かつて自分は、貧困当事者の本当の苦しみを理解していなかった――鈴木さんが、そう後悔することになったのは、鈴木さん自身が、脳梗塞の後遺症としての「高次脳機能障害」を抱えることになったからでした。外からは見えない、その圧倒的な苦しみとはどういうものなのか。鈴木さんの最新刊『貧困と脳 「働かない」のではなく「働けない」』から「はじめに」(後半)をお届けします。
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(僕は貧困者に対する自己責任論の燃料になりそうなリアルは徹底して解像度を落として描写し続けた。そのことをいまは、後悔している。)
なぜなら2015年5月、『最貧困女子』刊行の翌年に僕は脳梗塞を発症し、「不自由な脳」の当事者となったからだ。脳梗塞の後遺症として「高次脳機能障害」という脳の認知機能障害が残った僕は、かつての取材で「なぜ」と思い続けた彼女ら彼らとほぼ同じ状況に陥ってしまったのだった。
約束や時間を守ろうとしても守れなくなり、思うように働けなくなった。人と他愛ないコミュニケーションを取れなくなり、簡単な文章を読み解けず、単に人混みを歩くことすらできなくなった。自分でも「どうして?」と思うほど当たり前の日常的タスクがまるっきりできなくなった。
そしてそんな僕自身の感じる圧倒的な不自由感は、かつての取材の中で対象者らから散々聞き取っていた訴えと、あまりに一致していた。
彼らに対して感じ続けてきた、なぜ「やろうとしないのか」、なぜそんなにも「やる気がないのか」、なぜそんなにも「ちゃんとしていないのか」等々が、「必死に頑張ってもできないこと」「やる気があってもできないこと」だったと、我が身をもって理解した。
発症直後、朦朧と現実感を失った頭の中で、強く立ち上がった確信がある。
そもそも、僕の抱えることになった高次脳機能障害とは、脳神経細胞が虚血し死滅したことによって、脳の認知機能・情報処理機能が低下したことによる障害だ。障害者手帳の分類としては精神障害者となる。だが、それら脳機能が低下すること、健常と言われるスペックよりも情報処理力が損なわれていることは、先天的な発達障害、僕同様に中途障害であるうつ病や統合失調症等の精神疾患や、認知症などでも同様なはずだ。
つまり、先天的な障害であれ中途障害であれ、同じ脳という情報処理の臓器の機能が「当たり前の基準=健常者のスペック」から外れたならば、その当事者ができなくなることや感じる不自由感は共通するはずだ。
僕らの苦しさや求めたい支援にも、医学的な診断領域を横断する共通点があるはずだ。
身の内から湧き出るような確信であり、「やっとかつての取材対象者のことがわかった!」という興奮でもあった。
もちろん、僕自身は医学の徒でもなければ、エビデンスもない。「領域横断」とは、本来細分化の科学である医学に対するカウンターでもある。
だが、それを理解しつつも「様々な認知機能低下を当事者がどのように実感しているのか」「領域横断的な支援として我々は何を求めるか」を書き綴った『「脳コワさん」支援ガイド』(2020年・医学書院、日本医学ジャーナリスト協会賞大賞受賞)など病後の著作には、僕自身が想定していたよりも広い領域の当事者らから「これは自分の感じる不自由と同じだ!」といった共感の反応を得ることができた。
原因が打撲であれ切創であれ骨折であれ、足の機能に問題が起きれば、一様に「歩くこと」が困難になるのと同じだ。症名が何であれ脳の機能に何らかの問題が起きれば、その機能が損なわれることによる一様の不自由が起きるのは当然のこと。当事者読者らに共通する訴えこそがエビデンスだと、確信を深めた。
だが、様々な領域の当事者から共感の声を得れば得るほど、自らの過去の著作における致命的な不備を後悔せざるを得なくなった。なぜならば人が認知機能・脳の情報処理機能を喪失・失調することで最も強く立ち現れるのが、貧困のリスクだからだ。かつて取材対象者らに感じ続けた「なぜ」の底には「なぜこんな当たり前のことができないのか」「こんな当たり前のこともできず、やろうとしないならば、窮状に陥るのもむべなるかな」の気持ちがあったけれど、それは大きな勘違いだった。
