公文書の改竄(かいざん)、捏造(ねつぞう)を行ってきた現政権。かつて、日本軍の最高司令部「大本営」も、太平洋戦争下に嘘と誇張で塗り固めた公式発表を繰り返し、「大本営発表」は信用できない情報の代名詞となりました。当時の軍部は現在に置き換えると政権。政治の中心でなぜ、情報の改竄、捏造、隠蔽が起きるのか? そしてそれはどういった結末を迎えるのか?
2016年に発売された辻田真佐憲さんの『大本営発表~改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争~』は、正確な情報公開を軽視する政治の悲劇、悲惨さを教えてくれます。あらためて知りたい「大本営発表」の歴史。ラジオという音声メディアの登場で、大本営発表も変化を見せます。
ラジオの時代になり物語調の発表文へ
ラジオ時代になって大きく変わったのは、大本営発表の「文体」だった。それを真珠湾攻撃に続く海軍の大戦果、マレー沖海戦で見てみよう。
十二月十日、海軍航空隊はマレー半島東岸を航行中の英国東洋艦隊主力に対し、数次の空爆を行い、戦艦「レパルス」と戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を撃沈した。これがいわゆるマレー沖海戦である。
重装甲の戦艦は、停泊中や故障中に奇襲でも受けない限り、航空機の爆撃や雷撃では沈まないとされていた。ところが、日本の海軍航空隊はこの従来の常識を打ち破り、作戦行動中の戦艦を二隻も──しかも「プリンス・オブ・ウェールズ」は最新鋭の戦艦だった──沈めてしまった。マレー沖海戦は、海戦史を書き換える戦いだったのである。英国首相チャーチルは戦後の回想録のなかで、「戦争の全期間を通じて、私はこれ以上のショックを受けたことがなかった。私はベッドの上で身もだえした」(毎日新聞社訳)と書いている。それほど衝撃的な勝利だった。
マレー沖海戦の勝報は、さっそく大本営海軍部に届けられた。作戦部は「やったやった」と躍り上がり、報道部は「しめたしめた」と飛び上がった。作戦部に異存がなければ、報道部の発表も早い。かくて電撃的に発表が行われた。「プリンス・オブ・ウェールズ」撃沈は午後二時五十分、大本営海軍部発表は午後四時五分のことである。
マレー沖海戦の詳細は、次に掲げた発表文を読んでもらえば大体わかるだろう。このような物語調の発表文はこれまで例がなかった。
【大本営海軍部発表】(十二月十日午後四時五分)
帝国海軍は開戦劈頭(へきとう)より英国東洋艦隊、特にその主力艦二隻の動静を注視しありたるところ、昨九日午後帝国海軍潜水艦は敵主力艦の出動を発見、爾後(じご)帝国海軍航空部隊と緊密なる協力の下に捜索中、本十日午前十一時半マレー半島東岸クワンタン沖において再びわが潜水艦これを確認せるをもつて、帝国海軍航空部隊は機を逸せずこれに対し勇猛果敢なる攻撃を加へ、午後二時二十九分戦艦レパルスは瞬間にして轟沈し、同時に最新式戦艦プリンス・オブ・ウエールズは忽ち左に大傾斜、暫時遁走せるも間もなく同二時五十分大爆発を起し、遂に沈没せり。こゝに開戦第三日にして早くも英国東洋艦隊主力は全滅するに至れり
前出の中外商業新報記者の岡田聰は、この大本営発表を「大変センテンスの長い悪文」と書いている。なるほど、文章だけで読むとそう見えるかもしれない。だが、ラジオで聴くとしたらどうだろう。これくらいの長さがないと、聴取者の関心を引けないのではないか。まして読み上げるのは、あの雄弁家の平出課長なのである。ラジオに耳を傾けたひとびとは、まるで軍記物の講談のように、心を躍らせて発表を聴いたに違いない。この物語調の発表文はそれゆえ、むしろ「聴く大本営発表」時代を象徴する事例として捉え直されるべきだろう。
発表文を起草したのは、開戦の大本営発表に居合わせた田代格中佐である。田代は小説家の吉川英治に師事し、そのアドバイスを受けながら(と田代は戦後回想している)多くの大本営発表文を起草した。彼はマレー沖海戦の発表についてこう述懐している。
