公文書の改竄(かいざん)、捏造(ねつぞう)を行ってきた現政権。かつて、日本軍の最高司令部「大本営」も、太平洋戦争下に嘘と誇張で塗り固めた公式発表を繰り返し、「大本営発表」は信用できない情報の代名詞となりました。当時の軍部は現在に置き換えると政権。政治の中心でなぜ、情報の改竄、捏造、隠蔽が起きるのか? そしてそれはどういった結末を迎えるのか?
2016年に発売された辻田真佐憲さんの『大本営発表~改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争~』は、正確な情報公開を軽視する政治の悲劇、悲惨さを教えてくれます。あらためて知りたい、大本営発表の歴史。戦争に敗退の色が濃くなりにつれ、特殊な話法を生まれていきます。
「転進」と「玉砕」が生まれた理由
一九四三年は、太平洋戦争の攻守が完全に逆転した年である。
この年、米軍は新型の空母や戦闘機を次々に実戦配備し、戦力を大幅に増強した。これに対し、日本軍は各地で後退を強いられるようになった。具体的には、占領した島からの撤退や、守備隊の全滅が相次いだ。高級指揮官の戦死も、もはや珍しいことではなくなった。
ことここに至って、敗退の隠蔽は困難だった。
島々が陥落し、前線が日本本土に近づいている。それなのに、島はまったく陥落していないと強弁する。さすがの大本営も、そんなすぐに露見する噓はつけなかった。この点、陸上戦は海戦のように誤魔化しが利かなかった。
とはいえ、「撤退」や「全滅」をありのままに発表すれば、国民の戦意が萎えてしまうかもしれない。場合によっては、作戦を指導した大本営の責任も問われかねない。それはそれで看過できないことだった。そこで思い悩んだ大本営は、特殊な話法を編み出した。
すなわち、日本軍は撤退したのではない。作戦目的を達成したので、方向を転じて別の方面に進んでいるのだ。あるいは、日本軍は無策によって全滅したのではない。積極的な攻撃によって玉のように美しく砕け散ったのだ──と。
要するに、大本営は、隠し切れない敗退を美辞麗句で糊塗するという新しい技法を身につけたのである。その美辞麗句こそ、悪名高い「転進」と「玉砕」にほかならない。ここに従来の戦果の誇張と損害の隠蔽が加わり、大本営発表はますます現実から遊離していった。
本章では、一九四三年二月から十二月までの十一ヶ月の大本営発表を取り上げ、「転進」や「玉砕」のような言葉が生み出された背景を探っていく。
ガダルカナル島からの「転進」
一九四二年八月七日より、ソロモン諸島のガダルカナル島では、日米間の激しい攻防戦が繰り広げられてきた。制海権をめぐる数度の戦いは、前章で言及したとおりである。一方、陸上の戦いはさらに熾烈をきわめた。
日本軍は、強靭な米海兵隊を駆逐するため、約三万一千名の兵力を次々にガダルカナル島に送り込んだ。ところが、制海権と制空権を米軍に奪われたため、弾薬や食糧の補給に失敗。最終的に、約二万名もの兵力をいたずらに失ってしまった。そのうち四分の三が餓死と戦病死というから、いかに杜撰(ずさん)な作戦だったかがわかる。これに対して、米軍の戦死者は約千六百名だった。
強気の大本営も、増えゆく一方の損害を前にして、ついにガダルカナル島の放棄を決定。翌年二月七日までに三次にわたる撤収作戦を実施した。あとには累々たる日本軍将兵の屍が残された。こうして半年にわたって続けられたガダルカナル島──その悲惨さから「餓島」とも呼ばれた──の攻防戦は、米軍の完勝に終わった。
さて、戦いが終われば、今度は国民に発表しなければならない。今回発表を担当するのは、陸軍報道部である。そのため、ここから陸軍内部で発表文をめぐる駆け引きがはじまった。
