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続・ぶらり世界裁判放浪記

2025.03.01 公開 ポスト

ブルネイ 前編

森と川に抱かれた“スルタン”の国原口侑子(弁護士)

TBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」出演で話題! 世界133ヵ国を裁判傍聴しながら旅した女性弁護士による、唯一無二の紀行集『ぶらり世界裁判放浪記』(小社刊)。現在も旅を続けている彼女の紀行をお届けする本連載。本日は「ブルネイ編(前編)」をお届けします。

ここのジャングルでも樹々はうっそうと茂っているけれど、不思議と息が苦しくならない。それは、至るところに川の気配があるから、空がすこんと青いから、シダ類の色が濃すぎないから。そんなことを考えながら歩いている。蝶が、カモメのようにしゅるりと、目の前を横切った。

「私は、生まれも育ちもテンブロンよ」

そう話すガイドのお姉さんは、板状の根が平打ちうどんのようにうねる蘇芳(スオウ)の木を、ゆうゆうと越えて歩いていく。

ここはボルネオ島の北端にある小さな国、ブルネイ・ダルサラーム。その東部に飛び地になっているテンブロン地域は、内陸に入るとすぐに道路がなくなり、交通手段は細く長い6人乗りのボート(ロングボート)のみになる。

ボートに乗って川を上り、つり橋を渡り、1000段の階段を上ったところにはキャノピータワーと呼ばれる塔がある。直訳すると「森林の天蓋」という素敵な名前で、空から見る熱帯雨林は青々しい。むっとした空気の中を、通り過ぎる風はさやさやと、耳に涼しい音を立てる。

滝つぼにダイブし、タイヤに乗って川を下り、何か既視感があると思ったら、この地域の植生は西表島に似ているのだという。河口のマングローブ、鳥類の数々、猪鹿蝶。西表島のスオウはサキシマ(先島)スオウと呼ばれている。「ジャングルにやってきた人間たちがマラリアで全滅して人が住めなくなっていた時代があった」と、ついこの前に西表島で聞いた話をふと思い出す。

ジャングルに覆われたボルネオ島の北端にも、人は簡単には住めなかった。人は河口に住み、少しずつボルネオ島のキワにその居住域を広げていった。ジャングルは海岸線の近くまで迫り、今もマングローブ林が海岸線を縁取っているから、人間の居住はさながら絞り出された後のところてんの残りのような場所だ。と、わけのわからない比喩をしたくなるくらい狭い。

ジャングルの中では、人は樹々より虫より鳥より弱い。押し出された人々は、川や河口に木や竹の柱を突き刺してその上に長屋を作り、ヤシの葉で葺いた屋根で雨風をしのぐのがよかった。ヤシはマングローブのニッパヤシで、繊維は丈夫、水にぬれるとふくらみ、すき間を作らない。

ブルネイの人たちはそうやってもう何百年も、河口に水上集落を作り、桟橋で魚を釣り、スルタンが他の島と貿易をしようというとカヌーで出かけていき、島に戻るとヤシの長屋の中で眠って生きてきた。

国が裕福になって一人当たりGDPが日本を超えた今も、「こっちの方が暮らしやすい」と1万人近くが水上に住む。ブルネイの人口は45万人だ。お金が手に入ったらコンクリで囲まれた丈夫で広い家に住むのではなく、多少狭くても水のにおいがして風が通る長屋に住む。そういう人は多いようだった。

「舟に乗って本土に渡って、あの駐車場に置いてある車で出勤するのさ」

水上集落でソテツの餅を食べていると、レストランを営む親父さんが教えてくれた。

「わしも消防士でな、公務員なんだよ」

川沿いにはテングザルがいて、ボートで静かに近づくとキーと鳴く。桟橋では村の人が釣りをしていて、ピューと口笛を吹いて私のために「本土」に帰る小舟を呼んでくれた。本土までは1ドル、5分やそこらで着く。

ブルネイが日本よりもずっとリッチなのは、石油と天然ガスが取れるからだ。教育と医療は無償で提供され、個人に所得税も課されない。公務員も多く、ある程度務めるとメッカ巡礼(Haj)に行く権利が与えられるなんていう特典もあったりして、「王国軍に26年務めると年金がもらえるから、早期退職したんだよ」と、市場のごはん屋で相席した家族は言っていた。最近の若者はもらえなくなったらしいが。

サゴヤシの粉を煮立てて作った「アンブヤット」が、ブルネイ料理の主食。

先王の建立したモスクは空港からもう少し町へ向かった場所にあって、その庭には象牙の色をしたベンチが無造作に何個も置かれていた。

これ全部大理石なのよ」案内してくれた知人が言う。正門から入るとシャラシャラときらびやかな屋根に囲いがついているのが見えた。工事中なのだということ。王様が使う用の入り口にはエレベーターがある。金曜日はここに普通に現国王も通うのだという。在位55年の現国王は、29代目のスルタンだ。

ブルネイの人たちはそうやってもう何百年も、スルタンのもとで生きてきた。

工事中だったモスク。

外の何気ないベンチだが、大理石で出来ている。

皇室関連の展示があるロイヤル・レガリアに行くと、皇室の結婚式の写真が飾ってあった。王妃の額にはきらびやかなティアラが光り、金糸で縫われたドレスがキラキラと写真にも映えていた。女性もスカーフはつけていなかった。

イスラム教徒の多いブルネイはイスラム教を国教としてきたが、それまではルールはそこまで厳格ではなかった。イスラム法が厳格に適用されるようになったのは2014年からで、イスラム教に基づくシャリーア刑法も段階を追って厳しくなった。

皇室関連の展示が並ぶ。

7つ星ホテルエンパイア ブルネイから見た夕日

*   *   *

次回、いよいよブルネイのイスラム法裁判所(シャリーア裁判所)へ足を踏み入れます。

3月8日更新予定です。

関連書籍

原口侑子『ぶらり世界裁判放浪記』

世界はこんなにも広く、美しく、おもしろい! ある日バックパッカーとなった東大卒の女性弁護士は、アフリカから小さな島国まで世界131カ国を放浪し、裁判をひたすら見続けた。豊富な写真と端正な筆で綴る、唯一無二の紀行集!

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続・ぶらり世界裁判放浪記

ある日、法律事務所を辞め、世界各国放浪の旅に出た原口弁護士。アジア・アフリカ・中南米・大洋州を中心に旅した国はなんと133カ国。その目的の一つが、各地での裁判傍聴でした。そんな唯一無二の旅を描いた『ぶらり世界裁判放浪記』の後も続く、彼女の旅をお届けします。

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原口侑子 弁護士

東京都生まれ。弁護士。東京大学法学部卒業。早稲田大学大学院法務研究科修了。大手渉外法律事務所を経て、バングラデシュ人民共和国でNGO業務に携わる。その後、法務案件のほか、新興国での社会起業支援、開発調査業務、法務調査等に従事。現在はイギリスで法人類学的見地からアフリカと日本の比較研究をしている。これまでに世界131カ国を訪問。

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