新聞記者時代、著者の人間関係は深く、狭く、強かった。しかしフリーになり、リーマンショックと東日本大震災を経験して人とのつながり方を「浅く、広く、弱く」に変えた。その結果、組織特有の面倒臭さから解放され、世代を超えた面白い人たちと出会って世界が広がり、妻との関係も良好、小さいけど沢山の仕事が舞い込んできた。困難があっても「きっと誰かが少しだけでも助けてくれる」という安心感も手に入った。働き方や暮らし方が多様化した今、人間関係の悩みで消耗するのは勿体無い! 誰でも簡単に実践できる、人づきあいと単調な日々を好転させる方法。
新書『広く弱くつながって生きる』の著者・佐々木俊尚さんと、小説『メゾン刻の湯』の著者・小野美由紀さん。おふたりが「これからのつながり方」について対談しました。
世代間を越えた交流って、簡単?
小野 佐々木さんみたいに、四〇から五〇代くらいの世代で、SNSを使いこなせる人たちは良いんですよ。「網の目」的なつながりを作りやすいから。でも、その世代でSNSなんかに無縁の層はどうやってそれを作ったらいいのかというのが、私はすごく謎なんですよね。
佐々木 四〇代とか?
小野 うん。
佐々木 それはよく訊かれます(笑)。
小野 そうですよね。今、そこってすごく課題なんじゃないかなって思います。
佐々木 でもね、それって別にSNSを使いこなせという話でもないんじゃないかなと思うんだよね。SNSは所詮補助ツールにすぎないので、別になんかわからないけど、三日にいっぺんは料理の写真を投稿せよとか、そういうハック的なことをやったから人間関係がうまく作れるかって、そんな話では全然ないと思うんですよ。だからまあフェイスブックをやっていると何がいいかと言うと、単に関係性が持続するよねという。
小野 たしかに。フェイスブックが出てきて、人間関係の持続性が上がった気がします。 佐々木 本にも書いたんですけど、今までだったら年賀状のやりとりで終わっていたような人間関係って世の中にたくさんあるわけですよね。常に一緒にいる、時間を共にする人って会社の同僚だったりとか、家族だったりとか。
でも、たとえば会社でも転勤になったりとか、異動になったりして、前の部署と離れると、だんだん人間関係が疎遠になっていくんですよ。そうすると最後は年賀状のやりとりで終わってしまう。年賀状のやりとりも三年、四年続くと引っ越したりとかして、それでまた切れちゃったりとかって起きるんだけど、とりあえずフェイスブックをやっていると、会ってはいないけど、ずっとそこにいる感じがするので、持続性がある。
じゃあね、その上で、たとえば四〇代とか、五〇代とかの人はどういう人間関係を作っていったらいいのかというのは、これ、難しいよね(笑)。
小野 そうですね。書籍の中ではボランティアとか、サークル活動とか、副業という例を出してましたよね。
佐々木 いろいろな場所に顔を出すというのが、僕はすごく大事だなと思っていて。僕もいろいろな場所に顔を出しているんですけど、そうすると年輩の人とか、同世代とかも来るわけ。でね、見ていて一番辛そうなのは、やっぱり承認欲求の強い人。自分が年齢が上だから、「なんで俺をリスペクトしてくれないの」と思っちゃうと辛そう。
小野 なるほど。
佐々木 若い人とつき合う方法ってそんな難しくはなくて、まず年齢で差別しないこと。それからもう一個は、若くても自分よりもたくさんものを知っていたり、知識とか、経験があったら、それをちゃんとリスペクトすること。もう一個がマウンティングしないこと。この三つをちゃんと守っていれば、別に年齢関係なしにコミュニティを作るのは、僕はわりに簡単なんじゃないかなと思うんです。
みんなどうしても、たとえば五〇歳の人間は二〇代の若者と会うと、なんだ、おまえ、よくやっているじゃないかと、すぐマウンティングしたがるわけ。あれがすごく良くない。自分より年下だから、自分のほうが尊敬されるのは当たり前だと思っていたりとか、あと、自分が知らないことを知っている若い人を見ると変に嫉妬して、口を利かなかったりとかね。そういうのがあるからいけないんです。ちゃんとリスペクトして、マウンティングしなければ、普通に年齢関係なしに誰とでもつき合えるんじゃないかな。
「面と面」ではなく「点と点」で付き合う
小野 ご著書には「自分が会社や組織から外れて、それ以外の場所で小さなゆるい共同体を作っていくということが大事」というふうに書かれていましたが、それには年齢に左右されない居場所を作るということがキーになっていそうですね。
