タレント・須藤凜々花さんが激推ししてくださっている『片想い探偵 追掛日菜子』。
一度好きになったら相手をとことん調べつくす主人公・日菜子のストーキング能力に、驚愕する読者が続出しています。その日菜子のエキセントリックな行動&発言は、「さわり」だけでも十分伝わるのでは…!ということで、今回冒頭部分の無料公開に踏み切りました。
プロローグと、1~5話それぞれの冒頭部分を、1日おきに公開していきます。
〈あらすじ〉
追掛日菜子は、舞台俳優・力士・総理大臣などを好きになっては、相手の情報を調べ上げ追っかけるストーキング体質。しかしなぜか好きになった相手は、殺人容疑をかけられたり、脅迫されたりと毎回事件に巻き込まれてしまう。今こそ、日菜子の本領発揮! 次々と事件の糸口を見つけ出すがーー。前代未聞、法律ギリギリアウト(?)の女子高生探偵、降臨。
*
コウくんLOVE @chieda_kou_love
大好きな千枝航くんの晴れ姿、ようやく見られそう。人がいっぱい。でも、いい場所が取れました。コウくん、待っててね。可愛い写真をたくさん撮って、アルバムにしてあげる。自宅に持っていくか、郵送するか、どっちにしようかなぁ? 住所の調べはついてるの。ふふふ。
*
ベッドの上でぼんやりと目を開けた瞬間、ぞくり、と背中の毛が逆立つような感覚に襲われた。
朝方なのか、カーテンの向こうがかすかに薄明るい。その光を頼りに目を凝らすと、天井付近に、白黒の模様のようなものが見えた。
──ん?
枕元に手を伸ばし、眼鏡をかける。もう一度天井へと目をやった瞬間、翔平は「ぎゃあ!」と大きな叫び声を上げた。
白塗りの顔に、青ざめた唇。目の下に大きな黒い隈を作った上半身裸の少年が、がらんどうの瞳でこちらを見下ろしている。
「日菜! おい、日菜!」
必死に呼びかけると、アコーディオンカーテンの向こうから、「うーん」という眠たそうな声と、もぞもぞと布団の中で動く音がした。
ベッドから飛び出て、両手で構えのポーズを取り、天井に貼られている幽霊少年の写真からなるべく距離を取る。アコーディオンカーテンの取っ手に手をかけて「開けるぞ」と言うと、「いいよぉ」というちっとも危機感のない返事が聞こえてきた。
勢いよく部屋の仕切りを取り去る。「こら、起きろ」と乱暴な口調で詰め寄ると、妹がぐるぐると布団を巻き込みながら壁に向かって寝返りを打った。
「まだ朝方でしょ? こんな時間からどうしたのよぉ」
「どうしたもこうしたも、あの写真は何だ。よりによって、俺のベッドの真上に貼りやがって」
「えー、今気づいたのぉ? 昨日の夜に貼ったのに」
「電気消してすぐに寝たから気がつかなかったんだよ」
あの気味の悪い幽霊少年に夜通し見つめられながら寝ていたと考えると、先ほどの寒気がぶり返す。
「お兄ちゃん、あれ、何の作品か分かった?」
「いや」
「映画『怨念』に幽霊役で出てたときの写真だよ。コウくんったら、あんな格好しても可愛いんだからさすがだよねぇ」
「ぜんっぜん可愛くないわ」
「え、ファンの前でひどい発言」
「だったらあんなものを天井に貼るな。俺の安眠を返せ」
憤然と腰に手を当て、共有部屋の中を見回す。
日菜子が今回の推しを追っかけ始めたのは、三週間ほど前のことだった。それ以来、写真は日々増えていて、今や元の壁紙がこれっぽっちも見えないほどに埋め尽くされている。
「にしても、なあ」
「なあに? 文句?」
「いや、力欧泉のときも思ったけど」翔平は目を細め、ミノムシのように布団にくるまっている妹を見下ろした。「お前のストライクゾーンはどうしてそんなに広いんだ」
端整な顔をした俳優や魅惑の歌声を響かせる歌手に熱を上げていると思いきや、たまにこういう変化球を突然投げてくる。この変わり身の早さと好みの幅広さには、どうもついていけない。
今回の日菜子の「推し」は、知名度という意味では舞台俳優や大相撲力士よりも断然高いものの、女子高生が黄色い声を上げながら追いかけ回す相手としては首を傾げざるをえなかった。
「本気で恋してるんだとしたら、わりと犯罪だな。歳の差的に」
「犯罪?」日菜子が勢いよくベッドから身を起こし、ふくれっ面をした。「人聞きの悪いこと言わないで。おじさんが女子高生に手を出したら犯罪だけど、十七歳の女子高生が十一歳の男の子を狙うのはセーフでしょ? だって、子ども同士だもん」
──出た、謎の持論展開。
こういう自分に都合のいい考え方は、いったいどこから湧き出てくるのだろう。
「っていうか、そもそもリアコじゃないし」
「リアコ?」
「リアルで恋してるってこと。略してリアコ。私が彼を愛でる感情はね、親戚のお姉さんみたいなものなの。本当に可愛くて天使みたいな男の子がいたとして、その子がにっこり笑いかけてくれたら、この子を産んだ親とか、この子と同じ時代に私を生誕させてくれた世界にもう心の底から全力で感謝するしかなくなるでしょ? できることなら今すぐ死んでこの子の妹に生まれ変わりたいとか、もしくは十数年待ってから娘としてこの世に生を享けるほうがいいかなとか、いろいろ妄想しちゃうでしょ?」
「うん、しないな」
「お兄ちゃんは男だから分からないんだよ」
日菜子がふくれっ面をして、ぷいとそっぽを向いた。
──じゃあ、俺が幼女に熱を上げていたとして、お前はそれを許容できるのか?
