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知られざる北斎

2018.04.21 公開 ポスト

北斎の世界デビューと19世紀ジャポニスム(1)

モネの家は「日本愛」の塊だった神山典士

「神奈川沖浪裏」「北斎漫画」などで知られる天才・葛飾北斎。ゴッホ、モネ、ドビュッシーなど世界の芸術家たちに多大な影響を与え、ジャポニスム・ブームを巻き起こした北斎とは、いったい何者だったのか? 『ペテン師と天才 佐村河内事件の全貌』で大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)を受賞した、気鋭のノンフィクション作家・神山典士さんが北斎のすべてを解き明かす『知られざる北斎(仮)』(2018年夏、小社刊予定)より、執筆中の原稿を公開。本日からは北斎と19世紀ジャポニスムを繙きます。(前回まではこちらから)

最晩年のモネに「18枚譲ってください」と言った日本人

「松方さんに連れて歩かれた間で、最も愉快であり有意義でもあった一日は、大画家モネー(※原文ママ)への訪問であった。これはもう既にモネーの晩年で、ジベルニー(※原文ママ)に隠棲していた時であった」

 いまから40年以上前、1973年に東京、京都、福岡で開かれた「モネ展」の公式図録に、美術評論家の矢代幸雄が書いている。矢代は1890年(明治23年)生まれ。東京帝国大学(現・東京大学)を主席で卒業後大学院へ進み、1921年(大正10年)から25年にかけて渡欧。フィレンツェ在住のアメリカ人美術史家バーナード・ベレルソンに師事した。

 その留学の間、川崎造船社長で美術蒐集家であった松方幸次郎の絵画購入の旅に同行しているから、この描写はその頃のことだ。

 松方は1866年(慶応元年)生れ、明治の元勲で第四代第六代総理大臣を務めた松方正義の三男。東京帝国大学を中退し、エール大学留学。父の秘書を経て、1896年(明治29年)に川崎財閥創始者・川崎正蔵に要請され川崎造船所初代社長に就任。第一次世界大戦の折りに軍用船を多数造船し、大儲けした金を美術品蒐集に向け、松方コレクションを築き上げた。その後経営破綻したりフランスやイギリスで作品を預けていた収蔵庫が火災にあったりして多くを失うが、残った作品の一部はのちにフランスから戻されて国立西洋美術館に収蔵され、現在のコレクションの母体となっている。

 松方はモネを訪ねたこの日、予め1808年のナポレオン印のあるブランデーを買っていき、モネに差し出した。モネは「ナポレオーン、ナポレオーン」と大はしゃぎだった。その後松方はアトリエの各部屋の壁に飾ってある何枚ものモネの絵を見て、やおら「この中の18枚の絵を譲ってください」と直談判を始めた。矢代はこう書く。

「これにはさすがのモネもびっくりしたようで、まるで感激して「お前は私の画をそんなに好きなのか」とたずねた。それでモネー(※原文ママ)は「自分の家にある画はもともと売りたくないのだけれども、お前がそんなに言うなら、譲ろう」という深き知己感による感激の光景になった」

 この頃モネは80代前半。のちに睡蓮の大作が飾られるオランジェリー美術館の設計と建設が始まったころだ。矢代の記述では触れられていないが、1922年ころには両眼の白内症が進み、悩みながら創作を続行していたと言われる。25年には憂鬱症の発作を発症し、26年12月5日、松方と矢代の訪問から数年後、ジヴェルニーのこのアトリエで86歳で息を引き取っている。

 矢代も書く通り、松方のこの訪問はモネの最晩年のことであり、この時に手にした18点は貴重なコレクションとなった。この時代からすでに日本人を虜にしていたモネ、あるいは印象派の人気を物語る、貴重なエピソードだ。

照れてしまうほど強烈な「愛」

 モネは現在でも、日本人に最も愛される印象派の画家だ。だがモネ本人もまた、19世紀末ヨーロッパで起きたジャポニスムのうねりの中にあって、ゴッホと共に「日本愛」を公言して憚(はばか)らない画家の一人だった。変人と言われたセザンヌは、ついぞ日本美術の影響は自ら語らなかった。ドガもまた、公言はしなかった。当時はひっそりと日本の浮世絵をもっていることが、画家のプライドだったのか? 春画の所有をあからさまに自慢したロダンは、ずいぶん可愛いものだった。

 その中にあってモネの「日本愛」は、日本人が照れてしまうほどに強烈だ。

 その聖地を訪ねるために、パリのサン・ラザール駅からブルターニュ地方に向かう列車に乗る。同じ目的地に向かう家族連れ、カップル、若者グループ、外国人観光客らとともに、満員の二階建て車両で北西に向かい約40分。ヴェルノン駅でほとんどの乗客が降りて、そこからは乗合バスだ。13世紀の古城跡等が残る小さな古い町並みを左右に見ながら約20分。低い丘陵と牧草地、草をついばむ肉牛と道の両脇に植えられたポプラ並木等、典型的なフランスの里山風景の中を進むと「ジヴェルニーのモネの家」が現れる。

