新聞記者時代、著者の人間関係は深く、狭く、強かった。しかしフリーになり、リーマンショックと東日本大震災を経験して人とのつながり方を「浅く、広く、弱く」に変えた。その結果、組織特有の面倒臭さから解放され、世代を超えた面白い人たちと出会って世界が広がり、妻との関係も良好、小さいけど沢山の仕事が舞い込んできた。困難があっても「きっと誰かが少しだけでも助けてくれる」という安心感も手に入った。働き方や暮らし方が多様化した今、人間関係の悩みで消耗するのは勿体無い! 誰でも簡単に実践できる、人づきあいと単調な日々を好転させる方法。
新書『広く弱くつながって生きる』の著者・佐々木俊尚さんと、小説『メゾン刻の湯』の著者・小野美由紀さん。おふたりが「これからのつながり方」について対談しました。
外れた個が社会に属して生きていくには
佐々木 これは小野さんにぜひ訊こうと思っていたんですけど。
小野 はい、何でしょう。
佐々木 小野さんは、前著『傷口から人生』を読んでも、鋭すぎて生きづらそうだなみたいな感じのある。実際、会っているとほんとに生きづらい人だなといつも思うんだけど。
小野 そうですか?(笑)あれは作品だからなぁ……。
佐々木 でも、『メゾン刻の湯』という小説が、そういうキツさじゃなく、フワッとつながりみたいなものをやわらかく描くという方向に行っているのは、路線変更なんですか。
小野 私としてはけっこう必然で。小説執筆を始めた時に、相模原の障害者施設の殺傷事件があって、それがすごく自分の中で大きかったんですよね。私も、所属先が何もない時にシェアハウスというゆるいつながり、細く弱いつながりの中で活かされていたという経験があったので。社会の中で、大きな会社だったり、組織に所属できない人というのが、どうやったらこれから安心して暮らしていけるんだろうというのが、あの事件でものすごく自分事として感じられて。
そのときに銭湯に行って、なんとなく自分が見えない共同体の中に絡めとられているような大きな安心感を感じて。「個としての自分は保ちつつ、社会に属して生きていくにはどうしたらいいか」というのが、自分と他の周りの多くの人が抱えている問いとしてリンクしているなと思って。その中間地点としての小説を書こうと思ったんです。
佐々木 なるほどね。
小野 たとえば定年退職したらみんな個として生きて行かざるを得ないじゃないですか。結婚していても、これだけ離婚率が高かったら、離婚しちゃったら一人だし、若い人で結婚できない人というのはたくさんいるし、いつ障害を持つかもしれない。可能性はみんな持っているわけだし、それって全然どんな人にも共通する問いじゃないかなと思って、小説にしたいと思ったという感じなんですよね。
佐々木 最近、二〇世紀的な想像力と二一世紀的な想像力みたいなのをよく考えていて、たぶん二〇世紀的な想像力で言うと、相模原の一四人殺された事件とかを見ると、たぶんその犯人の心の闇をガーッと暴く本を書くというのが二〇世紀的だと思う。でもそういう闇に行く方向性って、結局闇を単にエンタテイメントにしているだけであって「それを言っていても何も社会は変わらないし、俺の人生良くならないよね」という受け止め方が出てきている。それが二十一世紀的想像力。
二〇世紀は経済成長が続いて安定していた時代だからこそ、そういう心の闇みたいなのを垣間見るのがおもしろいエンタテインメントだったのかなと思うんですよね、僕は。逆に二一世紀って、そういう余裕も今、なくなってきているので、ああいう事件が起きたりとか、心の闇みたいなものが浮かび上がってくると、「その中でどうやったらつながりを作れるのかを考えましょうよ」というほうになんとなく時代の空気って変わってきているのかなというのをすごく考えるんだよね。
小野 なるほど。「つながり」を描く方にみな関心がある?
