人類の悲劇を巡る「ダークツーリズム」が世界的に人気だ。7月30日に発売された『ダークツーリズム~悲しみの記憶を巡る旅~』(井出明)は、代表的な日本の悲しみの土地と旅のテクニックを紹介。今回は、小樽で近代150年を体感する旅へ。
“観光都市”小樽
小樽は紛れもない観光先進地であり、毎年700万人を超える入り込みがある。ただし、観光客の滞留時間は平均して4時間ほどであると言われており、メインの観光コンテンツである運河通りの散策を済ませると、そそくさと札幌に向かう旅客が多く、夕方4時を過ぎると人影もまばらになってしまう。果たして、小樽には、4時間ほどの滞在の価値しかないのであろうか。
筆者は多くの共同研究者を小樽に抱え、一年に何度も小樽と関西を往復していた時期もあった。繰り返し訪問すればするほど、小樽の底知れぬ魅力に引きずり込まれてしまう。それは、単にガラスが綺麗だとか、寿司が旨いとかいったことではなく、小樽が持つ近代の悲しみの記憶に核心的価値を感じるからである。
明治以降の日本は、すでに150年という歳月を経験し、もはやその時代を短時間で把握することは難しくなっている。明治という国家、あるいは昭和という国家の姿を考えようとした時に、私たちにはもはや緒いとぐちすら見つからないかもしれない。
しかし、小樽の街には近代の記憶が断片的に残り、わずか1泊でも小樽で過ごし、先人の足跡を辿るのであれば、それだけでも大きな啓発を得ることができるのである。
さて旅に出てみよう。
富の集中と女性の悲しみ
19世紀末に外国貿易の拠点港として整備された小樽には、莫大な富が流れ込むとともに、その景気を当て込んで多くの人が移り住み、豊かな経済力に裏打ちされた文化の隆盛を迎えることになった。人々は様々な地域から移り住んだが、江戸時代からの北前船の伝統があったために、石川県や富山県といった北陸地方からは特に多くの流入者を確認することができる。
街は、後に“北のウォール街”と呼ばれるほどの繁栄を迎えることとなった。この頃作られた建物として、現在は金融資料館として活用されている日本銀行旧小樽支店や多くの見学者を集める旧日本郵船株式会社小樽支店などが挙げられる。
これらは『るるぶ』等の一般的なガイドブックにも載っている情報であるが、ダークツーリズムの方法論を用いて街に接近する場合は、地域の悲しみの記憶を辿る必要がある。経済的な爛熟期らんじゆくきを迎えたここ小樽地域には、景気を当て込んで遊女が移り住むこととなった。
一般に、経済状況が芳しい地域には遊女が集中し、これは、確かに時代を問わない。ただし、帝国主義政策と連動しない江戸末期までのいわば“牧歌的”な売買春と異なり、明治国家体制における遊郭や、権力が事実上手入れをしない「曖昧屋」と呼ばれるいわゆる「ちょんの間」については、殖産興業や富国強兵といった近代のコンテクストが読み取れる。小樽は、非公認の曖昧屋を都市中心部に残しつつ、ライセンスを受けた遊郭が火事により徐々に内陸に入っていった。
遊郭移転のきっかけとなった小樽の大火は、1881(明治14)年と1896(明治29)年に起こるが、それを機に、金曇町の遊郭が住之江、そして松ヶ枝(いわゆる「南廓」)に移転していった。その後、梅ヶ枝(いわゆる「北廓」)も整備され、歓楽街は活気にあふれていたようだ。現在、これらの地域に遊郭の名残りはほとんど見られず、極端に広い道幅が防火のための都市計画であったことを窺わせるぐらいである。
古い格子戸を残す建物の近くの餅屋のご主人に、かつての話を伺うと、「この通りはそれはもう賑やかでねえ。華やいでいたよ」と懐かしそうに往時を語ってくれた。実は小樽は、港湾労働者が多かったために、手軽に食べられて腹持ちの良い餅の食文化が発達した。今でも街中の至るところに餅屋がある。
……続きは『ダークツーリズム~悲しみの記憶を巡る旅~』(井出明著)をご覧ください。