 フランス革命時代はル・ロリエ家の領地だったこの地をモネは気に入り、1883年、43歳の時にそこにあった田舎家と広い庭を借りて住居とアトリエにした。86年にアメリカで展覧会を開いて絵が売れるようになると、90年にはこれを買い取り、3つのアトリエをつくった。つまりこの家は、モネがモネになる前と後を知る存在ということになる。

 以降約130年、現在のジヴェルニーの人口は約500人。それに対して年間の観光客は約60万人(人口の約1200倍!)。公式ガイドブックにも「ジヴェルニーで働く全ての者にとって、訪問客こそが最大の報い」と書くほど、この町にとってモネの家は唯一最大の産業であり、財産であり、シンボルでもある。理想的な芸術立町だ。

 車道に対して右側には、いまもモネの生前そのままに手入れがなされた池がある。睡蓮が咲き誇る「水の庭園」だ。手鏡型の池と太鼓橋、その上にかかる藤棚。モネに睡蓮を描くことを提案したのは、第一次大戦を指揮したフランスの首相、ジョルジュ・バンジャマン・クレマンソーだと言われている。彼は、「毎朝、モネは池の畔に数時間佇んで、雲や青空の断面が湖面を神秘的に流れていくのを黙って見ていた」と述べている。モネはこの池の睡蓮をモチーフに、晩年には200枚にも及ぶ連作を描いた。

 道路の左側には、広大なヨーロッパ式の庭園の奥に、小さな小学校然とした巨大な二階建ての建物がある。かつては果実酒の圧搾序として使われていたピンク色の壁の家。植物が屋根まで絡まっている。その隣には高い天井に天窓が付き、太陽光がさんさんと降り注ぐ大きなアトリエ(現在は記念品ショップ)。庭園には季節によって様々な彩りを見せるバラ、チューリップ、アイリス、芍薬、桔梗等々、様々な花が今は亡き主の寵愛を受けるべく咲き誇っている。

 母屋の裏にある事務所でチケットを買い、まずは睡蓮の池へ。車道の下のトンネルを潜ると突然、目の前に青々とした竹林が現れる。その先には「ここは日本か?」と思わせるススキの群生。左に回り込むと、足元には豊穣な水量を湛えた小川。町の中央を流れるセーヌ河と交わるエプト川から引き込まれた流れは常に澄み渡り、湖面に周囲の美しい光景を映し出しながら、池に咲く睡蓮を引き立てる。

 私が訪ねた秋の日には湖面にボートが浮かび、この施設を管理する「クロード・モネ財団」のグリーンの作業着を着たスタッフが湖面のゴミや落ち葉、花、枝等を、長い柄のついた網で掬い取っていた。

 画家の死後約半世紀、1977年から始まった建物と敷地全ての復元作業は、生前のモネの「作品」であり創作への情熱の住処だったこの地を、完全に復活させることを目標に始まった。以降約40年、私たちが現在目にする建物と庭は、モネの寵愛を受けたものとほぼ同じといって間違いない。

 だがこの池に咲く無数の睡蓮にこんな秘密があるということを知ると、「モネの家」への見方、ひいてはモネの「日本愛」への印象は変わってくる。

「(管理責任者によると)モネは最初、睡蓮ではなく蓮を植えていたのだそうです。シノワズリー(※中国美術愛好者)に代表される東洋の趣味を追求したいと思ったのかもしれません。(中略)蓮は大きな葉と花を付けるダイナミックで強いイメージの植物。対して睡蓮は、葉も花も小さく可愛らしい植物です。」

 モネの「睡蓮」をモチーフに、湖面に桜や金色の雲を浮かべた作品が欧米で人気の日本画家、平松礼二は「モネとジャポニズム」の中でそう書いている。さらに。

「睡蓮はただ池のなかに植えておいたのでは、無秩序に広がって水草になってしまいます。それでは、とてもモチーフにはなりえません。それを知ったモネは植木鉢に睡蓮を植え替え、そして植木鉢を自分のイメージに沿った形で池に沈めたのです。」

 一株一株鉢に植えた睡蓮からは、一本すーっと茎が伸び、水面に出ると美しい輪になり、そのほぼ真ん中に花が咲く。それらを適当な間隔をおいて赤、青、黄色などの花の色どりを計算して配置すれば、それだけで非常に装飾的だ。モネは睡蓮が満開になったイメージを脳裏に描きながら、鉢を湖底に埋めた。

「それはまるで、池全体をキャンパスに見立てて睡蓮を描いているような作業だったのではないでしょうか」と、平松は書く。

 それを思えば池の周囲にある竹林もススキの群生も太鼓橋もその上の藤棚も、全くフランスの「里山」の風景ではない。全てはモネの「日本愛」の表出であり、作為の塊だ。さらにいえば、池に流れ込む流水がつくる美しい湖面にも、モネの意志が宿る。平松はこう書く。

「日本人は水面に映る景色、あるいは水面と何かのコラボレーションを非常に美しく感じる。(中略)私はこの池の『澄んだ水』が、ジャポニズムのポイントのひとつだと考えています」。

 ヨーロッパ風の建物と庭がつくられた道路の左側に対して、右側の「水の庭園」は、そのもの全てがジャポニスム。モネの「日本愛」の塊なのだ。

 けれど日本人の中には、このあからさまな愛の表出に、こんな不安と疑問を持つ人もいるのではないか?

