タレント・須藤凜々花さんが激推ししてくださっている『片想い探偵 追掛日菜子』。
一度好きになったら相手をとことん調べつくす主人公・日菜子のストーキング能力に、驚愕する読者が続出しています。その日菜子のエキセントリックな行動&発言は、「さわり」だけでも十分伝わるのでは…!ということで、今回冒頭部分の無料公開に踏み切りました。
プロローグと、1~5話それぞれの冒頭部分を、1日おきに公開していきます。
〈あらすじ〉
追掛日菜子は、舞台俳優・力士・総理大臣などを好きになっては、相手の情報を調べ上げ追っかけるストーキング体質。しかしなぜか好きになった相手は、殺人容疑をかけられたり、脅迫されたりと毎回事件に巻き込まれてしまう。今こそ、日菜子の本領発揮! 次々と事件の糸口を見つけ出すがーー。前代未聞、法律ギリギリアウト(?)の女子高生探偵、降臨。
ましころいど @mashikoroid
【拡散希望】妻と連絡が取れません。昨日の夕方スーパーに買い物に行くと言って出かけたきり、未だに帰ってきません。書き置きもなく、交通事故や誘拐事件に巻き込まれた可能性も考えられます。妻が無事見つかるまで、四コマの更新はしばらく控えさせていただきます。申し訳ございません。
ましころいど @mashikoroid
【拡散希望】外出時、妻はベージュのシャツワンピースに薄手の白いカーディガンという服装でした。少しでも心当たりがあれば、情報をお寄せください。よろしくお願いします。
*
鼻歌を歌いながらノートパソコンに向かっていると、不意に、「うおお!」という感極まったような声が後ろから聞こえた。
日菜子は首を傾げ、くるりと椅子を回転させて部屋の中央へと向き直った。見ると、夕食後からずっと寝ていた兄がベッドの上で膝立ちになり、目と口を真ん丸に開いて壁を見つめていた。
「お前──もしかして」
感極まったように、兄がぷるぷると全身を震わせる。
「とうとう……この日が来たんだな」
「え、この日って?」
「日菜、やったな! おめでとう!」
「だから何が?」
兄はパジャマのままベッドから降りて、満面の笑みをたたえながらこちらに歩いてきた。相手に賞賛を送るアメリカの大統領みたいに、日菜子のほうに指先を向けてゆっくりと拍手をしている。ちなみに、かれこれ四時間は眠り続けていた兄の頭には、ひどい寝ぐせがついていた。硬そうな黒い髪が、鉄腕アトムみたいに跳ねている。
「克服したんだろ、ようやく。この部屋の壁ってこんなに真っ白だったんだな、すっかり忘れてたよ。ああ、長かった。本当に長かったよ。あれは、日菜が小五のときからだから──」
「あ、違う違う!」
やっと、兄の思考回路を理解した。兄がきょとんとした顔をして、「違うって?」と尋ねてくる。
どうやら兄は、日菜子の追っかけ癖が落ち着いたと勘違いしたみたいだ。この部屋の壁から綺麗さっぱり写真が消えているから、推しがいなくなったと考えたのだろう。
残念ながら──まったく、そういうわけではない。
「あのね、貼る写真がないの」
「貼る、写真が、ない?」兄は腕を組み、眉を寄せた。日菜子の言っている意味が理解できないようだ。
「今の推しはね、『ましころいど』さんなの。知ってる?」
「誰だっけ。聞いたことある気がする」
「顔を出さずにネットで四コマ漫画の連載をしてる人だよ。年齢は非公開だけど、三十代前半くらいじゃないかな。はちゃめちゃな奥さんと、五歳と三歳の息子たちと四人で暮らしてて、家庭内のいろんなエピソードを四コマ漫画にしてるの。それが本当に面白くって! センスが神だし、作画も超癒し系だし、性格が良さそうな感じがぷんぷんするし、もうホント惚れちゃう。しかも、個人でやってるウェブページで連載してて、なんと無料で読めるんだよ! そんなボランティア精神を発揮しなくても、単行本で発売してくれれば私みたいなファンがお布施を投下してたちまちベストセラーになるのにね。私たちはいつだって、推しのATMになりたいと思ってるのにね」
「ああ、そういや昨日電車の中でその話をしてる女子高生がいたな。漫画のタイトル、何だっけ」
「『ましころいど家族』だよ。学校で鞠花に勧められて読んだらハマっちゃってね、もう全部の四コマを五回ずつは読んだかなぁ。五歳の息子ちゃんがトイレに落っこちてお尻がブルーレットで真っ青になっちゃった話とか、超おすすめ! お兄ちゃんも読めば? あ、そういえば、漫画にもぼんやりと出てくるんだけど、ましころいどさんの家は神奈川県内のどこかにあるみたいでね、もしかしたらそのへんですれ違ったことがあったりしてなんてね、考えたりすると胸が苦しくなっちゃってなんていうかもう──」
「はいはい。要は、覆面漫画家だから顔写真がないんだな」
日菜子渾身の推薦コメントは、兄にあっさりぶった切られてしまった。いつもこうだ。もう少し、きちんと話を聞いてくれたっていいではないか。
「あーあ、日菜のストーカー癖がようやく治ったと思ったのに、ぬか喜びだったか。誠に遺憾だ」
