
エッセイストとして、料理家として、そして山梨の邸宅「遠矢山房」のオーナーとして、日本の四季を取り入れた美しい暮らしと日々綴る言葉が支持されている寿けいさん。2021年に刊行し話題となったエッセイ『泣いてちゃごはんに遅れるよ』が文庫になりました。文庫版書き下ろしの2篇「背中」「ホテルニューオータニ」に加え、「北欧、暮らしの道具店」の店長・佐藤友子さんとの対談を収録。単行本から、さらに充実した内容となっています。本書より、抜粋してお届けします。
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手のひらの東京
東京を知ることは、駅を知ることだ。
大学受験のために上京したとき、一番上の姉が手製の〈東京のしおり〉を持たせてくれた。パスポートほどの大きさのバインダーに、乗り換え路線図を貼り付けたり、駅から受験会場への道順を書き入れた、ちょっとしたものだった。
高校を卒業したばかりの私と、社会人として大都市に出て数年経った姉とでは、なにからなにまで差があった。富山の田んぼ道しか知らなかった私にとって、蜘蛛の巣のように広がる東京の路線と駅の多さは、初めて出会う大海であり、開拓しがいのある大地だった。
姉のしおりには知恵が詰まっていた。
丸ノ内線の四ツ谷駅は、地下鉄に分類されながらも地上を走ること(だから、乗り間違えたと早合点して下車しないように、との注意書きが添えられていた)。永田町駅と赤坂見附駅は路線図では一見近いけれど、おのぼりの足ではかなり時間がかかるから、乗り換え時間は多めに見ておく必要があること。池袋駅は東口に西武百貨店、西口に東武百貨店があって、方向感覚を失いがちであること(実際に何度か迷子になった)などなど。
姉の目を通して見た東京を、私は追体験していた。今でも四ツ谷駅を通ると、潜水からぱあっと浮上して息を吸ったときのように、視野が開けるような不思議な、懐かしい気持ちになる。
ジャンボジェットが飛ぶメカニズムよりも、これだけの地下鉄がぶつからずに走っていることのほうが、私には奇跡だった。
当時は、地下鉄路線図を図式化した手のひらほどの大きさの紙が、地下鉄のたいていの駅に置かれていて、私は手帳から大事に取り出してはホームで眺めた。乗り間違えて遅刻しないようにというのがひとつ。もうひとつは、混沌を整理した機能性に対して、そのうえに点在する駅名のなんともばらばらなことに飽きなかったからである。
馬喰町、鶯谷、御徒町、築地、半蔵門。行ってみたいと思う駅がたくさんあった。路線図が手の中にあるかぎり、この街で溺れることはない。そこに描かれていたのは、私の未来だった。
この路線図が、アートディレクター河北秀也によるものだと知ったのは、最近のことだ。
福岡出身の河北は、子どもの頃から鉄道が大好きで、ダイヤグラムを見ると「震えるほど」興奮し、小学校一年のときには、時刻表を完全に読めていたという。当時の西鹿児島駅から東京駅までのすべての駅名を暗記し、東京の山手線の駅名も、上京する前にとっくに知っていたそうだ。
そんな河北でも、東京の地下鉄はなかなか乗りこなせなかった。だったら、田舎から出てきたおばさんやおじさんの助けにもなるような路線図を、芸大の卒業制作として作ってみようと思い立つ。
さっそく、〈東京藝術大学交通デザイン研究会〉なるひとり研究会を立ち上げて、名刺を持って営団地下鉄の広報課を訪ねる。
担当者にさまざまな資料を見せてもらい、意気込んで図書館や神保町の古書街で世界中の地下鉄について調べはじめたはいいが、調べていくうちに、一筋縄ではいかないことに気が付く。東京の地下鉄は世界にも例を見ないほど複雑で、そこにJRの山手線と中央線も加わり、さらにはそれらが相互乗り入れをしているという難題にぶつかるのである。結局、卒業制作に間に合わせることは諦めざるをえなかった。
本腰を入れることになるのは、大学を卒業してフリーランスになってから。無事に路線図が完成し、累計一千万枚以上が発行されるヒット商品となるまでのいきさつは、著書『河北秀也のデザイン原論』に詳しい。
その後携帯電話やスマートフォンが登場し、乗り換えの検索機能が当たり前になってからは、紙の路線図を見ることはほとんどなくなった。今使っている手帳を何人かに見せてもらったところ、東京の路線図がついていたのはひとつだけ。ためしにネットでも検索してみたが、状態のいい過去の路線図はオークションサイトで高値で取引されていた。あらためて手元に置いておきたいと思う気持ちは、よく分かる。
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続きは、『泣いてちゃごはんに遅れるよ』をご覧ください。