「この発表文は何等の抵抗もなく、すんなりと承認され決定されたもので私の心の中にいつまでも残るものであった」
つまり、普段は揉める発表文が、このときばかりはすぐに承認されたというのだ。
大本営発表を行うには様々な部署の承認を得なければならなかった。ときに文章を添削されることもあったようで、この発表では海軍省の軍務局第一課長・高田利種大佐によって最後の一文「こゝに開戦第三日にして~」が書き足されたといわれる。起案者の田代にとっては、これくらいで承認してくれるなら万々歳だった。
こうした背景を見ると、物語調の発表文が、その異例さにもかかわらず、海軍部内でしっかりと支持されていたことがわかる。海軍報道部はこのころたいへん恵まれた環境のなかで仕事をしていたといえよう。
ちなみに、マレー沖海戦は、さっそく軍歌になったことでも有名である。マレー沖海戦の大本営発表は、午後四時二十分にラジオで速報された。これを耳にした日本放送協会の丸山鉄雄(政治学者・丸山眞男の兄)は、午後八時の番組でこれをテーマにした「ニュース歌謡」を流そうと決断。さっそく作詞家の高橋掬太郎、作曲家の古関裕而、歌手の藤山一郎に連絡を入れた。時間は三時間ほどしかない。「英国東洋艦隊潰滅」と名づけられた歌は大急ぎで作られ、なんとかギリギリで放送に間に合った。
滅びたり、滅びたり、敵東洋艦隊は
マレー半島、クワンタン沖に いまぞ沈み行きぬ
勲し赫たり、海の荒鷲よ
見よや見よや 沈むプリンスオブウェールス
このようにラジオは、「聴く大本営発表」を最大限に盛り上げたのだった。開戦三日目にしてかくのごとし。海軍報道部にとって、完璧に近い滑り出しだった。
焦る陸軍報道部は修飾語を乱用
一方、海軍の華々しい報道を傍目にして、陸軍報道部は焦った。これではまるで海軍ばかり活躍しているみたいではないか。
その影響からか、陸軍側の発表にも変化が見られるようになった。それは、修飾語の乱用である。従来の陸軍の発表は「◯時◯分、◯◯を完全に攻略せり」などと簡素なものだった。日中戦争時の大本営発表の多くはこうした形式で、官僚的とはいえ、わかりやすかった。ところが、ラジオで読み上げるとなると、これではあまりに物足りない。文章が短すぎて、聴取者に聞き逃される恐れさえあった。
大本営発表は、戦況の第一報である。いかに日本軍が苦心惨憺の末、強大な敵を破ったのか、多くの国民に印象づけなければならない。ましてラジオ時代においては、耳から入って心に残る言葉づかいが欠かせない。そこで、特に重要な大本営発表は、形容詞などで過剰に修飾されるようになったのではないかと考えられる。
その事例として、香港攻略戦をめぐる大本営陸軍部の発表を見てみよう。
まず、十二月八日午前十時四十分、大本営陸軍部より「香港の攻撃を開始」と発表された。この時点では、まだ発表文は簡素だった。華々しく真珠湾攻撃を発表した海軍報道部に比べて地味ですらある。
ところが、次の十三日午前八時三十分の発表になると、様子が一変する。すなわち、同発表では「帝国陸軍は近代的装備をほどこせる半永久築城陣地たるその本防禦線を突破」と記されたのである。香港要塞に対する修飾語が明らかに過剰であることが見て取れる。「こんなにも頑丈な敵要塞を、帝国陸軍は早くも突破したのだぞ、どうだ!」。陸軍報道部は、こう強調したかったのであろう。
そして十九日には、陸軍部隊が香港島に上陸して英軍に対し降伏を勧告したとの発表が行われた。陸海軍の共同名義だが、主務者は陸軍報道部である。ちなみに、陸軍省と参謀本部の庁舎移転にともなって、すぐる十五日に陸軍報道部と記者クラブは三宅坂から市ヶ谷台(現在、防衛省庁舎が所在)に移った。そのため、この発表は市ヶ谷台の庁舎において行われた。
【大本営陸海軍部発表】(十二月十九日午前六時五十五分)
一、帝国陸軍部隊は海軍部隊の緊密なる協同の下に敵の頑強なる抵抗を粉砕し、昨夜半敵の猛射を冒して香港島要塞の上陸作戦に成功し、目下着々戦果拡張中なり。将兵の志気極めて旺盛、意気天を衝く
