平成最後の「終戦の日」を迎えるこの夏。改めて「戦争」について考えてみませんか?
そのための格好の一冊が、作家・半藤一利さんの『歴史と戦争』です。80冊を超える著作の中からエッセンスのみを厳選、再構成した本書は、まさに「半藤日本史」の入門編にして集大成。幕末・明治維新から、軍国主義への突入、太平洋戦争と敗戦、そして戦後の復興までを一気につかむことができます。
今回は特別に、その中から一部を抜粋してお届けします。
「玉音放送」を聴いて私が感じたこと
この放送を、わたくしは勤労動員先の新潟県長岡市の津上製作所の工場内で聞いた。三月十日の東京大空襲で焼け出され、やむなく父の郷里である長岡在の寒村に疎開し、ひきつづき勤労動員で働いていたからである。
重大放送があると知らされて、機械はその直前にいっせいに止められて、工員も中学生もラジオの拡声器の前に集まった。工場内は妙にシーンと静かになったのに、昭和天皇の言葉はほとんど聞きとれなかった。けれども、堪え難きを堪え忍び難きを忍び、と意味はきわめて明瞭である。天皇の一種異様な、抑揚のついた朗読が奇妙なくらいおかしく聞こえ、内心に珍無類な連想がわき起こり、降伏とわかったのに思わずクスリとなったことを覚えている。
それは東京・下町の算盤塾での、先生の数字の読みあげなのである。願いましては五十六銭なり八十八銭なあり……という、しかも初等クラスでのゆっくり抑揚をつけた調子が、ありありと耳底に蘇ったのである。御破算で願いましては……。そうなんだと思った。
「とうとうわが大日本帝国もごはさんになったんだな」と。
いま思うと不謹慎ながら、それが天皇放送を聞いた直後の最初の感想であった。あの酸鼻をきわめた空襲をくぐりぬけた少国民として、相当にスレていたのかもしれない。
(『十二月八日と八月十五日』)
初めてタバコをふかしたあの日
放送を聞いて少し時間が経過すると、俄然、悲壮感というか絶望感というか、情けない気分に落ち込んでいたのであるから世話はありません。祖国敗亡がしみじみと悲しかったのです。あんなに死に物狂いで一所懸命に戦ったのに、という口惜しさのまじった悲しみでした。
与太公的な同級生に誘われて、工場隅の防空壕にもぐりこんで、禁じられていた煙草を生まれてはじめてふかしたのはその直後のことです。
国が敗れたからには、やがてアメリカ軍やソ連軍がやってきて、女たちは凌辱され、男たちは皆奴隷となる。お前たちは南の島かシベリアかカリフォルニアへ連れていかれ重労働させられる、と前々から大人たちに教えられていましたから、人生の楽事は早いとこ知っておかなくちゃ、というはなはだ捨てっぱちの気持ちになっていました。ただし、そのとき吸った一本の煙草の味については記憶がまったくありません。
「煙草のつぎは、オンナだなや」
「オンナ? どこにおるんだい、われわれのいうことを聞く女が……」
「工場内に、勤労動員の女学生がいっぺえいるじゃねえか」
そんなタワケタ会話をかわしたのは覚えています。
(『15歳の東京大空襲』)
一気に「無気力」になった日本人
戦後の虚脱と一言でいう。換言すれば無気力ということにほかならない。たしかに日一日と経つうちに、張り合いを喪失し、働く気力を失い、ぼんやりと時間の経つにまかせている人が多くなっていく。
大袈裟にいえば、天皇放送以後、日本人の多くにとっては自分たちが懸命に生きてきた“時代”というものが一気に消えてしまった。非常時の名の下に煩くいわれていたことが無に帰すと、つまり制約が一切合財なくなってしまうと、人びとは無目的となりなぜか落ち着かなくなる。
国家的忠誠、撃ちてし已まむ、挙国一致、といった厳しい体制が、いわば社会秩序になっていたのに、それからわけもわからずに解き放されてしまうと、何らかの精神的退廃をもたらすのか……。
あの日の慟哭と嗚咽が遠ざかるにつれて、日本人は見事に変貌しはじめる。死ぬ必要がなくなり、いまや生きるための欲望に憑かれてしまった人びとの関心のなかには、天皇も憲法もこれからの日本も、いや隣人も他人もなくなる。生きぬくために、自分のことだけしか考えられなくなる。
(『日本国憲法の二〇〇日』)