そう突っ込みたくなったが、面倒な事態になりそうだからやめておくことにした。そんな疑問を投げかけようものなら、性的嗜好としてのロリコンと純粋なファンとしての恋心の違いについて延々と語られそうだ。
翔平はそっとため息をつき、意図的に話を逸らした。
「ええっと、この子の名前、何だっけ。んーと……あ、夏野颯真?」
「違うよ! 千枝航くん。通称、コウくん。岩手県盛岡市出身の神童で、三歳の頃から大河ドラマやアニメ映画の吹き替えで活躍してるの。七歳のときに家族と一緒に上京してきて、九歳のときには子役にしてCM出演数ランキングの男性三位にランクイン。『ナガモリ製菓』とか『四菱電機』のCMが一番有名かな。最近はどちらかというと映画の仕事が多くて、出演作を挙げると──ああ待って、最新作から挙げていくのと代表作から順番に言うのとではどっちがいいのかな、お兄ちゃん決めて! でも個人的にはあまり知られてない作品のほうがコウくんの良さが──」
「はいはいはい、分かった分かった。千枝航ね」
翔平はキラキラとした目で語り始めた妹を押しとどめてから、「別の子役とごっちゃになってたっぽいわ」と頭を搔いた。
「もう、ひどいなぁ。夏野颯真くんは、昔からずっとコウくんと人気を二分してきた、コウくんと同い年の子役でしょ」
「ああ、そうだった」
「でも、最近はコウくんの露出のほうが断然多いよ。颯真くんは、六年生になってから大人っぽくなりすぎて人気が落ちちゃったみたい。その点、コウくんはまだまだ無邪気で可愛いから」
「だから日菜は千枝航のほうが好き、と」
「うん! ホント、見てるだけで癒されるんだぁ」
日菜子がうっとりと壁の写真に目を向け、わざとらしく両手を組み合わせた。
妹のベッド脇に置いてある目覚まし時計に目をやる。時刻は午前五時前だった。九月も二週目に入り、暦の上では一応秋になったはずなのだが、まだまだ日は長い。部屋の中も、冷房なしだとだいぶ暑苦しかった。
六月下旬に力欧泉への恋を終えてから、日菜子はコロコロと推しを変えていた。七月下旬から八月いっぱいは、夏休みだったからか、その周期が特に短かった。追っかけに充てる時間がたっぷりある分、飽きが来るのも早かったのだろう。
丸一日派遣のバイトに入って資金を稼ぐか、朝から晩まで推しとの愛を育むか。夏休みの日菜子の生活は、驚くほど単純な二択から成り立っていた。
その間、共有部屋の壁は目まぐるしく〝模様替え〟を繰り返した。俳優からスポーツ選手へ、スポーツ選手からバンドのボーカルへ、バンドのボーカルから雑誌モデルへ、雑誌モデルからアイドル歌手へ。そして、夏休みが終わりかけた頃、それまでと毛色が異なる写真が貼られ始めた。それが、稀代の天才子役・千枝航だった。
翔平が日菜子の推しの名前をきちんと覚えたのは、実に三か月ぶり──大相撲力士の力欧泉以来のことだ。
「今何時?」
「五時前」
「お兄ちゃんナイス! もともと五時に目覚ましかけてたんだよね。起こしてくれてありがとう」
「ん? どこか出かけるのか?」
日菜子が早朝から準備を始める、ということは──。
「千枝航に会いに行くんだな」
妹の行動パターンは、もうだいたい把握していた。きっと、これから小一時間かけて化粧をして、全身をお気に入りの服でコーディネートしてから、いそいそと家を出ていくに違いない。推しに会いに行くときは、いつもそうだ。
「映画の試写会か? それともロケの見学? お願いだから、須田優也のときみたいなストーカー行為だけはするなよ」
「うん、大丈夫。今日は、コウくんが通ってる小学校の運動会を見に行くだけだから」
「おう、そうか。気をつけて行ってこいよ──って、おい!」
いそいそとベッドから降りて準備を始めようとした妹の腕を、翔平は思わずつかんだ。
「お前、どうして千枝航の小学校を知ってるんだ」
「まあ、それは、いろいろとね。ネットの噂とか」
「子役が通う小学校を特定して、しかもその小学校の運動会の日付まで調べ上げて見に行くなんて──」
しばらく絶句してから、大きく息を吐く。
「──何考えてるんだ。警察に捕まるぞ。あれだけの人気子役がいる学校となると、セキュリティも厳しいだろうし」
「それがねぇ、そうでもないみたいなの。コウくんが通ってるの、けっこう治安のいいところにある、普通の公立小学校だから。ちょっと頭をひねれば誰でも入れちゃう」
頭をひねれば、という部分が引っかかる。妹のことだから、法律のグレーゾーンくらいは平気で侵すつもりでいるに違いない。
「運動会はさすがにやめとけって。イベントやら試写会やらに申し込んで、ファンとして普通に会いに行けばいいだろ。プライベートに踏み込むのはよくないよ」
翔平は日菜子の腕を強く引いた。すると、「違うの」と日菜子が不意に険しい目をした。
「いくら好きでも、興味本位で小学校の運動会に行ったりはしないよ。でも、今はね、コウくんが危ないかもしれないの」
「ん? 危ないって?」
「誰かに狙われてるかもしれないの。最近、何者かに脅迫されてるみたいでね。だから、コウくんのことを守りに行かないと」
「はあ? そんなニュース聞いたことないぞ」
「だってどこにも流れてないもん」
「ならどうしてお前が知ってるんだ」
「長くなるから、帰ってきてから話す!」
日菜子は翔平の手を払いのけ、部屋を出て階下の洗面所へ向かおうとした。「ちょっと待て」と翔平は慌てて声をかける。
「俺もついていく」
「えっ?」
こちらを振り返った日菜子が、ぱちくりと目を瞬いた。
「お前一人だと、暴走しないか心配だからな。今日は一日、そばで監視することにする」
胸を反らし、堂々と宣言する。日菜子は数秒の間こちらを見つめてから、ぷっくりと頰を膨らませた。
「過保護なんだからぁ」
わざとらしい声で言い、「じゃ、準備するから待っててね。出発は七時だよ」とひらひらと手を振った。
「七時ぃ? まだ二時間もあるじゃないか」
「そのくらいは普通にかかるの。あと、今日の現場の近くで美容院も予約してるから。ヘアセットする間、お兄ちゃんは待機ね」
──ヘアセットぉ?
