「神奈川沖浪裏」「北斎漫画」などで知られる天才・葛飾北斎。ゴッホ、モネ、ドビュッシーなど世界の芸術家たちに多大な影響を与え、ジャポニスム・ブームを巻き起こした北斎とは、いったい何者だったのか? 『ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌』で大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)を受賞した、気鋭のノンフィクション作家・神山典士さんが北斎のすべてを解き明かす『知られざる北斎(仮)』(2018年夏、小社刊予定)より、執筆中の原稿を公開します。(前回まではこちらから)
北斎狂人伝説
貧窮人の商いと言われる唐辛子売りに身をやつしても、画法の修業だけは怠らなかった北斎。名が上がるに連れて、五月幟を注文する客人が現れたエピソードが、1893年(明治26年)死後約40年たって飯島虚心によって初めて書かれた「葛飾北斎伝」に描かれている。
この頃魔よけの呪いとして「鐘旭(しょうき)」の絵を描くのが江戸の習わしであり、朱描きにすることで子どもの疱瘡よけと信じられていた。とある客人からのそのオーダーに、北斎は喜んで朱を溶いて鐘旭を描く。
目をカッと見開き正面を見据え、身体をグイと倒し左足に体重をかけたその雄姿。気迫に満ちた鐘旭像が生れた。
完成度の高さに客人はとても喜び、二両の代金をくれたという。
二両! 当時は侍の最低の給料が三両と言われた時代。江戸期平均で1両=6.6万円と言われているから、いまでいえば20万円程度か。その3分の2を一枚の絵で得られたのだから、唐辛子売りの北斎には嬉しかった。
のちに北斎は、金に頓着がないことで有名だった。地本問屋が画料を持ってきても袋のまま机の上に放り投げておき、借金取りがやってくるとそのまま渡す始末。だが初めて二両をもらったこの時ばかりは金の入った包みを前に、しばし見とれていたという。
この時を機に、北斎の生活は一変したと言われる。
―――売れぬ食えぬの心を抱いて描く絵では初めから問題にならぬ。知らず知らずに売るための絵を描いていた。売るための絵を描いてはならぬ。売れる絵でなければ。世間の眼は正しいのだ。
以降北斎は朝まだきから絵筆をとり、人の寝静まるまで描き続けた。日々画法の工夫を重ね、腕がなえ眼が疲れ果ててからようやく絵筆を置き、蕎麦を二杯すすって眠りに就く。
酒も煙草も茶すらも口にしない。本所柳島にあった妙見菩薩を信仰するようになり、39歳の時に北斎辰政と号を変えた。
妙見菩薩は仏教における天界に住む天界神の一人で、北辰妙見菩薩とも呼ばれる。中国で北極星信仰と習合して日本に伝来した宗教だ。中国の星宿思想から北極星を神格化したもので、これ以降北斎が名乗るさまざまな名は、この思想に根源がある。
以降北斎は、道を歩くときは常に法華経の呪文を唱え続けた。
「この呪文を唱えていれば道で知ったひとに会っても眼に入らない。まったく奇妙なことだ」と北斎は言った。道端で人と立ち話や雑談をすることが、とにかく煩わしいのだ。
以降北斎はその号を変えること30数回。引っ越しは生涯で90数回を数える。
不染居、辰政、錦袋舎、画狂人、画狂老人、九々〇、雷震、戴斗、鏡裏庵梅年、天狗堂熱鉄、月〇老人、為一、卍、卍翁、所随老人、百姓八右衛門、三浦屋八右衛門、乞食坊主卍、土持仁三郎等々。
その理由を尾崎は、
「これらの改名も結局は、北斎の信仰に基するとみる」と書いている。
引っ越しは、掃除をする習慣がなかったゆえ。部屋が散らかって創作作業がどうにもならなくなると、近くの空き家に引っ越したと言われる。
作品の多彩さ
この絵筆一筋の生活を40歳から半世紀続けた北斎は、生涯でおよそ3万4000点という膨大な作品を残した。単純計算しても、一日約2点を50年間描き続けたことになる。
しかもその種類が多彩だ。
「北斎漫画」に描いたのは人間のあらゆる動きや筋肉の躍動、歴史上の人物、虫や鳥、草花、建物、仏教道具等、森羅万象あらゆるもののデッサン(総数3191)。浮世絵では美人画、相撲絵、役者絵といった人物画。富士山や瀧、橋の連作に見られるような風景画。妖怪、像、虎、龍など想像上の生物。波、風、雨といった自然現象。そしてもちろん春画。
その画法も浮世絵(版画)でも肉筆画(一枚絵)でもなんでもござれ。西洋の遠近法を使った西洋画も残し、油絵やアラビアガムを使った水彩画も描いている。
描く媒体も薄っぺらい黄表紙や上等な小説が書かれた読本の挿絵。当時の流行作家・曲亭馬琴の小説に北斎が挿絵を描いた草双紙合巻。40歳頃から書き出し、のちに「水の画家」としての評価の走りとなった狂歌本等々。
50代の前半までにあらゆる挿絵を絵がきつくした北斎は、52歳の時に絵手本「略画早指指南」を出す。
「画にことごとくその法あり。されどおこるところは方円をでず」
画は円と角とで表現できるから、定規とコンパス(ぶんまわし)があれば全ての物を表現できると説いている。絵手本は、すでにこのころ増えてきた弟子のためのお手本集だ。その後延べで14冊以上の絵手本を、52歳から61歳にかけて描いている。
その真骨頂はもちろん「北斎漫画」。55歳の頃に初編を発表し、5年間で10編を描いた。一度は筆を置いたが、好評だからとまた描き出して没後の1878年に15編が刊行されている。
その後60代から70代にかけて日本初の風景画「冨嶽三十六景」があり、「富嶽百景」へと続いていく。そして80代からの最晩年は、アトリエを長野県小布施に移しての肉筆画時代へ―――。
つねに一カ所に安住せず、絶えず新しい画境を切り拓く。常に向上を願って新天地に向かうのが北斎であり、その精神なのだ。
こうして歩みを振り返ると、74歳から出版し始めた「富嶽百景」の跋文に書かれた人生訓は心に響く。
「己6歳より物の形状を写すの癖ありて
半百(50歳)の頃より数々画図を現す、
73歳にして禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり、
80歳にして益々進み、
90歳にして奥意を極め、
100歳にして神妙ならん、
110歳にしては一点一格にしす生きるが如くならん」
現在言われる「人生百年時代」を約170年先取りして、絵に生き絵に狂い絵とともに人間の真理と限界を見ようとした男、葛飾北斎。
だからこそヨーロッパのアーティストの心を鷲掴みにして、国境も時間も越えて生き続けているのだ。
知られざる北斎
「冨嶽三十六景」「神奈川沖浪裏」などで知られる天才・葛飾北斎。ゴッホ、モネ、ドビュッシーなど世界の芸術家たちに多大な影響を与え、今もつづくジャポニスム・ブームを巻き起こした北斎とは、いったい何者だったのか? 『ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌』で第45回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した稀代のノンフィクション作家・神山典士さんが北斎のすべてを解き明かす『知られざる北斎(仮)』(2018年夏、小社刊予定)より、執筆中の原稿を公開します。
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