増えるおうち時間は、モノを減らしたり、整理したり、自分が何を必要としているかをあらためて考える機会になるかもしれません。
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捨てることは、生きること、捨てなければ、生きられない――。「断捨離」の考案者であるやましたひでこさんはそう言います。「捨てる」という一見、単純な行為がどうしてこれほどまでに難しいのか? なかなか実践できないのか? やましたさんの新刊『捨てる。~引き算する勇気~』から抜粋して考えます。
断捨離とは、自分はどう生きたいかを知ること
テレビや雑誌などで、「断捨離する」という言葉を聞かない日はありません。その多くが単に「捨てる」という意味で使っています。
実は、「断捨離」という言葉は、私個人の登録商標であり、私自身が考案・開発した自己探訪メソッドです。
決して「捨てる」という意味ではないのですが、「やましたひでこ」は知らなくても、「断捨離」を知っている人は多く、現在では言葉だけが一人歩きしています。
ですから、ここで「断捨離」について少し説明をさせてください。
「断捨離」の誕生のきっかけは、今から20年以上前、高野山で宿坊体験をした際、修行僧たちの日常生活に触れたときにさかのぼります。彼らは必要なモノしか持たず、それを大切に使っていました。宿坊も掃除が行き届いて、スッキリとした生活が営まれていました。
今でこそ、私自身、モノを絞り込んだ生活をしていますが、もともとは片づけが大の苦手。当時はモノが溢れた部屋に住んでいました。その頃、収納術が流行っていたこともあり、溢れんばかりのモノを、なんとか収納しようと棚や収納便利グッズを購入しました。しかし、片づくのは一時だけ。すぐにモノが溢れ始め、しょっちゅう自己嫌悪に陥っていました。
しかし、この高野山の体験で、「そもそもモノがなければ、収納する必要はない」ということに気がついたのです。「あれが欲しい、これも欲しい」と、モノを増やしていく足し算の生活ではなく、「これは不要、あれもいらない」と引き算の生活をしていくことが大切なのではないかと。
そこで私の頭に浮かんだのは、学生時代にヨガ道場で学んだ「断行・捨行・離行」という、欲望を断ち執着から離れるための行法哲学です。この考えをモノとヒトとの関係性にも当てはめることができるのではないかと考えたのです。
「断」とは、「決断」の「断」です。
「捨」とは、不要・不適・不快なモノを手放すこと。
「離」とは、「断」と「捨」を日々繰り返すことで至る境地、すなわち自在です。
断捨離というと、「何もかも捨ててしまうこと」と思っている人もいるかもしれませんが、そうではありません。まずは、1つ1つ、自分とモノとの関係性に向き合うことで、自分に不要なモノ、不快なモノ、不適切なモノがわかり、自分にとって何が大切なのか、自分はどう生きたいかを知ることです。
片づけは、手段であって最終の目的ではありません。
その後、私はクラター(=clutter、ガラクタ)・コンサルタントとして活動を開始しました。片づけができなくて悩む人々の相談に乗り、家の中にあるものを吟味して、不要なモノを手放せるように助言をしています。
そして、10年以上も「断捨離」をテーマに講演をしています。そこでは、不思議な現象をしばしば目の当たりにします。断捨離を実践すると、家の中のガラクタが片づくだけでなく、その人の人生までもが劇的に変わっていくのです。断捨離で、モノに対する執着から解放されることで、心のガラクタも整理され、「今」を自分らしく生きようというようになります。
断捨離が、これまで多くの方々に支持していただいているのは、断捨離が、単なる物理的な片づけではなく、自分らしい人生を送るための意識改革であり、また生活革命だからです。
……続きは、『捨てる。~引き算する勇気~』をご覧ください。……