有名子役とはいえ、たかが小学生男児のためにそこまで一生懸命になる気持ちはさっぱり理解できない。身なりを整えるのにこれだけの時間と労力をかけるなんて、つくづく、女子というのは大変そうだ。
鼻歌を歌いながら階下へと降りていく日菜子を見送ってから、翔平はのろのろと自分のベッドへと戻り、再びごろりと寝転がった。
なんだか、今日は忙しい一日になりそうだった。
*
電車の中で、翔平はドギマギしながら日菜子の隣に腰を下ろした。
同じ車両に乗っている数名の男性が、ちらちらと日菜子に視線を向けているのが分かる。十一歳の推しに会うために化粧をばっちり施した日菜子の顔は、兄の自分でも平静を失うくらい──なんというか、艶やかだった。
──普通に生きていれば、彼氏の一人や二人できただろうに。
大学二年生にして彼女いない歴イコール年齢の翔平としては、もちろん妹に先を越されることは避けたい。だが、なんだか複雑な気持ちになるのも事実だった。
端的に言って、少々、もったいないのではないか。
「どこまで乗るの?」
そういえば千枝航の小学校がどこにあるのか聞いていなかった。日菜子はスマートフォンに視線を落としたまま、「横浜駅」と答えた。この路線の終着駅だ。
「その後は?」
「東海道線で藤沢駅まで行く。そこから小田急線で二駅」
「だいぶ遠いな」
「そうねぇ、一時間くらい?」
千枝航の小学校は、神奈川県藤沢市内の公立小学校だと日菜子は説明した。藤沢というと湘南の海のイメージが強いが、目的地は藤沢駅よりも北側で、海からは遠いらしい。
「千枝航がその学校に通ってるのは、有名な話なのか」
「ううん。神奈川県内とか湘南地域って噂はあるんだけどね、具体的な学校名までは出てないみたい。だけど、裏技を使ったら分かっちゃったんだぁ」
「裏技って?」嫌な予感がする。
「小さい頃から活躍してる子役って、大抵、母親の意向で芸能界入りしてるでしょ? 子役本人よりも、母親のほうが華やかな世界に興味があるというか──ちょっと、自意識が強いんだよね。夏野颯真くんの母親がいい例かも。息子の代わりに自分がブログを更新したりして、まるで芸能人みたいに振る舞ってるんだよ」
「まあ、そういう傾向はあるかもしれないな」
「その点、コウくんママは、公にブログやSNSをやってるわけじゃないの。でも、たぶん、息子のことを何かとアピールしたがる性格は、颯真ママと一緒なんじゃないかなぁと思って」
それでね──と日菜子が得意げに語り出した話は、案の定、頭を抱えたくなるような内容だった。
子役の母親は息子の情報を発信したがるという持論に基づき、日菜子は千枝航に関する情報を徹底的に収集し、キーワードを片っ端から検索していった。千枝航のことを宣伝するような内容のブログやSNSアカウントを見つけると、隅から隅まで目を通し、身内の者による記事でないかを検証した。
「でも、さすがにそれだけだと見つからなかったんだよね。コウくんママも、すぐに特定されそうな言葉を直接インターネットに書くような真似はしていなかったってわけ」
キーワードによる検索の結果は不作だった。そこで、今度はイメージ検索機能を用いて、日菜子がパソコンに保存していた様々な画像──例えば千枝航が出演する映画のポスターやテレビ番組で使用された赤ちゃんの頃の写真──をアップロードし、インターネット上に転がっている類似の画像を洗い出していった。
知る人ぞ知る機能だ。親と特定されてしまうようなキーワードを載せないよう気をつけていても、写真で写真を検索するファンがいることまでは頭が回らなかったのだろう。
果たして日菜子は、恐ろしい執念で、千枝航の母親と見られる人物が綴っているブログの発見に成功した。
「コウくんがいろんな服の着こなしを披露したファッションブックがずいぶん前に発売されてたんだけど、その見本誌の画像を発売日より前に載せてたブログを見つけたんだ。キーワード検索をしたときは引っかからなかった子育てブログ。よく読んでみたら、コウくんの仕事について画像でちょこちょこ宣伝してるのに、肝心の文章には、コウくんの名前も、コウくんが出演した映画やドラマのタイトルも、一度も出てこなくて。もうね、『これだ!』って直感したよぉ」
「意図的な検索避けをしてたってことか」
「そう。身内じゃなきゃ、そんなことはしないでしょ?」
日菜子は満面の笑みを浮かべながら、千枝航の母親のブログを発見したときの喜びを語った。興奮しすぎているのか、もはや息を切らしている。
「家族三人で日帰り旅行に行ったとか、息子が宿題をなかなかやらなくて大変だったとか、そういう何でもないことが書いてあってね。読むのが、ほんっとうに、楽しいの! だって、コウくんが普段家族と何してるかなんて、誰も知らないことだもん。ね、すごいでしょ? やばいでしょ?」
「よかったじゃないか、労力に見合う対価が得られて」
「でも、困ったことがあってね」
はしゃいでいた日菜子が、急に眉尻を下げた。
「過去のブログ記事を全部読もうと思ったら、半分くらいが限定公開記事だったの。友達申請が承認されないと、読めなくって。どうも、リアルで繫がってるママ友じゃないとダメみたいだった」
「ああ……それは諦めるしかないな」
「普通ならね。でも、承認してもらえた!」
「は? どうやって?」
翔平は思わず身体をひねり、妹の顔を見下ろした。日菜子は片手でピースサインを作って、「なりきり大作戦」と答えた。
「えーと、それは……実在のママ友を装って友達申請した、とか?」
日菜子がこくりと頷いた。当たり前でしょ、と言わんばかりの表情をしている。
そういえば、殺人の疑いをかけられた須田優也を救うために赤羽創を陥れたときも、同じような方法を用いていた。
とすると、これは日菜子の常套手段なのかもしれない。
「日菜、あのな──」
「コウくんママがずっと前にインタビューに答えてて、そこに本名が載ってたの。その名前で検索してみたら、湘南地域のママさんバレーチームのホームページがヒットしてね。そこにあったメンバーの名前でアカウントを作って友達申請したら、見事承認されたんだ! もうね、ホント苦労したよぉ」
「日菜、それは──」
「そうだ! あとね、ブログのIDで検索をかけたら、ツイッターもラインも特定できちゃったんだ。もっと気をつければいいのにねぇ」