「ストーカーじゃなくて追っかけですぅ」
「でも、意外だな。日菜のことだから、たとえ作者本人の顔写真が出回ってないとしても、四コマ漫画そのものを大量にプリントアウトして壁中に貼りそうなものなのに」
「うーん、それはダメだよ」
「なんで?」
「著作権法違反」
「どうしてそこだけ法意識がしっかりしてるんだよ」
「あのね、お兄ちゃん。私、漫画も好きだけど、作者のましころいどさん本人に惚れてるの。その作者の写真が入手できない以上、壁のデコレーションは諦めるしかないの。分かる?」
「だったら、漫画のキャラクター紹介のページでも貼ればいいじゃないか。ドキュメンタリー漫画ってことは、作者本人が主人公なんだろ」
「えー、それは嫌。だって、ましころいどさん、自分自身のことはちょっと冴えない風に描いてるんだもん。私ね、現実世界のましころいどさんは、外見も中身も爽やかなイケメンだと思うの! それをそのまま絵にしたら嫉妬されちゃうから、あえてああいうキャラデザをしてるんだよ。って考えたら、その冴えない姿を壁にぺたぺた貼るなんて失礼にあたるでしょ?」
「正気か? 相手は覆面漫画家だぞ。妄想もそこまでいくと才能だな」
兄は肩をすくめ、気落ちした顔で自分のベッドへと戻っていってしまった。枕元に置いていたスマートフォンを充電器から外し、パスコードロックを外して操作し始める。
日菜子もノートパソコンへと向き直った。ちょうど、『ましころいど家族』の百五十一話目が表示されている。奥さんが砂糖と塩を間違えて誕生日ケーキを焼いてしまい、三歳の息子が大泣きするというエピソードだ。妻と子を取りなす夫の心境が描かれていて、とても微笑ましい。
全二百話を超えるウェブ漫画ではあるが、ハマリだして二日目にして、日菜子はすでに六周目に取りかかっていた。ストーリーや台詞は三周目まででほとんど覚えてしまったものの、ふとした瞬間のキャラクターの表情など、細かな部分を観察し始めるといくら読んでも読み足りない。作者本人の顔写真を拝むことができない分、漫画からましころいどのすべてを読み取ろうと心が燃えてしまうのだった。
「今、ネットニュースを見てるんだけどさ。お前……相変わらずだな」
次の話を読み始めようとしたとき、突然、後ろから兄の声がした。
「ん?」
「事件引き寄せ体質だよ。お前が好きになった推しは、大抵、何かに巻き込まれる。殺人事件の犯人にされかけたり、不倫現場を週刊誌にすっぱ抜かれたり、運動会中にあわや爆殺されかけたりな。ホント、かわいそうに」
──え?
顔から血の気が引いた。慌てて振り返り、「何が起きたの?」と兄に尋ねる。
「今回もなかなかすごいぞ。ましころいどの奥さんが行方不明になったってさ。誘拐じゃないかって、ネットで大騒ぎになってるぞ」
*
金曜日の放課後──日菜子が乗っているローカル線は、女子高生たちの悲痛な叫びに満ちていた。日菜子の高校だけでなく、周囲にある他の高校の生徒も、一様にましころいどの一件を噂しているようだ。
「もう、ホント、ありえないよね。つらすぎ」
目の前で吊り革につかまっている鞠花が、ぶらぶらと上半身を揺らした。その隣に立っている沙紀が、疲れ切った目で頷く。
「どんなにテストが大変でも、部活で嫌なことがあっても、『ましころいど家族』を読んだらほっこりできたのになあ。これからはどうやって気持ちを切り替えたらいいんだろ。生きる気力がなくなっちゃうよ」
「あれ、沙紀、そういえば今日部活は?」
「行く元気がなくなった」
沙紀の返事を聞き、鞠花が驚いた顔をした。文芸部の幽霊部員である日菜子や帰宅部の鞠花と違って、弦楽部に所属している沙紀はほぼ毎日部活に行っている印象がある。合わせ練習がない日でも自主練は欠かさないという沙紀が、午後三時に日菜子や鞠花とともに帰路についているのはなかなかに珍しいことだった。
そんな二人の前で、日菜子は一人座席に腰かけたまま、半ば放心状態で車内の中吊り広告を見上げていた。
無料で読めるウェブ漫画となると、すぐに飛びつくのが高校生だ。日菜子の知る限りでは、クラスのほとんどの生徒が『ましころいど家族』の愛読者だった。つい最近まで内容を読んだことがなかったのは、それこそ、別の推しの追っかけに日々邁進していた日菜子くらいだ。
そんな〝にわかファン〟である日菜子が、今ではましころいどに一番惚れ込んでいて、また間違いなく、クラス中で最も打ちのめされていた。
──奥さんが見つかったらすぐに、連載再開されるものと信じていたのに。
元凶は、今日の午前に更新された、ましころいどのツイートだった。
ましころいど @mashikoroid
妻と先ほど連絡が取れました。家出は妻の意思だったそうです。僕との生活に疲れた、もうやり直せない、と告げられました。幸せに暮らしているというのはどうやら僕の思い違いだったようです。皆様すみません。もう漫画は描かないことに決めました。ましころいど家族は本日をもちまして終了します。