連戦連勝を誇る陸軍として、「退く」という言葉は絶対に使いたくない。かといって隠し通すことも現実的ではない。どうしたものかと悩んだ陸軍首脳部は、ついに「転進」という言葉を作り出した。「日本軍は敗北したのではない。作戦目的を達成したので、方向を転じて別の方面に進んでいるのだ」。それが陸軍の言い分だった。
「転進」は、陸軍省軍務局長の佐藤賢了少将(元陸軍報道部長でもある)と、参謀本部第二部(通称、情報部)長の有末精三少将の合作といわれる。つまり、陸軍省と参謀本部が合同でこの詭弁を生み出したわけだ。こうなっては、発言力がない報道部は唯々諾々と発表文を読み上げるほかなかった。
では、二月九日に行われた「転進」の大本営発表を見てみよう。この大本営発表はとにかくわかりづらいが、まずは原文を引いておく。引用後に要約してあるので、無理に読んでもらわなくても構わない。
【大本営発表】(二月九日十九時)
一、南太平洋方面帝国陸海軍部隊は、昨年夏以来有力なる一部をして遠く挺進せしめ、敵の強靭なる反攻を牽制破砕しつゝ、其の掩護下にニユーギニア島及ソロモン群島の各要線に戦略的根拠を設定中の処、既に概ね之を完了し、茲(ここ)に新作戦遂行の基礎を確立せり
二、右掩護部隊としてニユーギニア島のブナ附近に挺進せる部隊は、寡兵克(よ)く敵の執拗なる反撃を撃攘しつゝありしが、其の任務を終了せしに依り、一月下旬陣地を撤し、他に転進せしめられたり。同じく掩護部隊としてソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は、昨年八月以降引続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し激戦敢闘、克く敵戦力を撃摧しつゝありしが、其の目的を達成せるに依り、二月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり。
我は終始敵に強圧を加へ、之を慴伏(しょうふく)せしめたる結果、両方面とも掩護部隊の転進は、極めて整斉確実に行はれたり(以下略)
要するにこういうことである。①日本軍は、ニューギニア島とソロモン群島に新しい拠点を準備中だった。②その間、横腹を突かれないように、精鋭部隊をニューギニア島のブナ付近とガダルカナル島に派遣して米軍を牽制させておいた。③牽制用の部隊は、優勢な敵を相手に実によく戦った。④しかし、新しい拠点が完成したので、牽制用の部隊は別の方面へと移動(転進)させた。
なお、ニューギニア島ブナ付近からの「転進」については次で触れるのでここではおく。
それにしても、発表文は一文一文がきわめて入り組んでおり、たいへんな悪文である。おそらく「転進」の箇所以外にも様々な部署から口を出され、修正を積み重ねるうちに、こうした文章に成り果てたものと思われる。重大な発表には、様々な部署の承認が必要だからだ。あるいは、意図的に損害を隠蔽する行為にためらいもあったのかもしれない。いずれにせよ、前例がないほど難解な文体なのは間違いない。
また、同じ大本営発表の末尾には、彼我の損害が次のように示された。ニューギニア戦線と合わせたものとはいえ、明らかに日本軍の損害が過少に、そして米軍の損害が過多に見積もられていることがわかる。
三、現在までに判明せる戦果及我が軍の損害は既に発表せるものを除き左の如し
(一)敵に与へたる損害 人員 二五、◯◯◯以上(中略)
(二)我方の損害 人員 戦死及戦病死 一六、七三四名(以下略)
言葉の発明に数字の調整。こうした小細工を積み重ねて、大本営はなんとかガダルカナル島の完敗を誤魔化そうとしたのである。
大本営発表を疑いはじめた国民
一方、さきの大本営発表では、ニューギニア島のブナ付近からの「転進」も同時に発表されていた。これについても簡単に触れておこう。