「まさか」頭から血の気が引いた。「直接連絡を取ったのか?」
「ううん。『推しに迷惑はかけない』っていうのが私のポリシーだもん。直接メッセージを送ったら怖がられちゃうから、それは絶対にやらない」
どうやら最低限の常識は持ち合わせているようだ。翔平はほっと胸を撫で下ろした。安心する基準が低すぎるような気もするが。
「で、見たんだな。ブログの限定公開記事の内容を」
「それと、ツイッターのつぶやきもね。鍵かかってなかったから」
はあ、と小さくため息をつく。妹の手にかかると、どんな人間も丸裸にされてしまうらしい。
「そこに、千枝航が脅迫されていると書いてあったんだな」
「そうそう」
「具体的にはどういう内容だったんだ?」
問いかけると、日菜子が「はい」とスマートフォンを差し出した。見ると、ブログの記事一覧ページが表示されていた。直接読んだほうが早いということか。
人気天才子役の母親のブログは、宣伝用の画像がところどころに貼られているのを除けば、一見普通の子育てブログに見えた。しかし、『今日は授業参観。図工の作品、やっぱり息子のが一番? とか思っちゃった』『天は二物を与えずって言うけど、本当かな? 息子と過ごしてると、そうは思えない』など、少々引っかかる発言がところどころに見受けられた。
「うーん、典型的な親バカだな」
「でしょ? コウくんが頭が良くて手先も器用で性格も良くて天に二物も三物も与えられたような素晴らしい子どもだってことはよーく知ってるけど、これだとさすがに周りのお母さんたちの反感を買うと思う」
「これじゃ、そうだろうな」
飛ばし飛ばしにいろいろな記事を読んでいると、日菜子に肩を叩かれた。いつの間にか、電車は横浜駅のホームへと滑り込んでいた。
電車を降りて階段へと向かう途中、隣を歩く日菜子が手を差し出してきた。「まだ脅迫部分まで辿りついてないよ」と抗議すると、「え、最近の記事だよ。二日前と、四日前だったかな」という言葉が返ってきた。
下り方面の東海道線に乗り込んでから、日菜子のスマートフォンを再び操作して、ブログのトップページへと戻った。さっきは飛ばしてしまっていた限定公開記事を開き、中身に目を通す。そこには、なるほど気になる文章があった。
『最近、ちょっと怖い。たまに、心当たりのない郵便物がポストに入ってて、宛先がコウちゃんの名前になってるの。中には気持ち悪いラブレターと、コウちゃんが好きなもののプレゼント。差出人欄にコウくんLOVEって書いてあるから、コウちゃんのファンの仕業だと思うけど……どこで住所が漏れたんだろう。引っ越したほうがいいのかな? でも、持ち家だし』
『やだ、どうしよう。また例のプレゼントと手紙が届いたんだけど! 運動会を見に行きますって書いてある。でも、コウちゃんに話して校長先生にお電話するかどうか聞いてみたら、僕、白組の応援団長なんだよ。運動会が中止になるようなことは絶対にしないで!って怒られちゃった。そうは言っても、ねえ……。本人は気をつけるって言ってるけど、大丈夫かしら。変な人が運動会に来たら、どうしよう。せめて、私が気をつけなくちゃ』
「これは……確かに怖いな」
顔をしかめながら、翔平はスマートフォンを妹に返した。
「でしょ? しかも、これだけじゃないんだよ」
日菜子が慣れた手つきでするすると画面をなぞり、「ほら」とスマートフォンをこちらに傾けてきた。
『コウくんLOVE』という、シンプルなゴシック体の文字が目に飛び込んでくる。
ツイッターのプロフィールページのようだ。フォロー、フォロワー数はともにゼロになっている。
「この、『コウくんLOVE』って名前──もしや、千枝航の母親のブログに書かれてた、気持ち悪いファンのツイッターアカウント?」
「こんな人のことをファンなんて呼ばないで。ストーカーだよ、ストーカー」
日菜子は鼻の頭にしわを寄せ、憤然と言い放った。妹がこれほど怒っているのも珍しい。翔平の目から見ると日菜子のやっていることも大して変わらないのだが、彼女の中では、本人に直接接触して恐怖を与えるかどうかというところで明確に線引きがされているようだ。というわけで、「お前が言うな」というツッコミはとりあえずやめておくことにする。
「これ見て!」
日菜子が突き指しそうな勢いで画面を指差した。『コウくんLOVE』と名乗るアカウントによるツイートが表示されている。
『コウくんの小学校の裏にある人気のお弁当屋さんで、お弁当買っちゃった コウくん、これから行くからね。可愛い姿をたっぷり見せてね』
ツイートには縦長の画像が添付されていた。行列ができている小さな弁当屋をバックに、色とりどりのおかずが入った美味しそうなお弁当を写している。そのほんわかとした写真とは裏腹に、翔平の両腕には鳥肌が立った。
日菜子が画像をタップして最大化し、写真の上下の黒い画面をコツコツと爪の先で叩いた。
「コウくん絡みのキーワードで検索してたら見つけたの。このツイートだけじゃないよ。もっとやばいのがある」
再び日菜子のスマートフォンの画面を覗き込み、翔平は息を吞んだ。
『今日は愛しいコウくんの、最後の運動会。準備は万全。そのラストを、私が綺麗に彩ってあげる』
「彩ってあげるって……何だそれ」
「何か、仕掛けてくる気なのかも」日菜子は殺気立っていた。「防がなくちゃ。コウくんの身の安全は、私とお兄ちゃんで絶対に守るんだから!」
いつの間にか、翔平はずいぶんと重大な任務を背負わされてしまったようだった。
藤沢駅で降りると、日菜子は駅の近くの美容院へと消えていった。三十分ほど待ってから再度合流し、小田急線のホームへと向かう。各停で二駅移動し、さらにそこから十分ほど歩いていったところに、今日の目的地である公立小学校があった。
学校の周りは、すでに保護者でごった返していた。開始一時間前だというのに、もう場所取り合戦はとっくに始まっているらしい。「ま、今日の目的は運動会を見ることじゃなくて、ストーカーを捕まえることだから」と日菜子は隣で何度も呟いていたが、特等席に陣取ることができない悔しさが言葉の端々ににじみ出ていた。
「はい、これつけて」
日菜子が手を伸ばしてきて、翔平が着ているTシャツの胸元に名札をつけた。透明な名札ケースの中に、紫色の紙が入っている。『六年生家族』と印刷されていた。
