江戸時代、日本一の料亭と謳われた料亭「八百善」。
一代で八百善を将軍の御成を仰ぐまでに育てた、四代目亭主・福田屋善四郎の波乱万丈の生涯を描いた、松井今朝子さんの小説『料理通異聞』が評判を呼んでいます。
実は八百善の料理は今、鎌倉で味わうことができるのをご存知ですか? 『あたりまえのぜひたく。』『おせん』でおなじみ、漫画家のきくち正太さんが、当時の綺羅星の如き文化人たちのサロンでもあった八百善に想いを馳せながら、江戸料理の粋を堪能してきました。
今に伝わる江戸の味はいかに……!
お茶漬け一杯一両二分、(今のお金でざっくり十一万)、大根の漬物が五寸(十五センチ)の容器で三百疋(ぴき)(ざっくり五万)、料理切手(食事券)がなんと五十両(もはやウン百万‼)。幕府、大名、御留守居役、大店の旦那なんてぇのは言うに及ばず、大田南畝に酒井抱一、京伝、北斎、谷文晁、そうそうたるメンバーが集った文人墨客の一大サロン……。
“八百善”と聞いて、ついて回るのがそんな破格のイメージ。じゃあ肝心の料理の味はどうよ、こればっかりは書物や人の噂では伝わらん、食レポ頼んます! というわけで担当編集者にカミさんと二人、連行されたのが、小雨そぼふる鎌倉駅より車で十分、先述の豪奢なエピソードとはもうまったくの真逆、閑寂、枯淡といった風情がぴったりの侘びた数奇屋茶亭、それが現在(いま)に江戸料理のなんたるかを伝える、平成の、八百善、であった。
十代目主人善四郎氏の時折江戸弁の混じる闊達なお話を伺いながら頂く八百善の料理は、というと、これがまた冒頭の、まことしやかに伝わる当時のやじ馬根性、やっかみ記事の破格さとは裏腹真逆、華奢な折敷、わざわざ磁器のフタを合わせた鉄製の燗鍋酒器、時代は少々若いがどれもこれもきちんとした伝世の食器の数々、そして料理の盛り付け、総てが無駄な飾りなど皆無、言い方をかえれば——ただの地味……。しかしてそのお味は……?!
手始めの一のお向(むこう)、辛し味噌と生姜で頂くイナダ(鰤の若魚、成魚に比べて脂がすっきり)のそぎ造り。まずひと口、思わずカミさんと目を合わせる。
「口に合う!!」
えらそうでも、上から目線でもなく、日本の食をテーマに数々の漫画を描いてきた漫画家の最上最高の賛辞なのだ。どんなに高価で贅沢な料理だろうが、世間が長蛇の列をつくろうが、口に合わないものはどうしようもない。話を元に戻そう、とにかくカミさん共々口に合うのだ。
料理は続く。海老のすり流しで頂く葛(くず)餡仕立の鶏(かしわ)椀、二の向は、フッコ(鱸(スズキ)の若魚、これも成魚に比べクセが少ない)のお造り胡桃味噌。江戸前のうなぎに見立てた茄子の蒲焼きもどき、小振りでとても口あたりの良い海老真薯の椎茸包み揚げ、獅子唐の素揚げ添え、鴨と子芋の治部煮風、調味料は生醤油のみの大豆の水煮、とろろ飯に焼き茄子の味噌汁、香の物、水菓子は梨の黒蜜煮、どれもこれも漫画家、カミさん、再々々度顔を合わせて見事に口に合う! そして、食べ進めてゆくにつれ見えてくる江戸料理の姿! 先述のあえて地味発言の真意はおわかりか?
一見何の変哲もない仕事、けれども見えない所に馬鹿みたいに手間とヒマをかける、例えば遠目には無地、どっこい近寄って見れば、びっしり模様の施された極鮫の小紋の着物、そんなチャーミングでシャイな江戸っ子気質が、料理にもちゃんと生きていて、それこそが食べて初めて味とともに染みてくる江戸料理の真髄だったのだ。
作品中ならば、吸い物と中の実を別々に煮て味を変えたり、大根を辛味が出ぬよう、水の代わりに味醂で洗ったりと(だから五寸の容器で五万の都市伝説?が巻き起こったりするのだが)、他人様の世話ばかり、気配りも人一倍の主人公、四代目善四郎の仕事と気骨を通し、ともすれば、寿司に天婦羅、うなぎにそばといった、ジャンルでしか語られぬ江戸の食い物ではあるが、そんな単品グルメだけではなく、江戸料理だって京料理同様、口福この上ない日本の食文化であるということを改めて合点させてくれたのが、松井今朝子氏の『料理通異聞』なのだ。
余談ではありますが、十一代目雄太郎氏が、私の漫画『おせん』のエピソードを作者本人より克明に覚えて下さっている事に、ただただ感動いたしました。私も往時の八百善を賑わした江戸の粋筋の人達に、ちょっぴりはお近づきになれたのかしらん。なんてね。
きくち正太
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