AV村と外の常識の違い、気温差に驚く
今年1月、「うちの娘はAV女優です」が発売された。
「自分の本が出る」という体験は、初めてのことだった。自分が投げたボールが自分の想像をはるかに超えた場所にまで届き、思いもかけぬところからそのボールがまた形を変えて返ってくる、そんな不思議な手応えを感じた。
記事がアップされたら即コメントやツイッターのリプが飛んでくるネットの連載とは、まったく別のものだ。少し大きめの拡声器を手渡されたようだった。同時に耳をふさぎたくなるような音までも拾う補聴器もやってきた。
そしてAV業界ではすでに常識となっている親公認のAV女優の存在はその外ではまだまだ知られていないことを改めて感じた。思った以上に世間ではAV業界のことは知られていないし、村と街の気温差は激しかった。その気温差に少し驚いたけれど、親バレ問題で悩む現役の女優さんが本著を手にとってくれた、という話を業界関係者から聞いたときには自分がお世話になっているAV村に恩返しができたような気がして嬉しかった。
また業界の超有名人ともいえる人たちとイベントでご一緒したり、本を買ってくれた人にサインをした。そもそもサインなんて買い物するとき以外には自分はすることじゃないと思っていたので、気恥ずかしかったけれど、きっと死ぬ前にこれらの景色が私の人生のハイライトとして思い出されるのだろう。
そんな新たな緊張感もあったこの数ヶ月、いくつかレビューやコラムも書いていただいた。「読んで、感動した瞬間に伝えようと決めたので」と私の何十倍も知名度も実力もある方がわざわざDMを送ってくれたことは嬉しいサプライズだった。
作家の花房観音さんのコラム「私を許す人 ~「うちの娘はAV女優です」アケミン・著~」には多いに励まされ、より深い気づきを与えられた。読んでいるそばから私の目からはハラハラと涙がこぼれ落ちていた。
「うちの娘はAV女優です」のスピンオフともいえる今回はごく私的な「親公認と許し」について書きたいと思う。思わず落ちた涙が乾く前に。
普通の人生を歩めていない申し訳なさ
この本の表紙の写真の二人の女性は元AV女優の桜井あゆさんとお母様だ。親御さんと一緒に写っている写真を貸してほしいという無理難題といえるリクエストに快く応えてくれた。2月ロフトプラスワンで行われた刊行記念イベントで久々に会った桜井あゆさんは、地元・宮崎にいるお母様が本著を読んで、とても喜んでくれていることを明かしてくれた。もうすぐ小学生になる娘さんも元気に過ごしているようだ。
そしてあゆさん同様、私もこの本を両親に手渡した。あとがきにも記したが親は私がAV業界にいること、ライターをしていることを知っている。ほぼ1日で読み終えた父は「よく頑張ったね、いろんな人に話を聞いて丁寧に書いたのが伝わったよ」と照れくさそうに感想を述べた。少しお堅いサイトにもこの本に関する記事が載っていた日は少しソワソワしていたようだった。
母からは「え? 表紙の写真、あなた?」というオカンパワー全開のコメントがやってきた。顔認証システムが劣化しているのだろう。桜井あゆさんの顔は個人的にとてもタイプなので、勘違いとしても嬉しかったけれど…。やがて彼女は「う〜ん、やっぱり娘は勘違いされたくないなぁ」と早口で私に告げた。
というのも数年前に私がテレビ番組でAVライターとして出演した際、非常に違和感を抱いたらしい。そのコーナーで私は女優についての裏話や「業界あるある」を述べていたのだが、母いわく、それを聞いていたMC役の芸人が「この子、とんでもないことを言っている!」という表情になっていたようだ。
自分の娘が人様から(しかも人前で)ギョッとされるのは親としてショックだった、という。AVが世間的にどんなイメージを持たれているか、ということに母の関心はない。「世間から娘が不用意に傷つけられないか」を案じ、感情的になるのだという。
娘にはなるべく多くの選択肢をいくつになっても手にしてもらいたいし、極力傷ついてほしくない。そんなやや過保護ともいえる優しさのもと、自分は育てられたのだと改めて思った。そしてそれらの言葉を聞くと「申し訳なさ」が心に広がっていく。そして「ごめんね」と無言でつぶやいている自分に気づいてしまう。それは雪に触れると冷たいと思うぐらい、反射的でありきたりなものだ。
しかしその「申し訳なさ」って一体、なんだろう。
私は多くの親が望む(といわれている)、「大学を出て、就職をして、結婚をして、出産をする」人生の王道プランには乗り切れなかった人間だ。大学は出たものの安定した仕事には就職していないし、結婚はしたけれどバツもついている。なんで自分は王道プランにハマらなかったんだろう。こんなはずじゃなかった。親のいうように生きられなかった自分はダメなの人間では? と思う。ふさぎこんでしまうわけではないが、「なんでかな〜」と人生を見つめるたび、無意識に自分を責めていることに気づく。
とはいえ、冷静に考えると子どものころから「結婚して、子どもを産んで、早く孫の顔を見せろ」と両親から厳しく教え込まれていたわけじゃない。海外で暮らしていたこともあり、比較的リベラルな環境で育った自負もある。しかも同級生や幼なじみ、周りの友達にもフリーランスはたくさんいるし、独身、バツイチ、シングルマザーなど多種多様な人種がいるわけで。
一旦、その申し訳なさから距離を取ってみると、同級生や友達が「普通に」「みんなが」ごくごく簡単に手にしていることができないと罪悪感を生み出したのは親ではなく私自身で、自分が作り上げてきたこと。自罰的な意識に進んで浸り縛られていること。「普通の人生」に一番とらわれていたのは親ではなくて、自分だったこと。「申し訳なさ」を解体した先に、そんなものが見えてきた。
