富士山の見える町で介護士で働く日奈、海斗、畑中、そして東京のデザイナー宮澤という4人の視点から彼らの恋愛と人生が描かれる窪美澄さんの最新刊『じっと手を見る』。
先日、うかがった丸善ラゾーナ川崎店には、文芸担当・小川英則さんが書かれた感想の冊子が配布されていました。一部を抜粋してご紹介いたします。
全文は、ぜひ丸善ラゾーナ川崎店にてご覧ください。(編集担当)
窪美澄の代表作になるだろうことは、読み進めていく内に直ぐに確信に変わった。前作『やめるときも、すこやかなるときも』は窪さんの作品には珍しいほど、多幸感に包まれるような爽やかな余韻が素晴らしい大傑作だったが、今作『じっと手を見る』はそれと反転するかのような、とても重苦しいものだ。
ただ重苦しいだけではなく、読み終えた後に感じる希望なのか絶望なのかが判別し難い感情の揺らぎは、余りにもこの作品が特別なものだという証なのだと思う。どこまでも深く潜っていくような、それでいて、こころが浄化されていくような感動を、静かに噛みしめながらも、何度もこの物語について振り返ってみたいと思わされる、そんなどうしようもなくひとを惹きつける魅力がある。
……(中略)……
ここではない、どこかへ。あなたではなく、他の誰かを。人はどうしてさびしいと感じ、体はこうも誰かを求めるのか。そんな答えのない問いが全編ずっと鳴り響いているかのよう
だ。彼らは皆、何もかもが寄る辺ない。ぐらぐらとずっと揺れ続けている。ただひとつはっきりしているのは、やがては老いて死ぬという事。それを介護という職を通して、彼らはずっと感じ続けている。そこに宮澤という外からの人間が介在することによって、彼らの日常に波紋が広がるのだが、それもまたやがて日々に呑まれていく。読み進めていく内に、時々「人生とは何ぞや」そんな大きな疑問さえも浮かんでは消えいく。
ただ、快楽に身を任せ、体を寄り添い合い、誰かを信じたり、裏切られたりする。そんな怠惰に絡み取られてどうにもならない彼らの日々の営みを読んでいると、現実がとても残酷であることを私たちは思い出させられる。そして簡単に忘れてしまうことも。だからこそ、生きていくことができるのかもしれない。読んでいる間ずっと、そんなことを考えていた。
ただ、不思議と私は誰の事も感情移入できなかった。でも、彼らのその時々の感情には、何度も共感を覚え、こころが震えたのだ。不器用に生きる彼らのひとつひとつの感情にこそ、この物語を読む意味があるとさえ、思ってしまった。そうやって読み終えてからずっと、胸の中で彼らの物語は生き続けている気がする。そして、ふとそれはいつの間にか現実の私の日々に引き継がれているのだと気づかされる。
深く心に突き刺さり、語るべきことがあまりに多い作品だ。
(丸善ラゾーナ川崎店 文芸担当 小川英則)
じっと手を見る
窪美澄さんの小説『じっと手を見る』をさまざまに紹介。