日本軍はニューギニア島南東の要衝ポートモレスビーの攻略をめざし、一九四二年五月に海上からの上陸を図った。ところが、その途中で珊瑚海海戦が発生し空母に損傷を受けたため、作戦は中止された。これは前章で述べたとおりだ。
そこで日本軍は同年七月、海上からではなく、同島北岸のブナ付近より陸路でポートモレスビーを攻めることにした。ところが、南岸のポートモレスビーとの間には、日本アルプスよりも険しいオーエン・スタンレー山脈が横たわっていた。熱帯特有の密林と豪雨も加わり、その踏破は困難をきわめた。結果的に、主力の南海支隊はポートモレスビーにたどりつく前に食糧を失い、九月になって後退を余儀なくされてしまう。なんともいい加減な作戦だったが、このころ大本営はガダルカナル島の攻防戦に忙殺されており、ニューギニア戦線を支援する余力を失っていたのである。
こうして這々(ほうほう)の体(てい)でブナ付近(ブナ、ギルワ、バサブア)に撤退してきた日本軍に対し、十二月、米豪の連合軍が襲いかかった。連合軍の物量に圧倒されて、まずブナ北西のバサブアの守備隊が全滅。次にブナの守備隊が全滅した。ギルワの守備隊も全滅の危機に瀕し、ついに翌年一月同島の西方へと撤退することになった。つまり、ガダルカナル島の攻防戦とほぼときを同じくして、日本軍は連合軍に対して完敗していたわけだ。
大本営は、ここでもやはり敗退の隠蔽を図った。ガダルカナル島の撤退とあわせて、ブナ付近からの撤退も「転進」と発表したのである。さきの大本営発表において、ガダルカナル島とニューギニア島の戦況が同時に述べられていたのは、こうした事情による。
それにしても、こうした「転進」の発表はこれまでの威勢のいい発表に比べ、明らかに歯切れが悪かった。味方の損害も、一万六千人余と決して少なくない。よく読めば、日本軍の苦戦を見抜けなくはない。
現に「転進」発表の前後から、日本軍の敗退を疑う国民の声が聞こえはじめた。
思想犯を取り締まる特別高等警察の内部資料「特高月報」には、大本営発表や新聞報道に不信感を抱く国民の生々しい声が記録されている。
「今日本は負戦さばかりだそうですね。発表ばかり勝つた様にしてゐるが、本統[ママ]は負けて居るとの事だ」(一九四二年十二月二十八日、熊本県内の投書)
「本間[ママ]の事は新聞に書かれへん(中略)十二月三十日に航空母艦が英国でやられ、本月四日にまた六隻がやられ海軍全滅のこと(中略)国民はもう知つてるぞ」(一九四三年一月二十四日付消印、大阪府内の投書)
さらに進んで九月中旬には、兵庫県の高等女学校教諭嘱託が四年生を前にこう話したという。
「新聞には勝つた勝つたと言ふことを書いてゐるが、事実はどうか分らん。勝つたと言ふのに日本には戦死者が非常に沢山あるではないか。之を見ただけでも、我軍が相当苦戦をして不利な方になつて来て居る事は分かるだらう」
また憲兵司令部も、十一、十二月中の「流言蜚語(ひご)」として次のように記録している。
「ガダルカナルでも本当は日本が不利だ。転進と云ふ言葉を使つてゐるが、事実は後退なり」「大本営の発表も当にならぬものが多い」「新聞紙上には、『ソロモン』海戦に於て日本が圧倒的大戦果を収めたと報道して居るが、実際は米英が資材豊富で技術も進んで居るから、絶対日本に負けることはない」(「十二月中ニ於ケル流言蜚語」)
国民は、決して大本営報道部のいいなりではなかった。これ以降、様々な弥び縫策(ほうさく)にもかかわらず、大本営発表に対する国民の信頼はがらがらと崩れ落ちていった。
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(辻田真佐憲『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』「第四章 「転進」「玉砕」で敗退を糊塗」「『宴会疲れ』の海軍報道部に山本五十六長官戦死の衝撃」へ続く)