
エッセイストとして、料理家として、そして山梨の邸宅「遠矢山房」のオーナーとして、日本の四季を取り入れた美しい暮らしと日々綴る言葉が支持されている寿けいさん。2021年に刊行し話題となったエッセイ『泣いてちゃごはんに遅れるよ』が文庫になりました。文庫版書き下ろしの2篇「背中」「ホテルニューオータニ」に加え、「北欧、暮らしの道具店」の店長・佐藤友子さんとの対談を収録。単行本から、さらに充実した内容となっています。本書より、抜粋してお届けします。
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三月の蓑、八月の鯨
ふきんだけは手で洗っている。
ふきんの使い途はいろいろある。野菜の水気を拭いたり、濡らして固く絞って、まな板やお櫃を湿らせたり。炊きたてのごはんを、左手にひろげた濡れぶきんへぽとんと落とし、塩むすびを作ったりもする。私が使っているのは、十二枚五百円で無印良品で売られている、ごく手頃なものだ。サイズは四十センチ四方。
少しくたびれてきたなと思ったら、すぐにかごに放り込んでしまう。ケチらないで気前よく。そのほうが衛生的だし、結果、料理の支度が早く済む。五、六枚溜まるたびに、台所のシンクでまとめて洗う。そのために小ぶりな桜の洗濯板を買ったのだったか、気に入った洗濯板を見つけてから自分で洗うようになったのだったか。
ボウルに張った水にふきんを浸け、まんべんなく湿らせてから、洗濯板のうえにひろげる。ギターの弦をかき鳴らすようにして石鹼をこすりつけ、何度かひっくり返したり、半分に折ったりして、泡──シャボンと書きたくなる──を繊維にゆき渡らせては、体重をかけて汚れを押し出す。絞って、ざぶんとゆすいで、また絞って。二、三回繰り返すうちに、ふきんは白さを取り戻す。
最新型のドラム式洗濯機をいまひとつ信用できないでいるのは、水の量のことなのだ。ううんと少量なんかで、汚れがきれいになるものか。その仕組みが私には分からない。加賀友禅が冬の浅野川で洗われているのを見たときの、こちらの細胞にまで染みわたってくるような感動は、あの水嵩に支えられてのものだ。
そんなことを言っても、しかし、洗濯機ではお尻や足の指を包む布を洗っているのだから、そう神経質になることもないか。
子どもの頃、家にはまだ洗濯板が残っていて、たまに母が使っているのを見ていた。当然、洗い桶もあった。ドリフみたいなトタンのたらい。エクボがいくつもあって、底も平らではなく、いつもぐらぐらと揺れていた。夏はそこに麦茶のやかんを入れ、蛇口からちろちろと水を流して鍋を冷やした。
十八歳で富山の家を出るまで、私は洗濯というものをしたことがなかった。もちろん、二層式の洗濯機の左から右へ洗い物を移すとか、脱水が終わったものを取り出して干すとか、その程度の手伝いをしたことはあったけれど、そんなのは洗濯のうちに入らない。生きることは汚れものを生み出し続ける営みだと知るのは、子どもが生まれてからだ。
一日や二日、洗濯のことを忘れていると思ったら、もう危ない。脱衣所に置かれた洗濯かごが、家族全員の衣類でいっぱいになっている。こんもり積み上げられたものと、かごからぺろっとはみ出したの。その様子が溶け出したソフトクリームみたいで、うちではそれをセンタクリームという隠語で呼んでいる。
センタクリームを洗濯機に放り込んでスイッチを押すのは億劫なのに、ふきんを手洗いするのは面倒どころかたのしいとは、いったい。
家事について考えるヒントが、ここにあるように思う。
ふきんを泳がせて、たっぷりの水が繊維を通り抜けると、視野まで清められる気がする。干すことはさらに気分がいい。同じ大きさのふきんが、均等な間隔で物干しに留められ、軒下で風に吹かれているのを見ると、心の澱までほぐれていく。白さを保つ喜びは、新調する喜びに勝る。
それなのに、つい取り込むのを忘れ、ひと晩中干したままにすることがある。それも一度や二度ではない。
朝、雨戸を開けると、かぴっとしたふきんが目の前にぶら下がっている。夜中の闇に白いものが漂う姿は、見たひとをきっと不気味がらせてしまっただろう。しまったと思う。恥ずかしいと思う。しかし、懲りない。
物盗りに狙われやすい家の特徴のひとつに、洗濯物を取り込み忘れている家があるというのを聞いたことがある。一事が万事で、なにかといい加減な家だとあたりをつけるのだろう。戸締まりだけはちゃんとしなければ。
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続きは、『泣いてちゃごはんに遅れるよ』をご覧ください。