そのツイートが投稿された直後に、ましころいどの個人ウェブページが閉鎖されたという情報が飛び交った。
数学の授業なんかそっちのけで、みんな自分のスマートフォンで情報の収集や交換を始めた。昼休み中も、日菜子は鞠花や沙紀とともに必死になってウェブページへのアクセスを試み続けた。けれど、四コマ漫画が連載されていたURLをいくら叩いても、『ご愛読いただきありがとうございました』というシンプルな文字が表示されるばかりだった。
「奥さんが無事に見つかったのはよかったけどさ、こちらとしてはちょっと煮え切らないというか、納得できないよね。だって、あんなにはちゃめちゃなちぃママを支えてたのは、夫のましころいどさんだよ?」
鞠花が憤慨した口調でまくしたてた。ちぃママというのは、四コマ漫画に出てくるましころいどの妻のニックネームだ。作者であり主人公である夫が『ましころいど』、小柄で元気がありあまっている妻が『ちぃママ』、五歳の息子が『たろー』、三歳の息子が『じろー』。以上四名が、愉快で賑やかな『ましころいど家族』の構成メンバーだった。
「あんなに優しくて包容力のある旦那さんに黙って突然家出するなんて、ちぃママ、ちょっとひどくない? 漫画の中でのわがままは可愛かったし、ネタとして抜群に面白かったけど、現実にこんなことするなんてちょっとがっかり。ツイートでファンに呼びかけてまで奥さんのことを捜してたましころいどさんが本当にかわいそう」
「でも、ねえ。漫画を描いてたのはあくまでましころいどさんだから、もしかすると、自分に都合よく脚色してたのかもしれないよ」
沙紀が顎に手を当てて、思案げに言った。「ちぃママは、漫画の中で変なふうに描かれちゃって、それで腹を立てたのかも」
「そんなことない! 絶対にない!」
日菜子は思わず座席から立ち上がった。ひどく驚いたのか、鞠花と沙紀が上半身を後ろに反らす。
「ましころいどさんはそんな人じゃないよ。自分の奥さんや子どものことを大げさに描いて、家族を傷つけたりするわけない。だって、『ましころいど家族』は、ちぃママや、たろーくんじろーくんへの愛にあふれてたもん! あのましころいどさんが、大切な家族のことを、事実を捻じ曲げてまで笑いものにするはずないもん!」
「日菜ちゃん、自信満々だね」姿勢を立て直し、鞠花が苦笑した。「でも、同感かも。月曜に投稿してた奥さんが行方不明っていうツイートも、今朝の結果報告ツイートも、すごく真面目な書き方だったもんね。私も、ましころいどさんはいい人だと思う」
「そうだよ。だから私、ましころいどさんにはこんなところで挫折してほしくないの。本物の家庭が漫画の中みたいに上手くいかなかったからって、ましころいどさんが漫画を描くことまでやめる必要は絶対にないもん。『ましころいど家族』がノンフィクションじゃなくなっちゃっても、私は読み続けたいよ。私たちが求めてるのは、現実に存在する仲良し家族の実録ドキュメンタリー漫画じゃなくて、ましころいどという漫画家さんが描く、楽しくて可愛い四コマ漫画なの!」
おお、と車内にどよめきが起きる。日菜子の渾身の演説に、周りの高校生が聞き入っていたようだった。思いのほか注目されていたことに気づき、日菜子はぱっと顔を隠して赤面した。
「日菜ちゃんの言うとおり! 『ましころいど家族』を更新する気分じゃないのは分かるけど、何も漫画やめる宣言をしたり、バックナンバーまで全部消したりしなくてもいいよね。ましころいどさんが描く四コマ漫画が大好きな人、この電車の中だけでもこんなにいっぱいいるのに」
日菜子の主張に勇気づけられたのか、鞠花も熱弁をふるった。
胸に手を当てて、日菜子は小さく頷いた。
──このままじゃ、ダメだ。
詳しい事情は知らないけれど、どうにかして、ましころいどには立ち直ってほしかった。
漫画家として。
そして、できれば、夫や父としても。
*
よおし、と息をついて、腰に両手を当てた。腕まくりをして、じっと勉強机の上のノートを見つめる。
すっかり夜は更けて、現在の時刻は深夜二時過ぎだった。明日が土曜日だから気が抜けているのか、兄は部屋の反対側に据えられているベッドに寝転がりながら、携帯ゲーム機でアクションゲームをしている。大学生というのは、みんなこれくらい暇しているものなのだろうか。兄が大学生の標準だとはとても思えない。
その傍らで、日菜子は何時間もかけて、『ましころいど家族』に出てきた台詞やエピソードの中で気になる部分をノートに書き出していた。
公式ウェブサイト上のバックナンバーはすべて消えていた。ただ、いいのか悪いのか、インターネット上には四コマ漫画のスクリーンショットが多数出回っている。日菜子はそれらの画像を一つ一つ確認し、どうしても見つからない話は記憶を頼りにノート上に再現していった。
「たぶん、これで──」
ノートを両手で持ち上げて、赤いペンで印をつけた行をチェックする。
──ヒントは、すべて出そろったはず!