「これは?」
「受付で配られる名札。簡易的な不審者対策だね。この運動会、事前受付制だから、これがないと入れないんだぁ」
「ん? それをどうして日菜が持ってるんだ」
「作ったから」
え、という声が喉から漏れた。翔平が慌てているのをお構いなしに、日菜子は涼しい顔で自分の胸にも紫色の名札をつける。
「学年ごとに色が決まってるらしいよ。一年生は赤、二年生はオレンジ、三年生は黄色、四年生は緑、五年生は青、六年生は紫。卒業生がSNSに載せてた写真を数年分研究して、再現してみたの。上手いでしょ?」
「お前……」
翔平が呆れているのに気づいていないのか、日菜子は「あ、プログラム貼ってある! 見に行こ」と駆けていってしまった。
受付を済ませていないことを咎められないかとドキドキしながら、翔平は人でごった返す校門を通り抜けた。日菜子の後を追いかけて、受付テントの奥に掲示されている模造紙の前へと進む。どうやら杞憂だったようで、受付で忙しくしている職員たちはこちらを見向きもしなかった。
模造紙には、運動会のプログラムが手書き文字で記載されていた。全校生徒で行うラジオ体操第一から始まり、三、四年生の八十メートル走、一、二年生とその保護者による玉入れ競争、五、六年生の百メートル走と、午前の部だけでも全十種類の競技が予定されているらしい。昼食休憩前の最後のプログラムは、五、六年生とその保護者による二人三脚での障害物競走となっていた。前半戦だけでも、なかなか見応えがありそうだ。
「で、この人数の中から、どうやって目的の人物を探す気なんだ?」
「うーん、一応、ヒントはあるんだよねぇ」
「何? さっきの弁当を持ってる人とか?」
「それもそうだし、もっと別のヒントもあるよ。もう少し位置を特定できれば、どうにかなると思うんだけど……これじゃ絞り切れないなあ」
さすがの日菜子も手の打ちようがないらしく、口をへの字にして校庭を見渡している。受付テントの奥には保護者席があり、グラウンドを挟んでその向かい側に生徒たちの応援席があった。
「あ、ちょっと待って」
日菜子がふと思いついたようにスマートフォンを操作し始めた。ツイッターをもう一度立ち上げ、ページを更新する。「来た!」と日菜子は大きな声を上げた。嬉しそうにしている日菜子に顔を寄せて、画面に表示された新しいツイートを読む。
『大好きな千枝航くんの晴れ姿、ようやく見られそう。人がいっぱい。でも、いい場所が取れました。コウくん、待っててね。可愛い写真をたくさん撮って、アルバムにしてあげる。自宅に持っていくか、郵送するか、どっちにしようかなぁ? 住所の調べはついてるの。ふふふ』
背中がぞくりとした。典型的な、ストーカーの文章だ。犯罪の臭いがする。
こちらのツイートにも、縦長の写真が添付されていた。
まさに翔平と日菜子が目の当たりにしている、運動会開始前のグラウンドを写した写真だった。
日菜子はすかさずその写真を最大化表示し、写真下部の黒い画面に指先を当てたまま、鋭い視線でグラウンドと写真を交互に見比べた。
「受付テントが右端に写ってて、対角線上にあの家が写ってるから──」
周りを指差しながら、日菜子はずんずんと歩いていく。慌ててついていくと、奥に設置されている入場門のそばで、日菜子がぴたりと足を止めた。
「ここだ!」
小声で言い、さっと通路の脇に身を寄せる。翔平も同じように日菜子の隣に立った。目の前の保護者席を見渡すと、すでに大勢の夫婦や小さな子どもたちがレジャーシートを敷いて場所取りを済ませていた。
複数人で同じレジャーシートに座っている家族連れを排除すれば、すぐにでもツイートの主を特定できるのではないか。そんな考えが頭によぎったが、意外と一人で来ている親も多かった。ぱっと見ただけでも、少なくとも十五人はいる。
──だったら、その中で弁当の袋を持っている人がストーカー犯だ。
そう断定し、それぞれの持ち物を遠目からつぶさに観察する。しかし、弁当の袋を分かりやすくそばに置いている人物はいなかった。手持ちのバッグに入れてしまったのかもしれない。そうなると、絞り込む術はなかった。
「ここ、入場門のすぐそばだね。たぶん、競技前にコウくんを撮影し放題だから、この位置を選んだんだよ」
日菜子に耳打ちされ、翔平は小さく頷いた。スト──、いや、ファン同士だからこそ、犯人の心理がよく理解できるのだろう。
翔平が一人合点していると、日菜子が急に胸の前で両手を組み、そわそわし始めた。
「どうしよう! 今から生身の千枝航くんを見られるって思ったら、急に興奮してきちゃった。うわあ、ホントやばい! すぐそこの入場門に来るんだもんね」
「ああ、そうだな」
「六年生の最初の競技は百メートル走だったよね。前から四番目の競技ってことは、わりとすぐに待機に来るかな? きっと二番目の競技の途中くらいには来るよね。ああどうしよう、こんな絶好のフォトスポット、めったにないよ。やばい! 最高すぎ! よし、決めた。私は自分のスマホでコウくんの写真を撮るから、お兄ちゃんはツイッターを見張ってて」
「ミイラ取りがミイラになるなっての」
パシン、と軽く妹の頭をはたく。「痛ぁ」と日菜子は大げさな反応をして、「ちょっとくらい協力してくれたっていいのにぃ」とこちらを睨んできた。
運動会開始まであと五十分。まだまだ、一日は長い。
*
『赤組、速いです。白組、頑張ってください』
小学生にしてはしっかりした口調のアナウンスがグラウンドに響く。そんな中、隣にいる日菜子は、大声で白組を応援していた。
運動会が始まってから、ずっとこの調子だ。プログラム一番のラジオ体操のときさえ「白組!」と叫んで跳びはねるものだから、周りの保護者から不審な目を向けられていた。その間、名札の偽造が露見しやしないかと、翔平は終始そわそわしていた。
──悪質ストーカーから千枝航を守るという目的を、果たして覚えているのだろうか。
これだから、妹には監視役が必要なのだ。この様子だと、いつ暴走し始めてもおかしくない。さっきから「可愛い!」「無理!」「やばい!」「天使!」「コウくん!」「白組!」の六単語くらいしか聞こえてこないあたり、相当頭がやられているようだ。