彼らは頑張っていた。必死に努力し、足掻き、それでもできない自分を責めつつ、生き抜こうとしていた。にもかかわらずその水面下の足搔きは外から見て理解できるものではなく、だらしなさや責任感や主体性のなさばかりが目立って感じられ、必然的に彼らは働く力と場を失い、貧困へと転がり落ちていたのだ。
どうしてそれを、わかってあげられなかったのだろう。その困った言動の底にどんな症状とどんな心理があるのかを理解せず、ただただ記者業の義務的に「なぜ?」を封じたのは、本末転倒だった。その「なぜ?」の解像度を上げることこそが、彼らに対する自己責任論払拭のキーだったからだ。
自戒も込めて、改めて、提言したい。
貧困とは「不自由な脳」(脳の認知機能や情報処理機能の低下)で生きる結果として、高確率で陥る二次症状、もしくは症候群とでも言えるようなものなのだ。
あらゆる脳の認知機能不全をベースにした疾患・障害には、発症の機序が何であれ「脳が不自由」ゆえに陥る共通の不自由があり、医療的な診断の有無を問わず、その状況と貧困には明らかな因果関係がある。そしてそこには、自助努力などでは到底太刀打ちできない、圧倒的な困難が存在する。
本音で言えば、健常者基準のこの社会を「この脳」で働いていくなんて、ムリゲーにもほどがある。
ではその「脳が不自由」な状況とは、当事者にとって具体的にどのように感じられるものなのか? それがあることで、何ができなくなるのか? そしてなぜ当事者がどれほど努力して足搔いても、「何もしない人」「やろうとしない人」に見えてしまうのか? どのようにして貧困の深い穴に陥っていくのか? なぜ制度が機能しないのか?
本書では、徹底的にそれらを掘り下げ、可視化し、彼らの不自由を代弁し直したいと思う。
そしてまえがきの結びに、これはもはや他人事でも対岸の火事でもないことを、お伝えしたい。
脳の不調を起因とする貧困リスクは、かつて貧困再生産の土壌として僕自身も描写してきた「世代間を連鎖する貧困」とは全くステージの違う、家族資源や教育資源に不備なく育ってきた者にも、キャリア形成後のホワイトカラー層にだって、ある日容赦なく襲い来るものだ。
ストレスフルで未来が見通せない現代社会において、そもそも高齢で認知機能が低下してもなお働かなければならない日本社会において、このリスクは一層普遍的になりつつある。
本書を、いままさに脳を(精神を)失調し、働くことの困難に立ち向かっている当事者に、そして周囲に不自由な脳を抱える当事者のいる家族や周辺者に、まずは届けたい。
脳の不自由は、パッと見て他者からはわかりづらい。他者からもわかりづらいが、当事者自身でも自分に何が起こっているのかわからず、混乱を極めるだろう。多くの当事者に共通するのは、どれほど水面下で足搔き続けても、その必死の自助努力がないことにされてしまう理不尽であり、当事者自身ですら自分の自助努力を肯定できなかったりすることだ。これは、未だ社会にはびこる腐った自己責任論の最大要因でもある。
けれど、伝えたい。
あなたは既に頑張り尽くしている。だらしなくも情けなくもないし、決して弱くもない。だからまずは、どれほど色々なことができなくなったとしても、その見えない不自由を前に戦い続ける自分を自罰しないでほしい。
その不自由は、その脳の状況によって必然的に起きる症状だ。自身の置かれた苦境を正しく認識し、時には壊れる前に逃げてほしいし、必要な対策と休息をもって再起に臨んでほしい。
周辺者においても、どれほどだらしなくやる気なく見える当事者であっても、その水面下の足搔きを見て取り、責めることなく不自由の緩和を手助けしてやってほしい。
本書をもって、貧困者に対する自己責任論に最終的な払拭を試みたい。
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続きはぜひ『貧困と脳 「働かない」のではなく「働けない」』でお読みください。
貧困と脳
約束を破る、遅刻する、だらしない――著者が長年取材してきた貧困の当事者には、共通する特徴があった。世間はそれを「サボり」「甘え」と非難する。だが著者は、病気で「高次脳機能障害」になり、どんなに頑張ってもやるべきことが思うようにできないという「生き地獄」を味わう。そして初めて気がついた。彼らもそんな「働けない脳」に苦しみ、貧困に陥っていたのではないかと――。「働けない脳=不自由な脳」の存在に斬り込み、当事者の自責・自罰からの解放と、周囲による支援を訴える。今こそ自己責任論に終止符を!