「ねえねえお兄ちゃん、今、暇?」
椅子をくるりと回して話しかける。ベッドに寝転がって携帯ゲーム機を操作している兄は「ああ、うん」と生返事をした。
「じゃあ、私の推理が間違ってないかどうか聞いてほしいんだけど、いい?」
「推理ぃ? あ、ごめん、今ちょっと次のステージ始まっちゃったから──」
「私とゲーム、どっちが大事なの」
「ゲーム」
「ひどっ」
「噓だって。五分だけ待ってくれよ」
兄はそう言って、きっかり五分後に携帯ゲーム機を閉じてベッドから立ち上がった。いつもゴロゴロしているのに、こういうところは意外と律儀だ。
「にしても、今日はノートに向かってずいぶん集中してるなと思ったら、案の定勉強ではなかったわけか」
お前は勉強を始めると五分に一回は集中力が切れるからな──とニヤニヤしながら、兄がこちらに近づいてきた。こんな兄だけれど、学校の成績はそこそこよかったという話だから、定期テストの学年順位がホバークラフト並みに低空飛行している日菜子は何も言うことができない。
「で、推理って? ましころいど関連? あの人、奥さんに逃げられて、もう漫画は描かないって宣言したんだってな。今日もまたネットニュースに上がってたけど」
「うん。だから、家まで行って説得しようと思って」
「はあ? い、家?」
兄が仰け反って、ぱちくりと目を瞬いた。
「お前──確か、『推しに接触しない』とかいうポリシーを掲げてなかったか」
「違う違う。『推しに迷惑をかけない』」
「ほとんど一緒だろ。それなのに、どうして家に押しかけるって発想になるんだ。有名人の自宅に突撃するなんて、迷惑行為中の迷惑行為じゃないか」
「今回は緊急事態だよ! だって、このままだとましころいどさんが漫画家をやめちゃうかもしれないんだから。私ね、こういうファンが全国にたくさんいるってことをきちんと知ってほしいの。ましころいどさんって、本名も顔も勤め先の会社も隠してて、書籍化もしてないからたぶん出版社との付き合いもなくて、ファンとの交流もしたことがないんだと思う。だから作品をこんなに待ち望んでる読者がいるってこともよく分からずに、『もう漫画は描かないことに決めました』なんていう発言を軽々しくしちゃったんだよ。きっとそう!」
「通報されたらどうするんだ」
「ましころいどさんはそんな人じゃないよ! こちらの話も聞かずに警察に電話するような人に、あんな優しくてほのぼのする漫画は描けっこない。きっと、迷惑顔なんかしないで、私の気持ちを真正面から受け入れてくれるはず。神対応か塩対応でいったら、絶対に神対応してくれるタイプだよ。そうに決まってる」
「あーあ。こうなると、お前はもう俺の話なんか聞き入れないもんな」
兄は困ったような顔でガリガリと頭を搔き、「俺はついていかないぞ」と宣言した。直後、「ん? 待てよ」と首を傾げる。
「根本的な問題を忘れてたけど──そもそも、顔も分からない覆面漫画家の住居をどうやって特定するんだ」
「だから、その推理を聞いてほしいって言ってるの」
日菜子はノートを兄に突きつけた。赤い印がついている行を指し示し、読むように促す。
ここ数時間にわたって日菜子が『ましころいど家族』のスクリーンショットを集めてはじっくりと眺めて分析していたのは、四コマ漫画の中にちりばめられた情報から、実在するましころいどの住まいを割り出すためだった。
全二百話を超える『ましころいど家族』の四コマ漫画のうち、三つの話の台詞や設定に日菜子は目をつけていた。
一つ目は、記念すべき第一回の四コマだ。じろーが生まれたことをきっかけに、新しい家探しをするところから物語は始まる。冒頭の語りには、四角い枠で囲まれた『神奈川県某所──』という文字があった。ちぃママが「駅徒歩三分以内の2LDKのメゾネット、家賃十万以内」という厳しすぎる条件を掲げ、それを叶えるためにましころいどが「無理だよぉ」と弱音を吐きながら東奔西走する姿が描かれている。
二つ目は、家族でショッピングに行く話だった。派手で可愛い子ども服を売っている『ママウェイズ』という店に行こうとするのだが、せっかく家から徒歩十五分ちょっとのところにその店が入ったショッピングモールがあるのに「歩くのがだるいから駅直結のところにすべし」とちぃママが言い出す。そこで仕方なく、電車で十分ほど行ったところにある別のママウェイズの店に行くことになった──というところから話が始まっていた。