二、帝国現地陸海軍最高指揮官は肇国の武士道精神に基き香港総督に対し、曩(さき)に二回に及びてその降伏を慫慂(しょうよう)したるも頑迷之を拒絶したるを以て、已むを得ず断乎鉄槌的打撃を加ふるに決したるものなり
「一」の最後「将兵の志気極めて旺盛、意気天を衝く」は、いかにも後づけという印象を受ける。マレー沖海戦の発表のように、幹部の承認を得る過程でつけ足されたのではないだろうか。本来、作戦報道にいちいち「志気旺盛」とつけていたのではきりがない。
一方、「二」にはより不必要な言葉が使われている。「肇国ちようこくの武士道精神」なるものがそれだ。おそらく降伏勧告は「武士の情け」だといいたかったのだろう。だが、「肇国」とは「国のはじめ」を意味し、戦前の日本では、天孫降臨(天皇家の祖先が高天原から地上に降り立ったという神話)もしくは神武天皇の即位を指した。とすると、中世に由来する「武士道」とは時代が合わなくなってしまう。結果的に、過剰修飾された「肇国の武士道精神」は、何を指しているのかわからない、意味不明の言葉となってしまった。そのあとの箇所の「鉄槌的打撃」もまた、意味不明ではないものの、過剰修飾のひとつだろう。
陸軍報道部の過剰修飾はこれだけにとどまらない。香港の英軍は、日本軍の猛攻に耐え切れず二十五日降伏を申し入れたが、そのときの発表は次のように行われた。ここでもまた、「敵」や「攻撃」といった言葉に過剰な修飾が見られる。
【大本営陸海軍部発表】(十二月二十五日午後九時四十五分)
香港島の一角に余喘を保ちつゝありし敵は、わが昼夜を分たざる猛攻撃により本二十五日十七時五十分(午後五時五十分)遂に降伏を申出でたるをもつて、軍は十九時三十分(午後七時三十分)停戦を命じたり
このころ陸軍報道部員たちは、海軍の華々しい発表に対抗するため、余暇を見つけては寄席に通って話術の勉強をし、果ては歌謡曲の歌詞の分析まで行っていた。過剰な修飾語は、陸軍報道部員たちの涙ぐましい努力の痕跡でもあったのだ。
「大本営発表」ブランドの確立
このように、陸軍報道部と海軍報道部は競うかのように大本営発表を繰り出した。海軍の富永謙吾少佐はこう回想する。「陸海両報道部はお互いに自分の方の発表や記事を効果的に扱わせるために相手の大きな発表のない日を狙つてストックを小出しにするのが恒例になつていた」。国民に速報することよりも、陸海軍のメンツが優先されていたというのだ。陸海軍の対立は、病膏肓(こうこう)に入るの感があった。
ただ、太平洋戦争の緒戦では明らかに海軍側の報道に軍配が上がった。そこで焦った陸軍は姑息な手に出た。これまで「大本営陸軍部発表」「大本営海軍部発表」と別々の名義で行ってきた発表を、「大本営発表」に一本化しようと提案したのである。
陸軍側の言い分はこうだった。大本営発表が「陸軍部」と「海軍部」に分かれていては、国民に両者が対立しているような印象を与えると。印象も何も、両者は明らかに対立していたのだから、白々しい主張ではある。
対して、海軍側は余裕綽々だった。富永少佐は「別にどちらでも大したことはないので、簡単な方に落ついたが、海軍を牽制する陸軍の苦肉の提案であつた」と記している。海軍としては別にどっちでもいいので同意してやった、というわけだ。戦後の証言ながらも、当時の海軍報道部の雰囲気が伝わってくる。
かくして開戦ちょうど一ヶ月後の一九四二年一月八日、開戦後百七回目の発表より、正式に「大本営発表」という名称が使われはじめた。「大本営発表」というブランドがここにようやく確立したのである。
もっとも、陸軍報道部と海軍報道部の組織は依然としてバラバラだったため、これは単に看板を「大本営発表」に統一したにすぎなかった。実際、これ以降の大本営発表文を読んでみても「これは陸軍だ」「あっちは海軍だ」と明らかにわかるような内容になっている。それゆえ、陸海両報道部の対抗はこのあとも絶えることがなかった。
(辻田真佐憲『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』「第二章 緒戦の快勝と海軍報道部の全盛』より)