その妹のテンションが最高潮に達したのは、二つ目のプログラムである三、四年生による八十メートル走が始まってからしばらく経ったときだった。日菜子の読みどおり、出場予定の競技の二つ前というタイミングで、プログラム四番の百メートル走に出場予定の五、六年生が応援席の裏をぐるりと回って入場門に姿を現したのだ。
その先頭に白いハチマキを巻いた千枝航がいるのを見つけ、周りの父兄たちが一斉にどよめいた。
六年生にもなると、すでに成長期を迎えた児童と、そうでない児童との体格の差が一目瞭然だ。千枝航は後者だった。
小柄でほっそりとした身体。真っ白な肌にぱっちりとした黒い目。ほんのりと赤い唇。額にかかるさらさらとした髪。
その容姿の愛らしさは、テレビに出始めた幼児の頃から変わらない。翔平も、すぐそこに現れたテレビそのままの姿に思わず見とれてしまった。
三、四年生の八十メートル走が終わって退場すると、入場門の前列を占めていた一、二年生とその父兄たちがグラウンドに走り出していった。すぐに、後列にいた五、六年生が入場門の先頭へと移動する。先頭にいる千枝航の全身が露わになるや否や、今がシャッターチャンスとばかりに保護者たちが一斉にスマートフォンやカメラを構えだした。
千枝航にカメラを向ける人数の多さに面食らう。一人で来ていて、千枝航の写真を撮りまくっている人物を見つければ事件解決だと高をくくっていたのだが、これでは特定しようがなかった。
「お、お兄ちゃん、保護者席をきちんと見ててね。怪しい人がいないかチェックしといてね。わ、私は、コウくんのお姿を──」
ぷるぷると震えながらスマートフォンを構えだす日菜子の頭を、今度はこぶしでコツンと殴る。
「目的を忘れるなっての。悪質ストーカーをつかまえるんだろ?」
「そ、そうだった……」
日菜子は未練がましい声で呟くと、スマートフォンを鞄にしまい、翔平と一緒になって保護者席の観察を始めた。
ロープで仕切られている目の前の一角には、ざっと百名ほどの保護者が座っていた。その中には、弟や妹であろう乳幼児や、祖父母であろう高齢者も混ざっている。
──十人くらい、だろうか。
保護者席に一人で座っていて、千枝航に向けて一回でもカメラのシャッターを切った人物。写真を撮らなかった保護者を除外しても、まだ数が多い。
「これなら、なんとかなりそうだね。二、三人まで絞り込めるかも」
隣で日菜子が声を弾ませた。翔平は「え?」と首を傾げた。
「お前、ちゃんと観察したか? 一人で来てて、千枝航の写真を撮ってた人となると、ざっと十人はいたぞ」
「ヒントはもっとほかにもあるでしょ。例えば、席の位置とか」
「そうか。『いい場所が取れました』ってツイッターに書いてあったもんな」
「あと、ピンク色のプログラムを持っているかどうか。あれは児童用と家庭用に二部配られたものを子どもたちが家に持って帰るようになってるから、部外者は手に入れられないの。名札と違って、紙の色のパターンも読めないしね。私が複製できなかったんだから、犯人だって絶対に持ってないはず」
「ストーカー犯と張り合うなよ。一緒にされたくないって言ってたくせに」
墓穴を掘ったことに気づいたのか、日菜子は翔平のツッコミを完全に無視し、つま先立ちになって保護者席を再び観察し始めた。翔平も妹に倣い、保護者席の周りを歩き回りながら、ストーカー犯の候補を絞り込んでいく。
一人で来ていて、写真を撮るなど千枝航に興味を示していて、比較的入場門やグラウンドが見えやすい位置に席を取っていて、ピンク色のプログラムを所持していない人物。
確かに、日菜子の言うとおりだった。さっき覚えた十人のうち、七人までは、席の位置が明らかに悪かったり、プログラムの紙をまさに読んでいたりと、簡単に候補から外すことができる。
あらかた保護者席の偵察を終えて元の位置に戻ると、日菜子が難しい顔をして顎に手を当てていた。
「容疑者は三人だな」
翔平は自信満々に宣言し、保護者席を指差した。
「一人目は、最前列の、白いハットをかぶっている女の人。風貌がいかにも怪しいよな」
つばの広い、大きな帽子だった。パーマのかかった黒髪が肩にかかっている。たまにちらりと横顔が見えるが、サングラスにマスク、腕カバーと万全の日焼け対策をしているらしく、表情は窺えない。保護者席の最前列という競争の激しそうなスペースにずいぶんと大きなレジャーシートを広げているところを見るに、早朝から場所取りに並んだようだった。彼女は、片方の手に持ったスマートフォンを高く掲げ、入場門の方向に向けて何回も撮影ボタンを押していた。
「二人目は、前から二列目のちょっと入場門寄りに座ってる、紺色の野球帽をかぶった女の人」
黒縁の眼鏡をかけていて、さほど化粧っ気がない女性だった。年齢は三十代くらいに見える。彼女は、保護者席の中ほどに小さなレジャーシートを敷き、その上で行儀よく正座をしていた。荷物は白いハットの女性より少なめで、黒いデイパックが一つ。薄い桃色のミラーレス一眼レフカメラを手にしていて、ファインダーを覗き込みながら写真を幾枚か撮っていた。
「そして三人目は、端っこにいる、黒いTシャツを着た大柄の男の人」
ストーカー犯が女性とは限らなかった。手紙やツイートの文面をそのまま読み取れば女性のようにも思えるが、カモフラージュという可能性もある。
この大柄な男性は、グラウンドから遠い後列ではあるものの、入場門に最も近い位置に陣取っていた。ロープ一つ隔てた向こう側にいる児童たちを撮影し放題だ。とはいえ、男性が手元のスマートフォンを千枝航のほうへと向けたのはほんの一瞬だった。一枚だけ写真を撮った後は、後ろに片手をつき、うちわで顔をあおぎながら暑そうに顔をしかめている。
「さ、ここまで絞り込めればあと少しだな」
ちょっぴり探偵気取りで鼻の下を指でこすってみる。妹は同意するようにこくりと頷いた──かと思いきや、「あ、ううん。三人じゃなくて二人」と即座に否定した。
「え、どうして? あの三人は全員入場門がよく見える場所にいるし、プログラムの紙も手元に見当たらないぞ。部外者の可能性が大いにあるじゃないか」
「それはそうだけど、そのうちの一人は除外できる。だから、残りは二人」
「除外? どういうからくりだよ。説明し──」
「あああああ! コウくんが隣の子の肩を叩いて励ましてる! 緊張をほぐしてあげてる! なんて優しいの! 天使! 神!」