三つ目は、ましころいどと長男のたろーが、電車を一駅手前で降りて家まで散歩をするというストーリーだった。綺麗に見える富士山の写真を撮ったり、大きな川の上にかかる橋を渡ったりと、身近なところにある風景にはしゃぎ回る長男たろーの姿が微笑ましく描かれている。オチは、長男と仲良く遊ぶ夫に嫉妬したちぃママが、次男のじろーをベビーカーに乗せて家の方向から猛スピードで突進してくるというものだった。
「まず、一つ目の印のところだけど──この第一話目だけで、ましころいどさんの自宅が『神奈川県内』『2LDK』『駅徒歩三分以内』『メゾネット』『家賃十万以内』であることが分かるよね。物件サイトで検索してみたけど、神奈川県全体でも、この条件に当てはまる物件は一握りしかなかった。もちろん物件サイトに載ってるのはごく一部なんだけど、駅チカで家賃の安いメゾネットはやっぱりすごく少ないんだと思う。ってことは、最寄り駅さえ分かれば、探すのは簡単なんじゃないかなって」
「まあ、地道に探し回ればいけるかもな。でも、神奈川県内には電車の駅なんて無数にあるぞ」
「それがね、けっこう絞り込めるんだよ。ここを見て!」
日菜子は椅子から身を乗り出し、二つ目の赤い印を指差した。
「『ママウェイズ』っていう子ども服のお店は、神奈川県内に二十店舗あるんだって。この四コマ漫画では、せっかく家から徒歩十五分ちょっとのところにママウェイズが入ったショッピングモールがあるのに、ちぃママの提案でわざわざ電車に十分乗って、駅直結のお店に行ってた」
「この情報がヒントになるってことだな」
兄の言葉に、日菜子はこくりと頷いた。
「ましころいど家は駅から徒歩三分以内だから、ママウェイズの店舗から最寄り駅までも、だいたい徒歩十五分から二十分と考えられるよね。そうすると、けっこう場所が絞れてくるんだ」
日菜子はマウスへと手を伸ばし、さっき開いておいた子ども服ママウェイズの公式ホームページを呼び出した。兄が横からパソコンの画面を覗き込んでくる。
「まず、神奈川県内のママウェイズの店舗のうち、駅からだいたい徒歩十五分かかるショッピングモールに入っている店舗は、平塚店、藤沢店、綱島店、小田原店の四つ。それから、駅直結の施設に入っているママウェイズの店舗は、みなとみらい店、東戸塚店、辻堂店、横須賀中央店の同じく四つ」
兄がついてこられるように、日菜子は神奈川県の地図上に示された店舗の位置をゆっくりと指し示していった。兄がふむふむと頷き、胸の前で腕を組む。
「で、これらの店舗のうち、電車での移動時間が約十分という条件を満たすのは、平塚店=辻堂店の組み合わせと、綱島店=みなとみらい店の組み合わせの二つのみ。平塚から辻堂は、JR東海道線で二駅。綱島からみなとみらいは、東急東横線とみなとみらい線が直通になって急行で三駅」
「それは、つまり」
兄はパソコンの画面をじっと見つめながらしばらく考え込んだ。
「ましころいどの自宅は、東海道線の平塚駅付近か、東急東横線の綱島駅付近にある……ってこと?」
「そういうこと! お兄ちゃん、意外と頭の回転速いね」
「万年赤点のお前にだけは言われたくない」
兄はそう吐き捨ててから、「平塚と、綱島か」と天井を仰いだ。
神奈川県の南、相模湾に面する平塚市と、横浜市港北区内にある綱島。この二つでは、土地の雰囲気も都心からの距離も全然違う。ましころいどがサラリーマンとして都内に通勤する兼業漫画家であることを考えると綱島のような気もするし、家賃の安さを考えると平塚に軍配が上がりそうだ。両方の駅を見に行ってしらみつぶしに探すことも不可能ではないけれど、同じ横浜市内の綱島はともかくとして、平塚は少々遠い。できればどちらか確定させておきたいところだった。
「その二択なら、簡単に分かりそうなものじゃないか? 都会っぽいか郊外っぽいかとか、何かしら漫画の背景に現れるだろ」
「それがねえ、そうでもないの。ましころいどさんの絵、見たことある? 全体的に線が少なくて、背景もほとんど描き込まれてないんだよね。あえてぼかしてるのか、そういう絵柄なのかは分からないけど」
「じゃあ、ツイッターでの発言内容はどうだ? SNS分析はお前の得意分野だろ」
「もちろん全部チェックしたよ。でも、家の周りの写真は一切載せてないし、神奈川県内の具体的な場所を示すようなヒントは全然なかった。位置情報がついてるツイートもなし」
「ふうん。けっこう徹底して隠してるんだな」
兄は感心したように目を細め、「でも、まだヒントはあるんだろ」と手元のノートに目を落とした。