佐々木 そうなんですよ。この本でも書いたし、前から言っているんだけど、今って行動がすべて可視化されるじゃないですか。
小野 そうですね。SNSとかで。
佐々木 だから悪い評判が立つとすぐばれちゃう。そういう時代だと、いい人になるしかないよねって。だから「いい人生存戦略」みたいなことがよく言われたりとかするっていうね。いい人になるってすごく大事なことなんだけど、でも人間にはやっぱりどこかに闇の部分ってあるわけでしょ。
小野 うん。
佐々木 そうすると、その闇の部分って、いい人であろうとすると抑えなきゃいけない。今までだったら、たとえば会社の中だけでいい人の振りをしていれば、家に帰ったら悪い人でも良かったとか。でも今や会社と家がシームレスに全部見えちゃうので、会社でも、家でも、いい人でなきゃいけないよねと。
じゃあ、しょうがないから、会社と家以外で発散できるかというと、たとえば風俗へ行ったらそれをばらされて、投稿されちゃったり。そういうことが起きるわけですよ。そうすると常に、二四時間いい人でなきゃいけないというね。それはそれで抑圧になるんじゃないかなという。
マッチングアプリから見る、現代の「つながり方」
小野 全然関係ない角度から話していいですか。私、最近、マッチングアプリに登録してみたんですけど。
佐々木 男女の?
小野 そうです。出会い系アプリと言われているものです。ほんとにもう私の周りの二〇代、三〇代の人がほんとにやっているんですよ。出会いを探すために。「アプリなんかで出会えるのか?」と思ってそう聞いたら、「小野さん、そんなこと言ってる方がダサいですよ」って言われて(笑)
で、やってみて思ったのが、「これはみんなやるわ」と思ったんですよ。だって、普段出会いのない仕事についている人はアプリぐらいでしか「個人」として異性と出会える機会が無いんですよ。会社も結婚とか、恋愛を世話してくれないじゃないですか。
佐々木 そうだよね。
小野 で、出会いもなくて。フェイスブックとかだと、会社の人とかでつながっているじゃないですか。24時間何らかのつながりがあって、プロフィールが社会に対して開かれている状態。裏を返せば24時間だれかに監視されてる状態。でも、そういうアプリの中だと、完全に属性を剥ぎ取られた「個」でいられるんですよ。会社名とかも出ないから。
佐々木 自分の属性を全部剥ぎ取って、友人関係もなくて。
小野 そうなんですよ。友人に、使っていることがばれない仕組みになっているので。でもう今、恋愛がしづらい世の中だなと私は思っていて、セクハラのこととかもあるし、まず問題を起こしたら一気に評判が下がるから、友人関係の中でも恋愛に踏み込みづらい。そうなると、こういうところでしか出会いを探せないんだなという。
佐々木 なるほどね。そこはやっぱりバランスがすごく大事になってきているというか、なんか、すべてが透明化されて、可視化されちゃうと、やっていけないことが多すぎて生きづらいということが逆に起きるよね。
小野 そうですね。
佐々木 セクハラ問題が最近すごく話題になって、「Me Too」がアメリカでムーブメントになった時期に、カトリーヌ・ドヌーブというフランスの女優が『ル・モンド』という有名なフランスの新聞社に100人ぐらい連名で投書したのがあって、その中に「セクハラ、セクハラと言い過ぎるがゆえに恋愛までセクハラになっちゃっている。でも私たちには口説かれる自由もあるし、その口説いた男をはねつける自由もあるんだ」と恋愛の自由を訴えてる。
そこが最終的にバランスの問題として浮上してくるのかな。
小野 セクハラに関しては「Noを言う権利」があまりにもこれまで女性になさ過ぎて、いや、本来はあるんだけど、無言の抑圧で「No」を言いづらい。「男性にとって性的に魅力のない女性は社会の中で生きづらい」という暗黙の了解が社会の隅々にまで蔓延しているから。
だからこれからは「Noを言う権利」があると言うことを女性・男性双方が認知しつつ、個人対個人としてどうやったらお互いをリスペクトしあった関係性を築いていけるのか、それが佐々木さんの言う「バランス」なんでしょうね。
佐々木 生きづらさと自由と抑圧とって、いくつかの要素がわれわれの人生の中にあるわけじゃない。なんか、完全に自由になってしまうと不安でしょうがない。ものすごく共同体の所属がガッチリすると、今度はこれが逆に生きづらくなる。インターネットって、これがまたそれにプラスαの要素で、所属するか、しないかということと、プラス全部が可視化されて見えちゃうよねという。