「お母さん、ごめんね。……でもどうして、謝らなくちゃいけないんだろう。」そんな問いを抱いていたのは、AV女優だけではない。私は自分の「申し訳なさ」を許したかった、許されたかった。もちろんライターとして「業界の変化を記したい」という思いは明確にあったが、それ以外にも個人的な潜在意識が引き寄せたのだろう。娘が自分の内包する価値観では到底、判断できない仕事に就きたいと言ったとき、親が子どもを受け入れる話を記したかった。
もう私は誰にも謝らなくていい。
「うちの娘はAV女優です」には、そんな個人的な背景も横たわっていた。
本が発売されて約2ヶ月、本書を書き終えてからは、かなりの時間が経っている。このタイムラグ感、思いもかけぬところからボールが返ってくるこの感じ、初めての手触りだった。そしてまだまだ知らない感触があるだろう。だから私は、これからも書きたい。
人生を親のせいにしない。自分で引き受ける
親が娘の「AV女優になる」という選択を認め、許しているだけではなく、AV女優自身も同時に親を「許して」いる。
シングルマザーによる子育ての貧困、ネグレクト、父親のDVやモラハラ、親の病気や介護の重圧など、それ自体が深刻な社会問題として取り上げられるバックグラウンドを持っているケースを取材を通して見聞きしてきた。取材した女優たちの多くはまだ20代前半、若い彼女たちが背負う負荷としては重すぎる。しかしその言葉を振り返ると、誰一人として未だに「親のせいで自分の人生がこうなってしまった」という類の言葉を語る女性は登場しない。壮絶だが悲壮感はなかった。
「親のことは単なるきっかけ」
「(母親や自分に暴力を振るった父親も)いつか許さなきゃと思った」
「(親に自分の育て方が悪かったと)思わせてしまったのは悲しい」
そんなセリフが随所で見受けられた。ときにそれらは強がりとも取られるし、親をかばっているかもしれない。また必死に自己肯定をするためにこしらえたものという見方もできる。しかし今の仕事をしているのは自分の責任、これは私の選択、そんな彼女たちの覚悟が言葉を越えて伝わってきた瞬間は今でも鮮やかに思い起こすことができる。
人によって、自らAVの仕事を選んだきっかけは浅はかだったし、ひょっとして自分ってダサいし痛いかも、そんな若干の後悔も混ざっていたけれど、潔さと強さは頼もしかった。決して裸の仕事をすることを美談に仕立て上げるつもりはない。やっぱり風当たりの強い仕事だと、この業界にいればいるほど、特に最近は強く思う。ただ出来る限り自分の人生を引き受けたい、と背筋が伸びる思いを彼女たちから受けるのも事実である。
自分の子ども、親、または恋人やパートナー…ごく身近な人間の選択が、自分の想像やそれまで培ってきた価値観から多いに外れた場合、「ありえない」「とんでもない」「こんなはずじゃなかった」と判断して突き放し、彼ら彼女とは別個の道を進むことがある。またお互いの正しさを競い合っているうちに人間関係がほつれる苦い経験は大人ならひとつやふたつ、あるだろう。
しかしその一方で「それもまた一つなのかも…ね」「そうなってしまったのも仕方ないかもしれない」そんな風に関係を紡いでいくこともある。距離を取り、時間を重ねながら、許しあう関係も存在する。
「もうすぐお前も20歳になるし、反対したところで押し切ってお前はAVをやるだろう」 親や兄弟にAVの仕事がバレ、一度は引退を決意し実家に帰ったものの、やはりもう一度AVに出たい。そう直訴した19歳の涼木愛花(仮)に対して父親が告げた言葉だ。
また桜井あゆの母親は「あんたが死ぬこと以外、なにも驚かないよ、どうせ私たちが止めたところであんたはやるでしょ。だったらやればいい」と娘を受け止めた。
優しさと曖昧さを孕んだ言葉は時に「甘い」と批判される。取材時には「娘に対してだらしのない親なのかな?」と批判的で少し意地悪な気持ちが私の中にも生じた。わがまま娘に手を焼いた挙句、放任してしまったのかなと思ったこともある。しかしその後、愛花やあゆの家族はとても仲良く暮らしている。いや私が20代のころよりももっと密なコミュニケーションを取っている様子はとても羨ましく感じた。そもそもこの本の写真になるような写真を私は母親と撮ったことはない(完全に余談だがこのセルフィー、グッと二人が顔を近づけ、目線をキッチリ合わせないと再現不可能だ。どうしてもヒマな方は試して、その難しさを感じていただきたい)。
「そんな甘い親はけしからん!」と第三者が妙な正義感とともに断罪する意味はあるのだろうか。もちろん娘がだまされたり、その労働力を搾取され、強要さえているのを見過ごすのは「けしからん!」ことだけれど、彼らが笑い、今現在、信頼し合える関係を築いているのなら本当に「けしからん!」ことなのか。
「私たちが認めてあげなかったら誰がこの子の味方になってあげられるの。家族が味方になってあげなかったらこの子はひとりぼっちになっちゃうでしょ」
本著のコラムでも数回に渡り登場する「かすみ果穂」という女優がいる。彼女はすでに引退してしまったけれど、AVの仕事が両親にバレ、家族会議が開かれた。その際に「私は辞めない」と一点張りだった彼女を前に最後の最後に母親が父親に告げたのがこの言葉だ。
そんな、本書には納めきれなかった言葉もポロポロと思い出した。
私が手渡した本をちらっと眺め「でも私たちがいくら言ったところで、本も出したし、あなたはもう他の仕事はもうできないでしょ」少し突き放すように語る母と、困ったような笑顔を見せる父の顔を前にまた「ごめんね」と心の中で言いそうになってしまったけど。