「うん。そこで目をつけたのが、三つ目の赤い印──隣駅から最寄り駅まで歩いたときの、周りの風景。この話には、富士山をバックに写真を撮るコマと、大きな川にかかる橋を渡るコマがあるの。建物とか標識は曖昧に描かれてるけど、富士山と川だけはしっかりと描かれてる」
「よく読み込んでるなあ。富士山が見えるスポットと大きな川が近くにあれば特定完了ってわけか」
日菜子はブラウザ上で別のタブをクリックし、今度はグーグルマップを表示した。
「でね、平塚と綱島それぞれの地形を調べてみたんだけど──」
地図上の水色のラインを一つ一つ指でなぞりながら、日菜子は兄に丁寧に説明していった。
「平塚駅付近には、上り方面の茅ケ崎駅との間に相模川、下り方面の大磯駅との間に花水川って川があるみたい。で、綱島駅の周りには、下り方面の大倉山駅との間に鶴見川があるの。上り方面の日吉駅との間には何もなかったんだけどね」
「意外と川だらけだったか。でも、大きな川ってことは、相模川と鶴見川が有力じゃないか?」
「私もそう思って、茅ケ崎・平塚間と、大倉山・綱島間に照準を絞ったんだ。だけど、ちょっと調べた感じ、どちらも場所によっては富士山が見えるらしくて……決め手がないんだよねぇ」
日菜子はそっとため息をついた。ヒントを書き出して、候補を平塚と綱島の二つに絞り込んだところまではよかったのだけれど、ここから先に進めずにさっきからずっと唸っていたのだった。
「いやいや、それなら簡単だろ」
兄がきょとんとした顔で言う。日菜子は思わず「へ?」と間の抜けた声を出した。
「もしかして──お兄ちゃん、分かったの?」
「ああ、たぶんな。日菜がここに描いてる大まかな四コマの図だけどさ、進行方向に対する富士山の配置は合ってるか?」
ノートの中を指差しながら、兄が尋ねてきた。覗き込むと、日菜子が簡単に写した四コマ漫画の中では、歩いている方向に対して左側に富士山が描かれていた。「合ってるはずだけど」と答えると、兄は得意げな口調で「なら簡単だ」と断言した。
「茅ケ崎も平塚も、神奈川県の南の端──相模湾に面する土地だろ。昔は江戸と京を繫ぐ道を東海道と言ったが、まさにその道を下り方面に歩くことになる。神奈川県の南の端を、相模湾に沿って東から西へ歩いたとき、富士山が見えるのはどっちだ?」
「左は太平洋だから……右側かな? それか、真正面?」
「そのとおり。反対に、大倉山から綱島は上り方向だから、横浜市内を南から北へ歩くことになる。神奈川県内で北に向かって歩く場合、静岡と山梨にかかる富士山が見える方向は──」
「左だ!」
日菜子は椅子から飛び上がった。「お兄ちゃん、すごい! やるじゃん! ありがと!」と、兄の手を強く握ってぶんぶんと振り回す。
「ましころいどさんが住んでるのは、綱島だったんだね。私たちと同じ横浜市だったなんて嬉しい! 明日、さっそく行ってくるね」
「くれぐれも警察に捕まらないようにな。あくまで正攻法で行ってくれ。ましころいどと話すのは、きちんとドアチャイムを鳴らして、相手が応対してくれた場合のみだぞ。上手くいかなかったときは、すぐに帰ってこい。あと、勝手に郵便物を漁らないこと。ベランダからの不法侵入も禁止だ」
「分かってる」
兄は、最近寛容になったように思う。運動会の一件で、追っかけにすべてを懸けている日菜子の気持ちをちょっとは理解してくれたのかもしれない。
「じゃ、おやすみなさい」
日菜子は兄の背中を押してベッドへと戻し、放り出されていた携帯ゲーム機を持たせてから、自分のスペースへと戻った。「おやすみ」と兄に向かって手を振り、部屋の真ん中を仕切るアコーディオンカーテンを閉める。
明日は、忙しい一日になりそうだった。
*
土曜日の昼下がり──日菜子はすっかり疲れ切って、綱島駅近くの不動産屋前に佇んでいた。
気合いを入れて七センチヒールの真っ赤なサンダルを履いてきてしまったせいで、足先が痛かった。額には汗が伝っている。一時間以上かけたメイクが崩れないか、さっきからずっと気になっていた。
「おかしいよ。どうして……」
手元のスマートフォンに目を落とす。不動産屋という不動産屋は回ったし、それでも諦めきれずに綱島駅から半径二百四十メートル圏内にあるメゾネットタイプの家を三時間以上は探し歩いた。しかし、捜索結果は、「駅から徒歩三分以内のメゾネット? 2LDKで家賃十万以内? そんな破格の物件は聞いたことないな」「2LDKのメゾネットとなると、駅徒歩十分以上のところでも十三万はするからねえ」という不動産屋の言葉を裏づける結果となってしまった。
そんな家は、どこにも見つからない。
──もしや、綱島ではなかった?
