちゃうん?
という訳ではなくて、植物は正直だということにすぎないと考えている。やるべきことをきちんとやれば、必ずとは言わないけれど、かなり素直に応えてくれる。大学で学生に教えていて反応が悪かったのとえらい違いやんか。まぁ、それは教え方が悪かっただけかもしらんけど。
40年前の自分に戻ったかのようにワクワクする
ちょっと話がずれた。いかに野菜作りが知的な活動であるかという話に戻る。野菜作りや果樹の育て方についての本はわんさかある。もちろん内容は大筋で同じなのだが、大型書店でパラパラッと何冊かをめくってみると、必ずしも書いてあることが一致していない。さらには、他の本とはかなり違うことを書いてあるユニークな本さえある。なかなか1冊に絞りきれない。それならと、たくさん買うことにしたのである。
長年、生命科学の研究に従事してきた。いまは、どの実験も、そのためのキットが売られていて、添付されている説明書通りにやればいい時代になった。便利になったものだが、年寄りからすると、工夫の余地がなくてつまらなくなったもんやと嘆きたくなる。
しかし、昔はちがった。マニュアル本を読んで試行錯誤しながら進めたものだ。複数のマニュアルを読むと、それぞれに書いてある手順に少しずつ違いがあって、実験によっては、えらく簡便なものから手間がかかるものまで大きな差異があったりする。経験を積んでいくと、マニュアルを見比べるだけで、その実験の勘所がわかってくる。そうなるとしめたものだ。勘所だけを丁寧におこなうと他は適当でもなんとかなる。そんなことが読み取れると、ミニマムの手間で満足いく実験結果を得ることができるようになる。
実験のマニュアルは料理のレシピみたいなものだから、料理にたとえた方がわかりやすいかもしれない。ある料理を作る時、ネットを検索すれば似たようなレシピがたくさん出てくる。それを比較していると、美味しく作るための大事なポイントがどこなのかを見出せる。そう、研究も料理も同じような知的作業なのだ。これと同じ意味で、菜産も知的な作業なのである。
もうひとつ、いまさらだが、それぞれの野菜や農作業全般について、膨大な知識が蓄積されているということも知的である理由だ。ほとんどの野菜は1年に1回しか採取できない。ということは、あるやり方が適しているかどうかを調べるには、最低でも1年かかることになる。
とはいえ、農耕が始まったのはおよそ1万年前とされているから、ざっくりすぎるけれど、1万回もの試行錯誤が繰り返されてきた訳だ。さらに、近年――といっても一万年に比較した「近年」であって過去200~300年――は科学的な方法論も取り入れられてきた。すなわち、菜産というのは量的にも質的にも生きるための経験と知識とがぎっしりと詰まった知的宝庫なのである。
実際におこなう農作業も極めて知的である。さほど大きくはない家庭菜園であっても、どこに何を植えるか、ある作物の次に何を植えるか、いつどういう作業をおこなうか。決めねばならないことが山ほどある。本を読みながら、そういったことを組み立てるのは、パズルを解くような面白さだ。かなりの部分は理屈、あるいは論理で進めることができる。とはいえ自然が相手なので、思い通りにばかりはいかないという不確定要素もある。これが難しくも面白い。
40年程前に研究者生活をスタートした。関連する論文を読んで実際に実験を始めたときの感動と、たくさんの本を参照しながら菜園を始めた感動がまったく同じであることに気がついた。畑を耕す自分が、昔の自分、40年ほど前の生き生きした自分に戻ったかのような嬉しい驚きだった。うまくいくかどうか、研究では思い通りの実験成果がでるかどうか、菜園では美味しい作物ができるかどうか、本当にワクワクする。学びながら新しいことを始める喜び、これを知的な作業と言わずして何と言うのだ。こんな素晴らしいことは他にそうあるまい。
ただ、そのときになってようやく気づいた。野菜があまり好きではないということに……。アホとちゃうかと思われるかもしれないが、本当なのだから仕方がない。しかし、2年たった今、野菜が大好きになっている。その理由はいずれ詳しく書くことにしよう。
定年後は日常的に楽しめることを持ちなさい
野菜が好きでないのに、なぜ菜園を始めたか? 長い間、医学部で基礎生物学の研究に従事してきた。ちょっと口はばったいけど、そこそこの業績をあげ、多くはないけれどNatureやらScienceというトップジャーナルにも論文を出せたし、自称「超二流研究者」といったところである。
だいたい、それくらいの研究者になると、定年を迎えても、なんとかして研究を続けたいとか、どこかで教え続けたいとか、勤めていた大学のお役にたちたいと希望される先生が多数派だ。しかし、私は違う。そのような邪な考えはまったく持ちあわせておらず、定年になればキッパリと引退すると若い頃から決めていた。
定年後の暮らしについての本を読むと、なんでもいいから、日常的にできることを持ちなさいと書いてある。読書や旅行は好きだけれど、ずっと本を読んでいるだけではさすがに退屈だろうし、旅行にばかり出向くわけにもいかない。英文学者・伊藤礼先生の『ダダダダ菜園記――明るい都市農業』(ちくま文庫)が頭に浮かんだ。伊藤礼先生とは面識もなにもないが、私淑する師匠である。
古希を越えてから自転車生活を謳歌された『こぐこぐ自転車』(平凡社ライブラリー)に刺激され、50歳を越えてから自転車通勤を始めるというじつに素晴らしい体験をさせてもらった。それ以来、勝手に師匠と崇めてきた。その師匠が自転車に次いで心から楽しまれたのが家庭菜園であった。親炙する内田樹先生の『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)によると、面識があろうがなかろうが、こちらが師匠だと思えばその人が師匠だ。そして、師匠の真似をしたくなるのは自然の成り行きである。これでいいのだ。
だいたい「菜産」っちゅうような言葉なんかないやろ、というご意見もありましょう。はい、そうです。でも、「米産」という言葉はちゃんと広辞苑に載っていて「(1) 米の生産。(2)米国産。アメリカ産。」とある。(1)の意味から「菜産」を「野菜の生産」とするのは、さして無理はあるまい。
とはいえ『知的菜産の技術』、誰がどう見ても、あの梅棹忠夫の『知的生産の技術』(岩波新書)のもじり、というかパクリではないか。はい、もちろんそうです。でも、どうしてもこのタイトルを使ってみたいのである。
高校時代に『知的生産の技術』にどっぷりはまっていた。10年ほど前、岩波新書から『エピジェネティクスーー新しい生命像をえがく』を上梓した。そのとき、担当の編集者さんに、いかに梅棹忠夫ファンであったかという話をしていた。そうしたら、なんと、なんとなんと、岩波新書創刊80年「はじめての岩波新書」記念フェアの際、岩波新書のクラシックスの一冊である『知的生産の技術』の帯に、「私にとって梅棹忠夫はアイドルのような人だ」というコメントを使ってもらえた。これは密かな、ではなくて、声を大にして言いたい自慢である。
誠に僭越にして勝手なことであるが、『知的菜産の技術』は、私から梅棹忠夫へのオマージュなのである。まぁ、そんなオマージュなんかいらんと、草葉の陰で思ってはるかもしらんけど。
かような事情でスタートする連載であります。たぶん20回くらいで、前半は総論――菜園づくりや菜産全般にあてはまること――、後半は各論――キュウリとかジャガイモとか、それぞれの作物について――、どんな経験からなにを学び得たか。そして、それが、知的作業としていかなる普遍性を有するものなのか、について書いていく所存でございます。
菜園をやってる人や始めたい人にはもちろん、それ以外の人にとってこそ、おもろくて学ぶことが多い内容になるはずです。乞うご期待!
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