
TBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」出演で話題! 世界133ヵ国を裁判傍聴しながら旅した女性弁護士による、唯一無二の紀行集『ぶらり世界裁判放浪記』(小社刊)。現在も旅を続けている彼女の紀行をお届けする本連載。本日は「ブルネイ編(後編)」をお届けします。前編はこちら。
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「これを付けて入ってください」
ブルーグレーのスカーフを私の頭にかぶせると、その女性はスカーフの際に沿って私の髪を隠し、顎の部分でピンを止めてくれた。
「あと、結婚とか家族関係の裁判は非公開が多いです。見られないものが多いと思うので、あしからず」
イスラム法裁判所――シャリーア裁判所――に足を踏み入れるのは初めてだった。

シャリーア裁判所の中2階に「事件表リスト」が貼ってあった。午後の部は14:00に2件。2件とも196条1項違反と書いてあった。
「これは同じ事件の男女がそれぞれ裁かれるということです」
案内してくれた事務の女性が教えてくれた。よく見ると午前の部もすべて196条1項違反だった。
「196条1項とは何の事件ですか」
「Khalwatの禁止です。この類の事件はプライバシーを気にする被告人もいるので、開廷前に事務局に聞いてください」
「分かりました」事務局への行き方を聞いていると、別の事務員さんが近づいてきて言った。
「この事件の審理は今日はキャンセルになったみたいですよ」
Khalwatとは夫婦や家族以外の男女が閉鎖された空間で過ごすこと。イスラム教徒同士でも、異性の非イスラム教徒との間でも禁止されており、罰則は4,000ブルネイドル(40万円)以下の罰金、1年以下の懲役、またはその両方。
この国では、公の場所で酒を飲むことも禁止されている。
こんな蒸し暑いところで、お酒を飲めないのはもったいない――それが私がブルネイ・ダルサラームの空港に降り立って思ったことだった。
とはいえ非ムスリムの外国人である私はお酒の持ち込みができるらしく、上限はビール缶12本、リカー2本。健康に生きる分には十分な量は保障されているようだった。

クーラーボックスにビールを入れて船で外洋に出ると、クレーンのような門のような鉄塔が海のど真ん中にたくさん立っていた。
「あれはオイル」「あれはガス」
採掘現場なのだと、連れ出してくれた現地の知人が教えてくれた。
船上を吹き抜ける風は強く波しぶきは冷たかったが、だだっ広くて何もない大海原の中でボツ、ボツと現れる鉄塔を見ていると、なんだかぼんやりと眠くなってきた。目を閉じると、深い海の青に日差しで焼かれた鉄塔の残像が残っている。
東南アジアの島嶼に囲まれたボルネオ島に背を向けて、私たちが向かっているのはマレーシア直轄領ラブアン。の手前の島。その向こうにはフィリピンのパラワン島があり、隣にミンダナオ島がある。さらに北にはルソン、台湾、西表島と、日本が見えてくる。西にはマレー半島が横たわる。
イスラム裁判所を出て「通常の裁判所」で見た事件は、マレーシアから300万円を申告なしで持ち込んだ会社が刑事罰を問われている裁判だった。私がマレーシアで見た裁判はフィリピン人の会社との投資トラブルの事件だった。海の上に国境を引かれていることで、これらの事件は事件になっていた。
海のシルクロードはイスラム教を運び、フィリピン海プレートとユーラシアプレートに沿って東南アジア島嶼部はつながっていて、私たちの住む日本列島もその延長線上にある。

海底に無数の注射器を刺して、チューチューと血を抜くようにオイルを吸い出し、人間たちは生き永らえている。海底から隆起した小さな島の長屋の端っこで、私たちは波間を漕ぎ出でているつもりだがその実はプレートの掌の中である。そんなことを思い浮かべると、くすりと笑みがこぼれた。
ジャングルで見たカモメのような蝶を思い出していると、見えてきた島の砂浜にカモメのような鳥が飛んだ。
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続・ぶらり世界裁判放浪記

ある日、法律事務所を辞め、世界各国放浪の旅に出た原口弁護士。アジア・アフリカ・中南米・大洋州を中心に旅した国はなんと133カ国。その目的の一つが、各地での裁判傍聴でした。そんな唯一無二の旅を描いた『ぶらり世界裁判放浪記』の後も続く、彼女の旅をお届けします。