嫌な予感が胸の中でくすぶる。
次の瞬間、手に持っていたスマートフォンが震え始めた。『お兄ちゃん』という表示を見て、即座に通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『ああ、日菜。どうだ、見つかったか』
兄ののんびりとした声が聞こえてきた。「どうもこうもないよぉ」と日菜子は情けない声を出す。
「全然ダメだった。横浜のこのあたりでそんな条件の家があるわけないって言われちゃった。一軒くらい、お値打ち物件があってもおかしくないのに。昨日の推理、どこか間違ってたのかなぁ」
『そうか、やっぱり』
兄はまったく驚いた様子がなかった。まるで、こうなることを予想していたみたいだ。
「やっぱりって──何?」
『いやあ、ちょっと気になって調べてみたんだけどさ。実は茅ケ崎・平塚間にもあるらしいんだよね。富士山が左手に見える場所』
「え?」
『南湖の左富士っていうらしいよ。茅ケ崎から平塚に向かって歩くときは、途中ずっと国道一号線を通るんだけど、鳥井戸橋っていうところで、その道がぐっと北西に向かって折れ曲がってるんだって。江戸から京都に下る東海道で、珍しく進行方向左手に富士山が見える場所──ってことで、歌川広重が東海道五十三次の名所として浮世絵を描き残したくらい有名な景勝地なんだってさ』
「ってことは」
『うん。四コマ漫画の舞台になっていたのは、この場所の可能性が高い。きちんと記念碑も立ってるフォトスポットらしいしな』
ごめんごめん、という笑い声が電話の向こうから聞こえた。
「それ、もっと早く知りたかったよぉ」
『しょうがないだろ、ついさっき起きたんだから』
「寝すぎ! 私なんて朝から四時間は歩き回ってるのに!」
『そんなこと言われても、なあ。昨夜は日菜だって納得してたじゃないか。文句を言うならもう少し神奈川の地理を勉強してからにしてくれ』
「だって、道が北西に向かって曲がってる場所があるなんて、知るわけないよぉ」
兄に向かって愚痴を垂れ流しながら、日菜子は大急ぎで綱島駅の改札へと駆け込んだ。
東急東横線で横浜駅まで出て、東海道線に乗り換えて四十五分。およそ一時間かけて、日菜子はようやく平塚駅へと辿りついた。
駅のそばにある不動産屋に飛び込んで、暇そうなスタッフに片っ端から聞き込みをした。綱島ではまったく手がかりがなかったのに、「このへんにメゾネットがいくつか建ってるよ」「この前部屋の空きが出ていた物件かな。今の家賃は十一万だけど」など、有力な情報がいくつか集まった。『ましころいど家族』から読み取れるおおよその間取りを伝えると、さらに候補が絞り込まれた。
物件を借りるはずもない女子高生にも丁寧に接してくれたスタッフに礼を言ってから、日菜子はスマートフォンを手に街へと走り出した。
有力なのは、平塚駅南口ロータリーからすぐの場所だった。駅ビルや銀行が立ち並ぶ東口とは違って、少し歩けばすぐにちょっとした住宅街だ。メゾネットタイプの建物も横浜市内より多かった。
先ほどの聞き込みで最も可能性が高いと判断した三つの物件は、いずれもこの近くにあった。日菜子は手元のスマートフォンでグーグルマップを立ち上げ、メゾネットタイプの物件を一つずつ回っていくことにした。
一軒目は、比較的新しそうなベージュの建物だった。
駅チカのわりに広そうで、なかなか住みやすそうな家だ。
二階には広いベランダがある。一階部分には茶色い玄関のドアが三つついていて、それぞれ表札が掲げられていた。
「あれ?」
真ん中の家の前で、思わず目を留める。
──ずいぶんと、分かりやすい。
表札に書かれた二文字をじっと見つめ、日菜子は立ち止まったまま思案した。
あたりを窺って人がいないことを確認してから、そろそろとインターホンの脇に立っている郵便ポストへと近づく。受け口を人差し指で押し開けると、レディースファッションの通販のカタログが中に入っているのが見えた。宛先は、『益まし子こ七なな海み様』となっている。
──ビンゴ!
四コマ漫画の中にも、ちぃママが通販のカタログを見ながらあれこれと悩むシーンがある。推測するに、七海というのは、おそらく家を出ていってしまった妻・ちぃママの本名だった。
候補の筋がよかったとはいえ、一軒目で見つかるとは運がいい。
ゆっくり深呼吸をしてから、恐る恐るインターホンを押した。数秒の後、『はあい』というのんびりとした女性の声がスピーカーから聞こえてきた。
──ん? 女性?
