
エッセイストとして、料理家として、そして山梨の邸宅「遠矢山房」のオーナーとして、日本の四季を取り入れた美しい暮らしと日々綴る言葉が支持されている寿けいさん。2021年に刊行し話題となったエッセイ『泣いてちゃごはんに遅れるよ』が文庫になりました。文庫版書き下ろしの2篇「背中」「ホテルニューオータニ」に加え、「北欧、暮らしの道具店」の店長・佐藤友子さんとの対談を収録。単行本から、さらに充実した内容となっています。本書より、抜粋してお届けします。
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かまどの神様 自己紹介に代えて
ちょいワルおやじ雑誌の表紙に〈艶男(アデオス)〉と〈艶女(アデージヨ)〉が肌を寄せ合って並んでいた頃、私のあだ名はダンドリータだった。
漢字では段取女。お尻の言葉はセニョリータからきている。こそばゆいが、編集者時代によく仕事をしていたライターが、段取りが上手なひとという意味で付けてくれた。
段取っていたのは、几帳面だからではなく、仕事を早く終えて遊びに行きたかったから。見取り図が頭のなかで出来上がると、半分終わった気になってしまって、よく編集部からどろんしていた。
これが職場の仕事ではなく、家の仕事となると、段取りよりもっと細部を照らす呼び名がいい。小さな工夫をこらしてなんとか帳尻を合わせる〈やりくり〉と呼ぶほうが、しっくりくる。
かれこれ二十年来、「□」と「レ」のメモを習慣にしてきた。
□トイレットペーパー
□みょうが収穫
□名札ぬう
□確定申告(領収書月ごとに!)
手帳に、チラシの裏に、ポストイットに。思いついたら書き出して、実行に移したら真四角にレと筆をおろす。新雪に足跡をつけるような快さ。一歩前進、しかし山頂はまだまだ。
この習慣に加わったのが、B4サイズのホワイトボードだ。裏がマグネットになったものを買ってきて冷蔵庫の目線の位置に貼り、せっせと書くようになって三年になる。ボードの横には、同じくマグネット型のペン。ペンのお尻には専用の消しゴムが付いている。
こんなことにも水を差すひとはいて、冷蔵庫の扉にものを貼るのは風水的にはタブーだと、遊びにきた友人が教えてくれた。なんでも、食べ物は人間の根源であり、その寝床である冷蔵庫にぺたぺたと封をすることは、よい気の流れを妨げてしまう、というような話だった。
分からなくはない。しかし間違いなくホワイトボードを中心にして、この家は保たれている。手放すわけにはいかない。大切なのは気よりも、私の精神の風通しだ。
ホワイトボードを買ったのは、夫とのちょっとした行き違いがきっかけだった。
こっちはこんなに頑張っているのに、そちらは──。こういうことは、どの家庭でも職場でも、大なり小なりあるだろう。夫婦の間のことは心情に絡むものが多いと思われがちだが、不協和音の引き金となるのは、ありふれた物だ。
たとえば、ラップを使い切ったときはもちろん、切れそうになっていることに気が付いたひとが、新しい物を買えばいいし、すぐに買えないなら、メモしておいたらいい。五センチだけ残して、「最終回は自分ではありません」。知らんぷりという名の横着が、次に使う相手を小さく苛立たせる。小さな苛立ちも、積もれば魔物になる。
こんなこともあった。切れていた洗剤を買いに行ったひとが帰ってくる。
「ただいま、買ってきたよ」
テーブルにどん、で終わりではない。詰め替え容器に移しかえて袋をくるくると丸め、分別して捨てるまでが、洗剤にまつわる仕事だ。
ラップをトイレットペーパーに、洗剤を塩や味噌に置き換えても、話は同じ。物の処し方が、家の風通しの良し悪しを左右する。
そう気が付いた私は、TO DOの見える化を進めることに決めた。それまで自分用に書いていたメモを、夫にも見える場所に開示することにしたのだ。家族が毎日必ず立つ場所ときたら、台所、しかも、冷蔵庫の扉がいい。
自分が忘れたくないことは、相手にも忘れてほしくないこと。誰かひとりの記憶と実践をあてにしてはいけない。この家には二人の大人と二人の子どもがいて、やりくりの停滞をなくすのは大人の責任なのだから。
いまでは、冷凍便の到着日時から、子どもの水泳帽に縫い付けなくてはならないワッペンまで、些末な、しかしいい加減では済まされない事柄が記されている。出かける前に写真を撮っておき、帰宅後にいくつかはレを付けられ、それをもうひとりが確認し、消されていく。
ふたりして会社帰りに茄子をたんまり買ってきたこともあった。三河みりんの瓶が二本並んだこともある。買ってこなかったと相手を恨めしく思うより、こういうことは笑いになるから、いい。
おもしろいのは、子どもだ。教えたことなどないのに、使い方を知り抜いている。
□ニンテンドウスイッチ
サンタさんもボードを見るかと聞かれ、「たまぁに」と答えたら、しばらく考えてこう書いた。いつかサンタがレを付ける日を待っている。
この冷蔵庫の隣で、私は一日のはじまりと終わりを過ごす。
今日だけですよという顔をして毎日シンクで歯を磨く。カクテルのシェーカーを振って、切花の水揚げもする。コーヒーを淹いれて、口座残高を見ながらポッドキャストを聴く。仕事用のデスクがあるのに、まな板をどかして原稿を書く。家のなかで一番開かれた場所が、胸の奥に潜るための場所にもなる。
ひとには言えない思いを抱えているとき、眉ひとつ動かさずに、腹の奥でぷくぷくと気持ちを発酵させることを覚えたのも、この場所だ。愚痴を言ってしまえば負け。それなら、愚痴など言えない場所まで登って、自分のやり方が正しかったことを証明するしかない。こんなことを考えるのはきまって、台所で手を動かしているときだ。
まとまらない考えも、俎上(そじょう)にのせている。鍋の中が仕上がるにつれ、ああ、こういうことかもしれないと、納得できる道筋に近づく。食べ終わって鍋を洗う頃には、腹が決まっている……とまではなかなか行かないけれど、数時間前とは違った手応えを得ている。
その姿を見ているのは、荒神さんのお札のみ。冷蔵庫の上から台所の主を見おろしている。口ではなく手を動かし、台所の安全を保って精進しなさいと叱られているような気がする。
あるとき新聞の隅に、アートディレクターの小池一子が石岡瑛子について回想した小さなコラムを見つけた。当時話題だった展覧会『血が、汗が、涙がデザインできるか』(東京都現代美術館)の特集記事ではなく、小ぶりな包みをほどいたようなエピソードが紹介されていた。
〈台所に火のお守りを欠かさずに貼っていたひとでした〉
書かれていたのは、これだけ。意外だったとも、らしいとも、添えられていない。小池にとってはそれが、故人の大切な思い出なのだろう。
一切の形式めいたものを排してきたと思っていた石岡瑛子という女性が、日本人の胸の深いところにある、一番古い習わしを手放さないでいたことに驚き、惹ひかれた次の瞬間、
そうか、火の用心!
石岡が火について語っていたことを思い出し、あっと声が出た。
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