平成最後の「終戦の日」を迎えるこの夏。改めて「戦争」について考えてみませんか?
そのための格好の一冊が、作家・半藤一利さんの『歴史と戦争』です。80冊を超える著作の中からエッセンスのみを厳選、再構成した本書は、まさに「半藤日本史」の入門編にして集大成。幕末・明治維新から、軍国主義への突入、太平洋戦争と敗戦、そして戦後の復興までを一気につかむことができます。
今回は特別に、その中から一部を抜粋してお届けします。
西郷隆盛は「毛沢東」だった?
西郷さんのことを理解するには、彼を毛沢東だと思えばいい。と、私はつねづね言っているんです。両者にはけっこう共通点があるんですよ。まず、二人とも詩が上手である。私はね、やっぱり偉い人は一種の詩人じゃなきゃだめだと考えているんですよ。
金も要らない、地位も要らない、名誉も要らない、こういう人間が一番おっかない、などなど、いい言葉をたくさん残している。毛沢東にも『毛沢東語録』がありますからね。
それから、二人とも農本主義者である。文明開化の世の中になり殖産興業がもてはやされても、その根底ではやっぱり農業が大事である、と。
さらに、永久革命家である。革命が一つ終わればそれでお終いというのではなく、さらなる大改革をなさなきゃならん、という永久革命家なんです。
長州や薩摩の田舎者が維新の権官となり、東京の女を妾にしていい気になっているのを見て苦々しく思ってたんでしょうね。《家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられまじくなり》と言っています。そんな連中を叩き潰すためにも再び革命を起こそうと。
(『仁義なき幕末維新』、菅原文太氏との対談で)
山形有朋と「西郷どん」
秋色ようやく濃い九月二十四日、西郷(隆盛)は城山で自刃した。享年五十一である。城山陥落のとき、山形有朋は一首を詠じて激しかった戦いを偲んだ。
山もさけ 海もさけんとみし空の なごりやいづら 秋の夜の月
土中に埋められていた西郷の首が発見され、山県の前にささげられた。首は泥で汚れていた。山県はそれを付近の泉で洗わせて、改めて対面した。山県はしばらく見つめていたが、「この髭は三日剃りくらいだろう」といい、しばしその髭をなでていたが、やがて、
「余を知る、翁に若くはなく、翁を知る、余に若くはない。憾むらくは君をして今日あるを致さしめたことを……」
と、つぶやいて絶句したというが、いささか大時代的ではある。その感慨もわからなくはない。
この戦争の真ッ最中の五月二十六日、木戸孝允が「西郷、もういい加減にせんか」の一語を最後に病死している。享年四十五。薩長を代表する二人の先達が相ついで世を去ったのである。山県の胸中には、木戸を喪ったいま長州を背負うのは自分以外にはないという思いがあったであろう。
(『山形有朋』)
明治維新は「暴力革命」である
日本人がみんなして知恵を絞って考えるべきその大事なときに、薩長がそんなことおかまいなしで倒幕運動に血道をあげていた。けっきょく権力をにぎりたいだけでした。
明治維新などとかっこいい名前をあとからつけたけれど、あれはやっぱり暴力革命でしかありません。その革命運動の名残が、明治十年の西南戦争までつづいたというわけです。西郷隆盛ひきいる叛乱軍を、新政府軍が倒して西南戦争が終わる。ここまでが幕末である、というのがわたくしの説です。
(『歴史に「何を」学ぶのか』)
幕末の大動乱の陰では……
あの大動乱の時代に誰が一番ひどい目にあったかといえば、われら民草なんですよ。慶応元年(一八六五)から慶応三年ぐらいまでの間に、どのぐらい飢饉が起きて、どのぐらい一揆が起きているか、もう驚くほどです。それに、政治の方で権力争いが絶えないわけですから、民草の苦労ははかり知れないですよ。
(『仁義なき幕末維新』、菅原文太氏との対談で)