佐々木 そう。居場所をたくさん作ることがたぶん大事なんじゃないかな。一個の居場所しかないって、やっぱり辛い。「いつなくなるかわからない」って不安になるし。
小野 「点と点(個人個人)でつながる」と書かれていたのが、いいなと思いました。会社みたいな、「面のつながり(=強い共同体)」じゃなくて、点と点の関係を大事にするというのがすごく大事だなと思って。
佐々木 そうなんですよね。僕は今、三拠点生活ってやっていて、東京と長野と福井を行ったり来たりしているんです。福井県は美浜町という若狭湾に面した人口九〇〇〇人のすごく小さな町で。喫茶店とかに行くと何人かいて、全員顔見知りみたいなね。そうするとそこの共同体に入り過ぎると、これまたけっこう面倒くさい。その共同体のしきたりとかあって、たとえば町内会に入るといろいろ面倒くさいんですよ。おじいさんにマウンティングされたりとか。
小野 面倒くさそう……。
佐々木 僕が心がけてやっているのは、個人、個人と仲良くするようにして、あんまりベッタリと美浜町という共同体に入り込み過ぎないようにする。美浜町のAさん、Bさん、Cさん、Dさん、Eさんはみんなすごく仲のいい友達。でも、佐々木さんは明日から美浜町民ねと言われると、いや、ちょっとそれはやめましょうみたいな感じ。コミュニティに入らないで、個人とつながるというやり方のほうがたぶんうまくいくんじゃないかなと。
小野 そうですよね。「コミュニティを維持するためにそこにいる」ってなると、関係性一つひとつが腐れ縁になっていくような感じですよね。
同調圧力から距離をとる
小野 私も銭湯のシェアハウスの話を書いたので、「コミュニティっていいよね」みたいな話かなと思われがちなんですけれども、そういうものが書きたかったわけでは全然なくて。
佐々木 『メゾン刻の湯』のような小説、これはすごく絶妙で、あの本を読むと何がわかるかと言うと、一つの銭湯で働いていて、一緒に暮らしている若者たちという群像劇なので、それこそ昔のテレビドラマの『ひとつ屋根の下』とかね、ああいう世界なわけですよ。でもね、あんなに同調圧力が強くないわけ。
同調圧力が強いと、実際にその中に入るとけっこう生きづらくて、辛いよね。仲間外れにされたりとか、同調圧力とか、絆というのは容易にいじめに転じる。よくいじめ問題が起きると、校長先生とかが「皆さん、いじめなんかしないで仲良くしましょう」とか言うんだけど「仲良くしましょう」と言うからいじめが起きる。
小野 そうですね。
佐々木 「みんな仲良くしましょう」と言った瞬間に、「先生、小野さんはみんなと仲良くしないのでいけないと思います」と言われて、それで小野さんがいじめられるということが起きるわけでしょ。だから「仲良くしない」ことのほうが大事なんじゃないかなという。
小野 仲良くしないことのほうが大事!
佐々木 だって小学校、中学校、高校はいじめが起きるけど、大学はいじめが起きないのは、クラスがないからでしょ。
小野 そうですね。
佐々木 授業ごとに全然別なので。
小野 確かに。個としての自分がある。
佐々木 そうそう。だから一個の共同体の中の距離感をどうとるかって、いまたぶん最大の課題で、その意味で言うと、『メゾン刻の湯』というのは伝統的な青春群像劇であるにもかかわらず、なんかここの人間関係の絆が強くなりすぎていなくて、ラストの感じとかも含めて、そこはかとなく、永遠の関係なんて無いよね、と皆がわかっている切なさみたいのが、ある意味、今の時代の感覚。
所詮、絆は弱いので、いつかは消えちゃうけど、でもせっかくいま一緒にいるんだから、この一緒にいることのすばらしさみたいのをお互いに確かめようよみたいなね。そういう感じが漂っているのが気持いいなと思うんですよ。
小野 そうですね。主人公は個としてシェアハウスのメンバーと個と個の関係を一人ずつ作っていって、最後にはその共同体は解体してしまうんですけれども、それでいいというか、続けようとしないということがいいのかなと、私は自分の経験からも感じて、そういうラストにしたんですよね。
(つづく)
書籍紹介
どうしても就職活動をする気になれず、内定のないまま卒業式を迎えたマヒコ。 住むところも危うくなりかけたところを、東京の下町にある築100年の銭湯「刻(とき)の湯」に住もうと幼馴染の蝶子に誘われる。 そこにはマヒコに負けず劣らず“正しい社会”からはみ出した、くせものばかりがいて――。 「生きていてもいいのだろうか」 「この社会に自分の居場所があるのか」 そんな寄る辺なさを抱きながらも、真摯に生きる人々を描く確かな希望に満ちた傑作青春小説!