翔平の要請はすっかり日菜子の大声に搔き消されてしまった。入場門のほうに視線をやったまま、ぴょんぴょんと飛び跳ね続けている。
──こうなると、もう手に負えない。
急上昇してしまった日菜子のテンションは、千枝航が出場する百メートル走のプログラムが終わるまで下がることがなかった。
やはり、この小学校において、人気子役の千枝航というのは大スターのようだった。千枝航がグラウンドに出ているだけで、応援席も保護者席もこれ以上ないくらい盛り上がる。白組の応援団長である千枝航は、ピストルの音に合わせて仲間が次々と走り出していく中、グラウンドの真ん中で応援合戦を繰り広げていた。また、最後に自らが出場するときも、小柄ながら六人中二位と大健闘していた。天才子役は、演技力だけでなく、運動能力も高いようだ。
百メートル走を終えた五、六年生が退場すると、今度は三、四年生とその保護者による大玉転がしが始まった。高揚した妹の精神状態がようやく正常に戻ったのを横目で確認してから、翔平は恐る恐る日菜子に話しかけた。
「日菜子が除外した一人っていうのは、誰なんだ?」
「うーん、教えない」
「なんでだよ」
「お兄ちゃんにも、自分の頭で考えてほしいから」
「何様のつもりだ」
「でも、絞る方法はいろいろあるでしょ」
「これ以上思いつかないよ。ツイートにあった弁当の袋はバッグにしまっちゃってるみたいだし。あ、でも──」
翔平はさっきから気になっていたことを妹に話すことにした。
「Tシャツの男性が持ってるスマホって、うちの親が使ってるやつと同じだよな? たぶん、アンドロイドの格安の機種」
両親が初めてスマートフォンを買ったとき、一番安い機種は分厚いしバッテリーの持ちも微妙だからやめたほうがいいとアドバイスしたのだが、費用を最重要視する彼らには聞き入れてもらえなかったのだった。日菜子は男性のほうにちらりと目をやって、「うん、そうだね」と頷いた。
「ストーカー犯がさ、さっきツイッターに、『可愛い写真をたくさん撮って、アルバムにしてあげる』って書いてただろ? 安い機種ってカメラの性能が良くないから、さすがにアルバムの素材になるような写真は撮れないんじゃないかと思って」
「まあね。作れるかもしれないけど、あまり見栄えが良くないかも」
その点、女性二人は、なかなか解像度が高いカメラを使っている。野球帽の女性が使っているミラーレス一眼レフカメラは言うまでもないし、白いハットの女性が撮影に使用しているスマートフォンは iPhone の最新機種だ。最近機種変更をした日菜子が使っているものと一緒だった。撮った写真でアルバムを作るくらいは難なくできるだろう。
「それから、野球帽の女の人は、さっき、隣の家族連れから話しかけられてたんだ。内容は聞こえなかったけど、一緒にスマートフォンの画面を覗き込んだり、談笑したりしてた。他の夫婦とも会話してたよ。たぶん、知り合いなんじゃないかな」
知り合いが幾人もいるのだとすると、部外者とは考えにくい。
対照的なのは、白いハットにサングラスの女性だった。
誰と言葉を交わすわけでもなく、レジャーシートの上でじっとしながら、ひたすらに千枝航に向かってシャッターを切り続けている。しかも、千枝航が出場していないときは、時折口元を隠しながら誰かと小声で電話をしたり、手元の iPhone にじっと視線を落として何やら操作したりしていた。顔が一切見えないその風貌も相まって、明らかに不審だった。
「俺は白いハットの女の人を見張るぞ」
翔平は高らかに宣言し、最前列の女性へと視線を固定した。
特に何が起こるでもなく、運動会午前の部は平和に進行していった。白いハットの女性は、頻繁に千枝航ら六年生が座っている応援席へとスマートフォンのカメラを向けていたが、それ以外に目立った行動はなかった。
途中で、日菜子が「またツイッターが更新されてる」とアプリの画面を見せてきた。『やっぱり可愛いね。コウくん、大好きだよ』という気色の悪い文面とともに、遠目から写した運動着姿の千枝航の写真がアップされている。先ほどからスマートフォンで写真を撮影しては何やら熱心に文字を打ち込んでいる白いハットの女性が、いよいよ怪しく見えた。
プログラム五番の大玉転がしの後は、五年生によるタイヤ取り、四年生による台風の目と続いた。八つ目のプログラムでは、一年生が流行りのアイドルソングに合わせてダンスをし始めた。ビニール袋や厚紙で作ったらしい色とりどりの衣装に身を包んでいる。初めての運動会で緊張してしまったのか、隊形を上手く作れずところどころでもたついている児童もいた。
──日菜も、あのくらいのときはまだ可愛かったのになあ。
容姿はともかくとして、中身はすっかり変質してしまったようだ。妹が部屋中を推しの写真で埋め尽くしたりストーカーまがいの尾行術を実践したりする女子高生になろうとは、あの頃は想像もしていなかった。
「お兄ちゃん、犯人が分かったよ」
隣でじっとしていた日菜子が突然囁いた。「最初から怪しいと思ってたけど、やっぱりそうだった」と腕を組んで頷いている。一年生の可愛らしいダンスに見入っていた翔平は、慌てて背筋を伸ばし、保護者席へと視線を戻した。
見ると、さっきまで席でじっとしていた白いハットの女性が、レジャーシートから立ち上がっていた。何やら慌てた様子で、着ている白いロングスカートの裾をつまんだりパンプスをひっくり返して底を見たりしている。彼女はそのパンプスを慎重に履いてから、保護者席を離れ、どこかへと移動し始めた。
「何をするつもりなんだろう」
──もしかしたら、もっと良い写真を撮るために、六年生の応援席に近づこうとしているのかもしれない。
翔平は息を吞み、足を一歩踏み出した。
「日菜、あの人を追いかけよう」
「待って、誰のこと?」
「白いハットの女だよ。ストーカー犯はあの人で確定なんだろ」
「お兄ちゃん、何言ってるの」
「へ?」
いつにもまして冷静な妹の声を聞き、翔平は視線を泳がせた。すると、黒いTシャツを着ている大柄な男性の姿が目に飛び込んできた。男性も、のっそりとレジャーシートから立ち上がったところだった。
「あ、じゃああっちの男か? どこかに移動するみたいだ。日菜、行こう」
「あのね、お兄ちゃん──」
「おい、どうするんだよ。早くしないと見失うぞ」
「お兄ちゃん! 落ち着いて。犯人はあの人だよ」
