孤独な女子大生・千歳は、20歳の誕生日に神社の鳥居を越え、「千国」という異界に迷いこむ。そこで毒舌イケメン仙人の薬師・零に拾われ、弟子として働くが、「この安本丹!」と叱られる毎日。ところが、お客を癒す薬膳料理をつくるうちに、ここが自分の居場所に……。
友麻碧さんの人気シリーズ、『鳥居の向こうは、知らない世界でした。』は、そんなほっこり師弟コンビの異世界ファンタジー。読むほどに引き込まれる、夏休みにぴったりの一冊です。ここではストーリーの序盤を、ほんの少し公開します。
運命の旋律
ピアノの音が、聞こえる。
それは、私の運命の旋律。
「……幻想即興曲……真奈美ちゃん、すごく上手になってる……」
高級住宅街にある一軒家の、開け放たれた窓から聞こえてくるその音色に聞き耳を立て、額の汗を拭った。
夏の蒸し暑さが気だるい。私はいよいよ、その一軒家のインターホンを押そうとして、やはり躊躇う。ピアノの音を遮ってはいけないと思った。
代わりに垣根の隙間からその家の中を覗く。眼鏡を押し上げ、目を細めながら。
ピアノを練習する女子高生が一人。そして、その音色を側のソファで聞き入っている中年の男性が一人。また、そんな男性にお茶を出している、その妻らしき女性が一人。
私って……これじゃただの不審者よね。
ご近所さんに通報される前に帰ろう……
「千歳さん?」
しかし背後から小声で名を呼ばれ、ビクッと背筋を伸ばした。
「うちに帰ってきたのか?」
「あ……優君」
「久しぶりだな、千歳さん。何てーか……相変わらずだな」
ちょうど帰宅したばかりの、今時の大学生らしいお洒落な風貌の、茶髪の男の子だ。
一方私は、ダサい黒ぶち眼鏡に、水色のシンプルなワンピース。おまけに暑苦しい長い黒髪をただ耳にかけているだけ。
私のことを“相変わらず”と言った彼の名は結城優という。この家の長男だ。
彼は明らかに困惑しているし、迷惑がっている気がする。私を睨んでいるようにも見えるので、居たたまれなくて思わず視線を逸らした。
「えっと……」
お父さんに、会いたかったのだけど……
そんな言葉はとても言えず、もごもごとしていたら、「あのさ」とどこか強めの口調で彼は続けた。
「今日、真奈美のお祝いなんだ。ピアノのコンクールで賞を取ったから。今から外食に出るんだけど……ちょっと寄ってく?」
「……あ」
そうなんだ。今日は……真奈美ちゃんのお祝いなんだ。
迷惑だから、すぐに帰ってくれ───そんな視線を、送られている気がした。
「いえ、こんな時間ですし、私が居ると、真奈美ちゃんに悪いです。すみません。あ……これよかったらどうぞ」
私はちょうど持って来ていたお土産の菓子折りを優さんに手渡し、頭を下げ早足にこの場を去る。面倒な事になっても困るし、これで良いのだ……
「ちょ、千歳さん!」
優君が私の名を呼ぶ声を背に聞いたが、立ち止まることはない。
実のところ、先ほど覗いていた家庭の、あの子どもたちの父は、私の父でもある。
そして、結城優という大学生も、一つ年下の弟に当たる。
だけど、母が違うのだ。
私はあの家庭には入れない。いわゆる……元恋人の子だから。
「……そっか。真奈美ちゃん、ピアノのコンクールで賞を取ったんだ。凄いな」
だけど……
「……私の誕生日は、忘れてしまったかな……お父さん」
安易に父を訪ねようだなんて、愚かだった。
私が現れたら、またあの家の人たちを凍り付かせるのに。
特に真奈美ちゃんは私を酷く嫌っているから、せっかくのお祝いの日に私なんかが参加したら、きっとまた悲しい思いをさせる……
住宅街を抜け、高校生の頃よく歩いていた道に出た。
視界がぼやけたのは、未成年から成年になる今日というおめでたい日を、たった一人で過ごすことになる虚しさが理由ではない。
猛烈に目が痛かったのだ。多分、砂埃が入ったんだと思う。
チクチク、チクチクと……目の奥にまで響く、まるで針で刺されたかのような痛み。
痛いなあ、もう。私の目は極端に敏感で、ほんと嫌になる。
足を止め、眼鏡を取って何度も瞬き。ごしごし目元の涙を拭いて、また眼鏡をかけ直す。
鮮明になった私の視界は、ある神社の入り口に立つ鳥居を見つめていた。
「…………黒曜神社?」
そう言えば……あの家の近所に、寂れた神社があったっけ。
夕暮れの下、ほんの数年前のことを思い出す。
ほんの数年、父の家に引き取られていた時期があるのだ。高校生の間の事だ。
ピアノの指導者をしながら女手一つで育ててくれた母が、急な病で亡くなった。
母方の祖母は他県の老人ホームにいた事もあり、それまで数回しか会った事のなかった父が、私を引き取る事になったのだ。
しかし父の家庭に上手く馴染む事が出来ず、あの家に帰るのも気まずくて、近所の神社で放課後の時間を潰していた。
とにかく、読書と宿題だけが私の暇つぶしだった。
誰も居ない神社の拝殿に腰掛け、真面目に宿題をして、それでも時間が余るからと、黙々と本を読んでいたのだ……
本は良い。本を読んでいる間は、辛いことも、孤独さえも忘れられる。
できるだけ多くの本を読めと言って聞かせたのは、読書好きの母だった。祖母が童話作家だったこともあり、母の本棚には数多くの本が並んでいたのだった。
やはり日本と外国の児童文学が多かった。他にも数々の名作、当時の文芸小説、歴史本、科学や植物の図鑑、詩集でも雑学本でも、なんだって。
沢山沢山本を読んで、様々な知識や見解を養えるようにと、母は言っていた。
それが、のちに自分の役に立つから、と。
楽譜の解釈の幅も広がり、ピアノの音も変わるから……と。
でも、このご時世スマホで検索すればどんな情報でも手に入るし、なんだってマニュアルや解説が付いている。本を読んで、自分の人生がキラキラしたものになるのなら、今の私の状況はかなりおかしい………
本から得た知識が、現代で特別自分の役に立つとは思えなかったが、とはいえそんな事とは関係なく、私は読書が好きだった。
この時、本を夢中になって読んでいたせいで、視力を落としてしまった。
だからこんなにダサい黒ぶちの瓶底眼鏡をかけている。父が買ってくれたものだ。
コンタクトも試してみたが、目にコンタクトを入れると猛烈に痛く、まるで体に合わないので諦めた。おかげで華やかな他の子どもたちと比べて、私は突き抜けて地味だ。
(つづく)