『マスラオ礼賛』ヤマザキ マリ
ハドリアヌス帝
妻もいるのに子息も残さず、やりたいことだけコツコツと
古代ローマでは精神と肉体のバランスが整っているのが理想の男性像とされていた。彫刻にしてみても、男性は程良い筋肉が付いてはいるが、現代のボディビルダーに見るような過度なマッチョ体型なものはひとつもない。どこかに少しでも「やり過ぎ感」が出てしまうと、それが精神の不健康さと結びつけられてしまうからだ。
学問にしても、社交にしても、食べ物にしても、バランスの良さを保たないと、それが何らかの負の代償であると見なされてしまうというのも、現代人の私達からしてみればかなりハードルの高いものに思えてしまうが、位の高いローマ人程そういう事には相当に気を遣っていたはずである。政治力にしても何にしても、自分という人間の均整具合を常に客観的に把握し、そこに自ら微調整を加えて理想的に造形していけるかどうかというキャパが、皇帝レベルにもなれば抜かりなく求められるようになる。
勿論それが完璧にこなせた皇帝や指導者はごく僅かであり、逆に暴君化してしまったネロやコンモドゥスのような、二千年の時間を経てすら「ダメ男」の汚名を拭えないままの皇帝も少なくない。彼らが古代ローマの理想の君主象からはかけ離れた行動を取り過ぎてしまったのは確かだから、そんな顚末もやむを得ない結果だったとは思うのだが。
かといってカエサルのような質実剛健で完璧なバランス感を保った男も、指導者や君主としては求められて当然だと思うが、私のような屈折した男性観を持った女には多少魅力に欠けてしまうのだった。先述したような、本来男性という人種が持っている非合理的なマニアックさや社会への不適応性みたいなものが、ある程度露出してくれたくらいの方が、第三者として見ている分には面白いし味わい深いと思えてしまう。
紀元117年から138年までローマ帝国を統治していた、プブリウス・アエリウス・ハドリアヌスという皇帝は、そんな私にとって大変魅力的な男性の一人である。
スペインの属州出身の皇帝としては前代のトライアヌスに続いて二人目になる彼は、10代初めの時期に大都会ローマへ高度な教育を受ける目的で連れてこられて以来、すっかりギリシャ文明の虜になってしまった。今の時代で喩えるならば、高等教育を受けるために南米かアジアのような国からアメリカにやってきた学生が、ヨーロッパ文明にのめり込んでしまうという感覚だろうか。しかし、ローマで男らしく生きていくには、どんなものに興味を抱いても過剰は禁物。ハドリアヌスのギリシャ文明に対する固執の度合いは周囲の大人たちを心配させ、彼を無理矢理故郷のスペインに連れ戻してしまう程のものだったらしい。
しかし、文化のるつぼで10代の少年を虜にしてしまったひとつのディープな文明が、周りからの中傷くらいで簡単に搔き消えるわけもなく、このハドリアヌス帝のギリシャ熱は彼の晩年まで心の中にその炎を燃やし続けることになる。
ハドリアヌスの彫刻やコインに彫られた横顔を見てもわかるように、彼は顎鬚を蓄えた歴代最初の皇帝となった。顎鬚はまさにギリシャ人のシンボルであり、ギリシャが覇権を握ったローマの統治下に置かれた後、ローマに連れてこられたり、働きに来ていた医師や学術者など知的職業に就くギリシャ人はみな顎鬚を蓄えていた。ハドリアヌスはそのギリシャ人的シンボルを自分にも取り込んだわけだから、傍からしてみれば相当な入れ込みようだ。
もう既にその顎鬚だけで皇帝という立場にあるまじきアンバランスさと判断していた連中は少なくなかったはずだが、ハドリアヌスはそれに加えて、トライアヌスの時代に最大化した帝国の領地をそれ以上広げる意思もなく、それまでの皇帝がやっていた軍事目的の旅とは全く趣旨の異なる、視察と整備だけに目的を絞った旅を敢行。
しかもその間子供の頃からの憧れだったギリシャのアテネに半年間も滞在してしまっただけでなく、旅中に出会ったビティニア生まれの美少年アンティノウスを愛人として寵愛し、その後の旅にも同伴させていた。
妻がいるのに子息も残さず、同性愛者であることを周知させ、しかも軍事的挑発の一切ない、視察目的だけの長旅。ハドリアヌスのやる事なす事すべてが保守的で堅実派の元老院議員達の神経を逆撫でした。
しかも旅の途中ナイル川で愛するアンティノウスが謎の水死を遂げ、茫然自失状態に陥ってしまう。立ち直った後も、自分の後継者として優美な容姿と洗練された文学の嗜好を持った軟弱な若者を選んだ事によって更に元老院から顰蹙を買い、この後継者が病死してからはすっかり歪んだ性格になってしまった。
今でこそ五賢帝の一人と言われるハドリアヌスだが、当時はネロと同様の暴君と見なされ、記録抹消処分というリスクを背負わされる事にもなる。
しかし忘れてはいけないのは、この人にはそれまでの皇帝にはなかった多才さがあっ
たという事だ。特に建築という分野においては素晴らしい才能を発揮し、建築史上では後世にその存在の重要性をアピールすることになる。
たとえ皇帝という荷の重い職務に就かなかったとしても、このハドリアヌスという人物は、恐らく敏腕の建築士になれたであろうし、それ以外の事でも歴史に名前を残せる人物になっていた可能性は十分ある。
ローマ近郊のティヴォリにある広大な敷地面積を誇るハドリアヌスの別荘は、すべて彼の手がけたものだ。今もここを訪れるとその規模の大きさと斬新な建築概念にはただただ驚愕するが、そこには彼が視察のために自力で訪れた、帝国の領地での思い出が彼独自の解釈で表現されている。
ハドリアヌスはそこでは外部からの余計な干渉や中傷も気にせずに、こつこつと自分のやりたい事を存分に発揮できていたはずなのである。たとえ時間によって風化した遺跡の状態でしか残っていなくても、この別荘を歩いていると、そんな彼が自分のために注いだ一途な情熱が伝わってくるようであり、それこそ私が思うところの、自分という小宇宙に身を委ねた、素直な「男らしさ」の軌跡を感じさせられる。
数年前、この別荘地帯のすぐそばに、巨大な廃棄物処理場建設計画が浮上した。イタリアでは珍しくない事とも言えるが、着工間近と騒がれる中で当時アメリカに暮らしていた私のところまで、現地の人から加勢の要請が送られてくる程事態は深刻化していたようだ。
長期にわたる粘り強いデモや反対運動のおかげで最終的に計画は却下され、ハドリアヌスの別荘はゴミの脅威から免れた。「人類の宝を、何だと思っているのだ!」という21世紀の人々のプラカードに守られたハドリアヌスの夢の城は、一人の男の純粋なロマンの象徴なのである。
ハドリアヌス帝
(76年─138年)
プブリウス・アエリウス・ハドリアヌス。第14代ローマ皇帝。帝国各地をあまねく視察して現状把握に努める一方、帝国拡大路線を放棄し、国境安定化路線へと転換した
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続きは『マスラオ礼賛』より、お楽しみください。