孤独な女子大生・千歳は、20歳の誕生日に神社の鳥居を越え、「千国」という異界に迷いこむ。そこで毒舌イケメン仙人の薬師・零に拾われ、弟子として働くが、「この安本丹!」と叱られる毎日。ところが、お客を癒す薬膳料理をつくるうちに、ここが自分の居場所に……。
友麻碧さんの人気シリーズ、『鳥居の向こうは、知らない世界でした。』は、そんなほっこり師弟コンビの異世界ファンタジー。読むほどに引き込まれる、夏休みにぴったりの一冊です。ここではストーリーの序盤を、ほんの少し公開します。
鳥居と黒ウサギ
「神社……行ってみようかな」
足が、勝手にその神社へと向かう。
私がずっと拠り所にしていた場所。
鳥居をくぐり、石段を一歩一歩上っていると、温かな風が私の髪と神社の敷地の神聖な空気を巻き上げ、薄いオレンジと紫のグラデーションの夕空に吸い込まれる。
ああ。夕方の入道雲はとても綺麗だ。だけど、少し苦しい。
夕暮れは、この場所は、毎日がとても息苦しかった高校時代を思い出させる。
「一年ぶりかな。……何にも変わらないな。この神社」
境内に上がれば、ボロの拝殿も、水の無い手水舎も、絵馬の掛かっていない絵馬掛け処も、当時と何も変わらない。ボロに拍車がかかっただけ。
拝殿の階段に腰掛け、ぼんやりと物思いに耽る。
ちょうど一年と少し前、私はあの家を出て特待生制度のある大学に進学し、一人暮らしを始めた。母が私のために貯めていた貯金を切り崩し、アルバイトで稼いだお金を生活費にあて、つづまやかに暮らしている。父からの仕送りはあるが、全く手をつけていない。
一人って、とても気楽だ。きっと、私はこれからも一人で生きていく事になる。
誰かが私に寄り添う未来が、どうしても見えてこない。
恋も結婚も、出来る気がしないなあ。
「メール……なんて、来ないか」
鞄からスマホを取り出し、半ば期待、半ば諦めた心地で新着を確かめた。
しかし、案の定、父からはなんの連絡もない。
「…………」
徐々に生暖かい夏の夕暮れの匂いが胸に迫る。とても懐かしい匂いだと思って、私はスマホを胸に抱いたまま、膝に顔を埋めた。
しっかりするのよ夏見千歳、二十歳。
明日からはもう両親の事情に翻弄される事も頼りにする事も無く、自分のこれからの事だけを考え、しっかり生きていかなければ。
だけど、その手の未来を考えようとすると、黒い視界の中からピアノの鍵盤らしきものが浮かび上がってくる。
白と黒。
耳の奥で、ひたすら奏でられている、あの幻想的な旋律が……
「ハッ。危ない、寝かけてた……」
眠りそうになっていたところを慌てて顔を上げた。
そろそろ帰らないと、暗くなってしまう。
「…………」
しかし……
驚いた事に、顔を上げて最初に見たものは、参道にいるちょこんと丸まった黒い小動物だった。流石に首を傾げる。
見た事の無い動物……黒い毛玉……
「黒い……ウサギ?」
眼鏡を押し上げ、目を細めよくよく確認すると、それはやっぱりウサギの様だった。
なんて美しい漆黒の毛並みと、珍しい金と銀のオッドアイだろう。
可愛らしいウサギのイメージとは随分と異なる神秘的な佇まいで、私はますます訳が分からない。数秒の間、私たちはただ見つめ合う。
「い……った」
一瞬、目に激痛が走った。思わず眼鏡をずらし、目元を押さえる。
先ほど砂埃が入った痛みとは少し違う、焼けるような熱を帯びた、それでいて脳天まで突き抜けて痺れる、不可解な痛み。
変な話だが、まるで痛みで何かを訴えかけているかのような……
ウサギは金と銀の瞳で、そんな私を見据えていたが、やがてニヤリと人間みたいに口元に弧を描き、ぴょんこぴょんこと私に近づく。
「!?」
そして目を押さえている私を尻目に、黒ウサギは膝の上のスマホをさっと咥えた。
まさに脱兎。そのまま境内の鳥居を越えて、石段を下りて行ってしまう。
「えっ、ちょっ、ちょっと待って……っ!」
目を痛がっている場合ではない。スマホ依存症という訳ではないが、それが無いと流石に困る!
私も慌てて立ち上がり、鞄を抱えたまま黒ウサギを追った。
なんなの。なんなのあのウサギ。
「…………え?」
境内から石段を見下ろし……また、混乱した。
「……」
連なった赤鳥居が、ずっとずっと下方まで続いているのだ。
「せ、千本鳥居? こんなの、境内に上って来た時には無かったのに……」
空気は確かに蒸し暑いのに、涼しいものが背筋を通る。
しかもあの黒ウサギときたら、数段下りた所でこちらを振り返って待っている。
───さあ……この千本鳥居を越えて……ごらん
その金と銀の瞳が囁く。
私はしばらく立ちすくんでいたが、ぽつぽつと夕立が降り始めたのを合図に、言われるがままに一歩一歩と石段を下りた。
(つづく)