葛飾北斎はなぜ「世界の北斎」になったのか?
国内と世界各地を回って取材しているノンフィクション作家、神山典士です。
今春書き下ろす「知られざる北斎」(仮題)一部抜粋してご紹介させてください。
正月三が日も休みなく書いている(書かざるを得ない、書きたくて仕方ない)ノンフィクション作家神山典士です。
アーティスト側から見たジャポニズムとは
当時フランス美術界では、17世紀にルイ14世が創立した「美術アカデミー」の歴史を引く「サロン」が厳然たる力を持っていた。サロンに入選しなければ画家として認められない。画廊も相手にしない。それに反発するかのように台頭してきたのが、のちに印象派と呼ばれる若き画家たちだった。
サロンが先導する宗教画の流れを引く古典的な美術様式に対して、近代絵画の父と呼ばれるマネ、それに続くモネ、ドガ、セザンヌら若手アーティストたちは人々の市井の暮らしや自然の中に美を見出していく。だがそれらの絵はサロンでは撥ねられ、画廊や評論家たちにもなかなか受け入れられない。
そこにファーイーストの島国から突然現れたのが浮世絵だった。彼らは浮世絵の持つ自然と一体化したテーマ性、アシメトリー(左右非対称)な構図、鮮やかな色彩等に驚き、憧れを抱き、その特徴を自らの創作に競って取り入れていく。そのムーブメントに、この時期パリに現れたゴッホ、ゴーガン、ロートレックらが続いた。
1886年から2年間パリに住み、約500枚の浮世絵を所有していたフィンセント・ファン・ゴッホは、歌川広重の「名所江戸百景」と渓斎英泉の「雲龍打ち掛けの花魁図」をそのまま模写した。モンマルトルの画材商を描いた「タンギー爺さん」の背景には、北斎や英泉を含む6枚の浮世絵が描かれている。アルルで描いた「星月夜」や「糸杉」には、北斎の「神奈川沖波裏」のタッチが用いられた。
クロード・モネは、ジヴェルニーの別荘に数百枚の浮世絵を所有し、リビングを含めた幾つもの部屋に所狭しと飾っていた。晩年「睡蓮」を描いた庭の池は、日本風に竹林やススキの群生を周囲に配し、池に植えた睡蓮も日本から取り寄せたものだった。76年に描いた「ラ・ジャポネーズ」は、着物姿の妻に芸者風のポーズをとらせ、その手にはトリコロールの扇子を持たせた。背景には12枚もの扇子を描いている。
ポール・セザンヌは、作風というよりも製作スタイルにジャポニズムを取り入れた。86年ころから描かれた故郷南仏のサント・ヴィクトワール山。何枚もの連作で描かれたその山の雄姿は、北斎が「冨嶽三十六景」や「富嶽百景」で繰り返し富士山を描いたように、ひとつモチーフを様々な角度から連作する姿勢に影響を受けている。モネの睡蓮の連作も同様だ。
踊り子を描いたシリーズで有名なエドガー・ドカは、対象を見る「視線」にジャポニズムを取り入れた。半裸の女性を背後から描いた「背中を拭く女」、腰に腕を当てた踊り子を背中から描いた「踊り子たち、ピンクと緑」等、それまでのモデル然とした女性ではなく、庶民の何気ない姿に「美」を見出したのだ。これも庶民の飾らない表情やポーズ、生活実態を描いた「北斎漫画」の影響と言われる。」(続く)
知られざる北斎
「冨嶽三十六景」「神奈川沖浪裏」などで知られる天才・葛飾北斎。ゴッホ、モネ、ドビュッシーなど世界の芸術家たちに多大な影響を与え、今もつづくジャポニスム・ブームを巻き起こした北斎とは、いったい何者だったのか? 『ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌』で第45回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した稀代のノンフィクション作家・神山典士さんが北斎のすべてを解き明かす『知られざる北斎(仮)』(2018年夏、小社刊予定)より、執筆中の原稿を公開します。
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