 ―――あの大画家のモネがそんなに日本を愛してくれていたのか? 印象派の画家たちはそれほど浮世絵を愛してくれているのか?

 モネのような偉大な存在から「愛している」と言われれば言われるほど、「本当に?」と疑問に思う。言ってみれば「手練のチョイ悪(大悪?)オヤジ」が愛を前面に出してくればくるほど、ウブな女の気持ちは引いていく。

 そんな「控え目な日本人」がここにいる。

壁には一面に日本の浮世絵が

 では左側の建物の室内はどうだろうか。

 ここにもまた、狂おしいほどのモネの「日本愛」が詰まっている。

 いまから約100年前にこの地を訪ね、この建物の全盛期を知った矢代は書いている。

「家へ入ると、それは相当広い家で、全ては白い壁で塗ってあり、廊下には大きな窓から日光が自由に射し込み、外光や空のコバルト色や緑樹の陰影が、家の中まで眩しいばかりに流れ込む、といったような家であった。
 そしてその広い廊下から二階へ登る階段にかけて、壁には一面に日本の浮世絵がかけてあった。」

 現在でも有名なモネの浮世絵コレクションは、もちろん富も名誉も溢れる程手にしていたこの頃が絶頂だった。現在はレプリカに置き換わっているが、生前のそれは本物がかけられていた。しかも強い日差しで日々退色していくことを考えれば、矢代が「目撃」したコレクションは、現在よりはるかに豊かな色彩を湛えていたはずだ。文章はこう続く。

「光線の強いところにかけてあるから、色は多く褪色していたようであったが、日本の浮世絵があれほど沢山に常に家中に懸け並べてあるのを見ると、モネーの浮世絵への愛着は、よほど深いものに相違ない、と今更の如く認識した。」

「そしてまた浮世絵の色調なるものは、この廊下や階段の広い窓から差し込む光線、青空、戸外の緑蔭の多い庭園、暖かい陽の色、などと、実によく調和することを発見し、これなればこそ、浮世絵は印象派の画家のインスピレーションになった筈だと、このときぐらい強く感じ取ったことはなかった。」

 さらに矢代は、廊下から扉をあけて入った室内に懸けてあるモネの作品群を見て、こうも書いている。

「最も面白いことには、たった今、外の廊下で見て来た浮世絵の色調と、扉を開けて入って来た室内にいっぱい懸けてあるモネーの作品の色調と、両者、色の強弱、明暗の違いはあるにしても、全く同じ色調であった、ということである。私は思わず『あっ、全く同じ色だ』とひとり言を言った。」

 矢代は学生時代に水彩画を学び、第七回文展で入選した画家でもあった。このころはフィレンツェで、ルネッサンス以降の古典的作品を日々鑑賞する環境にいたから、その暗い色調に対して「革命的」と呼ばれた印象派の鮮やかな色と光に敏感だったことは想像に難くない。

 その矢代が、浮世絵と印象派の色彩についてこう語る。

「窓から覗ける戸外の自然界の色と、廊下の浮世絵の色とが、まるでよく似ていて、それから廊下の浮世絵の色と室内に懸けてあるモネーの画の色とが、また親類のような同じ色合いであるということであって、フランスの印象派が、浮世絵を介して、自然美そのものの色彩に目を開き、自然界の光や空気の微動を敏感に感じとって、モネーの芸術ができたという関係を、こんなに実感をもって感じられたことは、未だ嘗てなかった。」

 これまでさまざまな評論家や学者が「浮世絵と印象派の関係性」を述べてきたが、モネの存命中、そのコレクションの全盛時にその全貌を目撃し、それを評した矢代の言葉以上に説得力があるものはない。その後矢代は「日本の西洋美術史の祖」と呼ばれ、70年には文化功労者にも選出された。当時にあっては希有なグローバル経歴のなかでも、モネとのこの邂逅は、貴重な経験だった。

 ―――大丈夫だよ。モネの愛は本物だから。

 矢代はそういって、私たち日本人ファンの背中を押すのだ。

 印象派は、それまで全盛だったサロン(官展)の流れに逆らって、眩いまでの「光と色彩」を追求することで絵画界の「革命」と言われた。その先頭に位置し「印象派」の名前の由来ともなった作品「印象・日の出」を描いたモネが、これほどまでに日本を愛し、浮世絵の色彩や色調を学んでいたとは!

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知られざる北斎

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神山典士

ノンフィクション作家。1960年埼玉県入間市生まれ。信州大学人文学部卒業。96年『ライオンの夢、コンデ・コマ=前田光世伝』にて第三回小学館ノンフィクション賞優秀賞受賞。2012年度『ピアノはともだち、奇跡のピアニスト辻井伸行の秘密』が青少年読書感想文全国コンクール課題図書選定。14年「佐村河内守事件」報道により、第45回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)受賞。「異文化」「表現者」「アウトロー」をテーマに、様々なジャンルの主人公を追い続けている。

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