その見えちゃうことに対する抑圧というのも起きてくるから、その三つのバランスをどうやって作っていくかというのがこれからの時代、大事なんじゃないかなというのは思うんですよね。
小野 そうですね。その3つのバランスをとれるということが個人としての強さにつながっていくと思います。
これからの共同体
小野 佐々木さんは本の中で、「これからは個と個が網の目のひとつひとつになって、交差点的なつながりの中で生きていくのが主流になっていくんじゃないか」と書かれていました。でも、実際に会社勤めしかしたことがなくて、そこ以外での人間関係を築いたことのない人にとっては難しく感じることだと思うんですよね。
佐々木 そんなことないと思うんだけどな。それを難しく感じる人が、結局「個をブランディングしなきゃいかん」みたいな自己啓発本に行き着いちゃうわけでしょ。
小野 そうかもしれませんね。
佐々木 でも、そんなの辛いよね。僕、いつも思うんですけど、昭和の頃の会社って、抑圧は強かったし、同調圧力も高くていやだったんだけど、一個だけいいことあって。新聞社にいたんですけど、人の手柄を横取りして自分が特ダネと取ったかのように言う先輩とかがいっぱいいるわけですよ。そのときに自分が信頼している上司とか、先輩記者が寄ってきて、「佐々木、気にするな。見ている人はちゃんと見ているから」と言ってくれるのね。その、黙々とやっていてもちゃんとどこかに見てくれている人がいるという安心感というのは、昭和の会社のいいところだったなと思うんですね。
今の時代って、インターネットなんかそうなんだけど、大きい声で言わないと人に届かないみたいなのがあって。昔のように黙々と一日中ガラスを磨いて、レンズを作っているような職人のおじさんとかが認められない社会になっちゃっている。そうすると、そこをどうやって認めてあげるのかというのが大事で。
小野 そうですね。
佐々木 だからこれからの人間関係って、個人、個人がひとりひとり独立でつながるんじゃなくて、どっちかというとチーム。
小野 チーム。
佐々木 チームと言うと強すぎるかもしれないけど、あいつはしゃべるの下手だけど、俺がちゃんと見てやっているとか、あの子は人間関係苦手だけど、みんなで支えてあげようよみたいな、そういうもうちょっとゆるっとしたグループの中でできる・できないを支え合うみたいなね。そういう関係性がもうちょっと生まれてきてもいいんじゃないかな。だから個と個がつながるんじゃなくて、もう少しゆるっとグループ化されたグループが相互につながっているような感じで、そのグループからも出入り自由みたいな、そういう感じがいいんじゃないかなとすごく思うんですよね。
小野 確かにそうですね。会社と個の中間の組織までは行かないけれども、ゆるっとした暗黙の共同体ということですよね。
佐々木 そうそう。だからそこで同調圧力を生まないようにし、かと言って個と個がバラバラで切り離され過ぎて寂しくならないようにするかという、そのバランスをこれからの社会でどう作っていくかというのが課題かなと。具体的に「こういうのがいいという」イメージまでは行っていないんだけど。でも、それこそさっきの銭湯に行っているコミュニティとかね。シェアハウスでゆるやかに起きている同居人みたいなのとかも、わりとそういうのに近いかなという感じがするよね。
小野 そうですね。実際にシェアハウスも、お金のない子たちが一緒に住んでいて、仕事を回し合ったりしていましたし、今だとSNSとかでフリーランスの人たちがチーム的になんとなく集まってコミュニティを作って、そこで仕事を回し合うみたいなことは起きているので、ほんとにその通りだなと思います。
(つづく)
書籍紹介
どうしても就職活動をする気になれず、内定のないまま卒業式を迎えたマヒコ。 住むところも危うくなりかけたところを、東京の下町にある築100年の銭湯「刻(とき)の湯」に住もうと幼馴染の蝶子に誘われる。 そこにはマヒコに負けず劣らず“正しい社会”からはみ出した、くせものばかりがいて――。 「生きていてもいいのだろうか」 「この社会に自分の居場所があるのか」 そんな寄る辺なさを抱きながらも、真摯に生きる人々を描く確かな希望に満ちた傑作青春小説!