日菜子は前方を指差した。その指の先にいたのは、白いハットの女性でも黒いTシャツを着た男性でもなかった。
桃色のミラーレス一眼レフカメラを片手に持った、野球帽に黒縁眼鏡の女性。彼女の後ろ姿を、日菜子はまっすぐに見つめていた。
「どうして? あの人は、周りに知り合いがいたじゃないか。スマホで写真を撮ってもいなかったし」
「いいから、一緒に見張ってて」
言われるがままに、野球帽をかぶった女性を観察した。女性は相変わらず行儀よく正座したままカメラを構えている。今のところ、特に怪しい様子はなかった。
そのまま、翔平と日菜子は野球帽の女性の監視を続けた。プログラム八番のダンスが終わり、一年生が退場していくと、今度はグラウンドに和太鼓が運び込まれた。
『プログラム九番、応援合戦。赤組の応援団長と、白組の応援団長が、それぞれの組の応援をします。応援席の皆さんも、一緒に自分の組を応援しましょう』
ゆっくりとした声でアナウンスが読み上げられる。
白組の応援団長である千枝航が袴を着けてグラウンドに出てきた瞬間、観客が一斉に拍手を始めた。午前の部のラストに向けて会場の熱気を高めるというのがプログラム順を決めた教師たちの狙いだったとすれば、それは大いに成功しているようだ。さっきまで厳しい顔をしていた日菜子も、顔中をほころばせながら手を叩いている。
まずは赤組の応援が始まった。千枝航と違ってずいぶんと大柄な応援団長が、グラウンドの真ん中に設置された朝礼台へと上る。和太鼓の音が鳴りだすと、赤組の応援団長は、三三七拍子で笛を吹き鳴らし始めた。彼がリズムに合わせて両手を交互に頭上で動かすと、グラウンドに並んだ赤組の六年生たちがその動作を真似る。応援団長はすでに声変わりをしているようで、「フレー、フレー、赤組」という野太い声がグラウンドに響き渡った。続いて、赤組の応援歌を全員で合唱する。流行りの曲の替え歌のようだった。
赤組の応援が終わると、大柄な応援団長に代わって、白いハチマキを頭に巻いた千枝航がグラウンドの真ん中へと進み出た。そのまま助走して、階段を使わずにひらりと朝礼台に飛び乗る。千枝航がすっくと朝礼台の上に立ち上がると、白組の応援席から大きな歓声が上がった。
再び、和太鼓の音が鳴り響いた。「白組ぃぃぃ!」と千枝航が叫ぶと、グラウンドに整列している白組の六年生たちが「オーッ!」と呼応する。舞台で培われた姿勢の良さと他の児童とは一線を画した大物オーラのおかげか、赤組の応援団長よりずいぶん小柄なはずなのに、その迫力はさほど変わらなかった。腹式呼吸をマスターしているのか、声ものびやかだった。声変わり前ではあるが、甲高いわけではなく、耳に心地よい。和太鼓の音にも負けないくらいの大声なのに、割れたりかすれたりすることなく、後方の保護者席にも張りのある声がはっきりと聞こえてきた。
「何これ。……夢みたい」
隣で、日菜子が呆然と呟いた。運動会に潜入したストーカー犯を監視するという緊迫した状況のはずなのに、グラウンドに現れた千枝航の堂々としたパフォーマンスに、すっかり骨抜きにされているようだった。
そんな白熱した応援合戦のさなか、翔平は、保護者席の異変に気がついた。
「おい、あの人……何してるんだ?」
そう囁き、妹の肩をつつく。日菜子は急に表情を引き締め、野球帽の女性へと鋭い視線を投げた。
野球帽をかぶった例の女性は、さっきまで手に持っていたカメラをレジャーシートの上に下ろし、左手の手首にはめている腕時計に視線を落としていた。せっかく千枝航が凜々しい姿を披露しているというのに、グラウンドのほうを見ようともしない。
翔平は首を傾げ、自分の左手首を見やった。腕時計は、午前十一時五十九分を指している。
「プログラム、予定より遅れてるのかな」
「ううん、時間どおり」
「ん? どうして日菜が分かるんだ」
「小学校のホームページに、各応援団長からの手書きメッセージが載ってたの。名前はイニシャルだけになってたけどね。白組の欄には、『プログラム九番の応援合戦では、朝礼台の上に乗って白組を盛り上げます。十一時五十分からの十五分間がぼくの見せ場です』って書いてあった」
「ふうん、そうか」
それにしても不思議だった。日菜子がストーカー犯だと断定しているあの野球帽の女性は、愛してやまない千枝航の今日一番の晴れ姿に見向きもせずに、何を気にしているのだろうか。
「腕時計……時間……最後の運動会……彩ってあげる……」
隣で、妹がぼそりと呟く声がした。
次の瞬間──日菜子が、突然走り出した。
「コウくん!」
レジャーシートの隙間を縫うように駆け、保護者席の前列へと向かっていく。
「コウくん! 逃げて! 下りて!」
保護者席に、日菜子の叫び声が響き渡った。一定のリズムを刻んでいる和太鼓の音の隙間をすり抜けて、日菜子の声がグラウンドに届いたようだった。朝礼台の上で、千枝航が驚いたようにこちらへと顔を向ける。
野球帽の女性が、腕時計から目を離し、日菜子のほうを振り返った。その顔には驚きと怒りの色が浮かんでいた。眼鏡の奥で、目が大きく見開かれている。唇が「どうして」という言葉の形に動いた。
「コウくん、危ないよ! そこから逃げ──」
日菜子がもう一度叫んだ瞬間だった。
大きな爆発音が、耳をつんざいた。
空気の割れるような衝撃音とともに、グラウンドの真ん中にあった朝礼台が一瞬にして見えなくなる。
空高く火花が飛び散り、白い煙がもくもくと立ち込めた。
思わず目をつむり、身を伏せた。ほうぼうから悲鳴が聞こえてくる。風に乗って流れてきた煙にむせ、翔平はゴホゴホと咳をした。
身を屈めた翔平が再びグラウンドの中央へと向き直ったとき、そこには衝撃的な光景があった。
グラウンドで応援をしていた白組の六年生たちが、その場で頭を抱え込み、小さくなって震えている。その手前──破損した朝礼台のすぐ横には、一人の児童の姿があった。
白い着物に紺色の袴を着けた、小柄な少年。
さっきまで元気に応援合戦を率いていた白組の応援団長は、うつ伏せの状態でグラウンドの真ん中に倒れていた。
その頭の周りには、大きな血だまりが広がっている。彼はもはや、ぴくりとも動かなかった。
*
***
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