「第九」は曲の完成後、演奏にこぎつけるまでも、劇場選びやプログラム、歌手の降板など、様々な困難があった。総リハーサルもたったの2回。ウィーンのケルントナートーア劇場での初演演奏会は5月7日と迫っていた。(『第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話』中川右介)
初演の「伝説」
一八二四年五月七日。いよいよ、初演の日となった。演奏会の開始は午後七時。
ベートーヴェンは「総指揮者」としてステージに立たなければならない。彼が聴衆の前で指揮をしたのは、一八一九年一月のウィーン大学主催の慈善演奏会での交響曲第七番以来だった。五年のブランクに加え、聴力の衰えで、もはや指揮などできるはずがなかった。そのために、実際の指揮者としてはウムラウフがおり、ベートーヴェンは開始の合図を出すだけで、その後も腕をふりまわしていたが、楽団員たちは誰もベートーヴェンを見ていなかった。ウムラウフを見るように指示されていたのだ。
ベートーヴェンが招待状を配り歩いたにもかかわらず、貴賓席(きひんせき)は空席だった。皇帝と皇后は数日前にウィーンを離れており、皇室の出席はゼロだった。ベートーヴェンの弟子であり後援者であるルドルフ大公も、司教としての任地であるオルミュッツを離れられず、欠席だった。それでも、貴賓席以外は満席だった。ベートーヴェンの十年ぶりの交響曲を、ウィーンの人々は待ちかねていたのだ。
「大序曲」「大賛歌」と終わり、最後が「大交響曲」だった。この時代、交響曲第何番と呼ぶ習慣はまだないので、「第九」とも「九番」とも呼ばれない。
「伝説」ではこうなっている――交響曲が終わり、爆発的な拍手が起きているのに、ベートーヴェンは気づかず、いつまでも客席に背を向けていた。それに気づいたカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンのそばへ行き、彼の袖(そで)を引っ張って、客席のほうを向くように促した。拍手している聴衆を見て、ようやくベートーヴェンは客席にお辞儀(じぎ)をした。
なかなか感動的な話として、よく知られている。
ところが、これには異説もある。聴衆が興奮して、万雷(ばんらい)の拍手となったのは、第二楽章が終わった時だったというのだ。さらには、第二楽章の途中で大きな拍手となり、一時は曲が聴こえなくなるほどだったとの話もある。なかには、第二楽章をもう一度演奏するよう求める声もあったとの証言もある。
さて、大喝采(かっさい)は、どの時点だったのだろうか。こんにちの感覚では、当然、第四楽章が終わった時点のはずだ。だが、当時の聴衆には、合唱付交響曲そのものが前代未聞のものだった――厳密には合唱付交響曲は「第九」が初めてではないが、当時のほとんどの聴衆にとっては、これが初体験だった。さらに、ベートーヴェンはシラーの頌歌をかなり切り刻み、順番を変えたりしているので、はたして歌詞が理解できたのかどうか。そういうわけで、もしかしたら、第四楽章が終わった時、聴衆は呆気(あっけ)にとられるだけで、そんなに盛り上がらなかったのかもしれない。
それに対して、第二楽章はテンポが速いので、確実に盛り上がったはずだ。聴衆は第二楽章が終わった時点で大爆発し、最後はそれほどでもなかったという可能性を否定できない。あるいは、第二楽章が終わった時と、最後の二度の大喝采があったのか。それもありえる。
ロマン・ロランは――もちろん、彼が当時を目撃したわけではないが、『ベートーヴェンの生涯』にこう書いている。
[成功は凱旋(がいせん)的であった。それはほとんど喧騒(けんそう)にまで陥った。ベートーヴェンがステージに現れると、彼は喝采の一斉射撃を五度までも浴びせかけられた。儀礼的なこの国では宮廷の人々の来場に際しても三度だけ喝采するのが習慣であった。警官が喝采の大騒ぎを鎮(しず)めなければならなくなった。『第九交響曲』は気狂いじみた感激を巻き起こした。多数の聴衆が泣き出していた。ベートーヴェンは演奏会のあとで、感動のあまり失神した。]
ともあれ、演奏会は成功した。聴衆は新しい音楽に戸惑ったかもしれないが、満足して帰った。
ベートーヴェンも終演直後は満足そうだった。
しかし、ベートーヴェンを含む関係者一同が幸福なのはその時までだった。
演奏会は利益が出なかったのである。
ベートーヴェンが気絶したのは、それを知ったからだとの説もある。
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