ちぃママだろうか。
いや、そんなはずはない。彼女はすでに出ていったのだ。
少々混乱しながらも、『旦那様はご在宅ですか』とよそゆきの声で尋ねた。『主人ですか? はいはい』という声がして、通話がいったん途切れた。
そわそわしながら待っていると、ガチャリと音がして玄関のドアが開いた。出てきた人物を見て、目を丸くする。
ドアの向こうに立っていたのは、茶色のニットベストを着た白髪のおじいさんだった。
「え」思わず絶句する。「あの、益子さんですか?」
「はい、そうですが」
──このおじいさんが、ましころいどさん?
パニックになりそうになってから、いやいや待て待て、と自分に言い聞かせる。
たぶんこれは、こういうことだ。
ましころいどは、実は、自分の両親と同居していた。目の前のおじいさんがましころいどの父で、さっきインターホン越しに話した女性がましころいどの母。
つまり、ましころいどは、四コマ漫画に出てくる登場人物の数を実際よりも絞っていたのだ。本当は六人家族だったのを、四人家族ということにして漫画に描いていた。
ということは──。
「すみません、間違えちゃいました。息子さん、いらっしゃいますか」
「ん? 娘ならいるけども」
「娘さん?」また頭が混乱する。「ああ、えっと……七海さんですね」
「今呼んでくるから」
日菜子の反応もろくに見ずに、白髪のおじいさんは家の中へと引っ込んでしまった。どこかの窓が開いているのか、「七海、お客さんが来ているよ」というおじいさんの声が聞こえてくる。
すぐに、パタパタと階段を下りてくる音がして、玄関のドアが再び開いた。
出てきたのは、小柄な女性だった。ジーンズにパーカーというカジュアルな格好で、縁が茶色い眼鏡をかけている。年齢は、三十代前半くらいに見えた。
「あの」相手が口を開く前に、日菜子は問いかけた。「益子七海さん、ですよね。ましころいどさんの奥さんの」
女性は眼鏡の奥の目を丸くした。ましころいど、という単語を日菜子が口にした瞬間、彼女の肩がぴくりと動いたのを日菜子は見逃さなかった。
「そ、そうですけど」
大人しそうな女性が、目を逸らしておどおどと言う。
四コマ漫画で描かれるちぃママとは、外見も性格も、だいぶ異なるようだった。
もしかすると、自分に都合よく脚色してたのかもしれないよ──という沙紀の発言を思い出し、そこはかとない不安に襲われる。
「突然押しかけちゃってすみません。ちょっと、ましころいどさんにお話ししたいことがあって。今、いらっしゃいますか」
「あの」益子七海が困ったような顔をした。「ご存知かもしれませんけど、今、夫とは一緒に住んでいないんです」
「住んでいない?」日菜子は思わず目を瞬いた。「あの……ここって、ましころいどさんのご自宅ですよね? ましころいどさんのツイートだと、奥さんが家を出ていったとありましたけど……違ったんですか?」
恐る恐る尋ねると、「実は、逆なんです」という消え入りそうな声が聞こえてきた。
「この家には、入居したときからずっと、私の両親が一緒に住んでいるんです。だから、実の娘の私がここを去るっていう選択肢はなくて」
「家を出ていったのは、ましころいどさんのほうだったってことですか?」
「はい。息子二人も、夫が連れていきました」
益子七海の答えを聞き、日菜子は足から力が抜けていくのを感じた。
──ここに、ましころいどさんはいない。
今日一日の日菜子の頑張りは、すべて、無駄だったのだ。
「じゃあ、誘拐とか、事故の可能性があるっていうのは──」
「噓です。そんな事実はありません。妻と別居したなんてことをいきなり書いたら信じてもらえないから、少し話を大きくしたかったんじゃないでしょうか。自分ではなく妻が出ていったことにしたのも、便宜上そうせざるをえなかっただけだと思います。本当は、夫婦できちんと話し合いをして、別居を決めたんですよ」
「そんな……」
「夫が突然あんな騒動を起こしてしまって、ファンの皆さんにも申し訳ないです」
日菜子はがっくりと肩を落とした。ましころいどが噓をついていたなんて、信じたくなかった。ああいう漫画が描けるということは、優しくて思いやりがあって、正義感のある人だと思っていたのに──。
日菜子がこぶしを震わせている間、目の前に佇んでいる益子七海はじっと目を伏せていた。その悲しそうな顔を見ているうちに、じわじわと熱い思いが込み上げてきた。
「七海さん──いえ、ちぃママは、ましころいどさんのことが嫌いですか」
「え? それは……まあ、悪い人ではないですけど」
「だったら、もう一度やり直せませんか。ちぃママとましころいどさんとの間に、何があったかは知りません。でも、あの漫画を読んでいれば分かるんです。ましころいどさんが、何よりも家族を大切にしていて、ちぃママや息子さんたちを心から愛しているってことが。だから、仲直りできませんか?」
「それは無理です。ましころいどとの関係は──夫がツイッターで発言していたとおり、もう終わってしまいましたから」
「お願いです。だったら、ちぃママの口から、ましころいどさんを説得してもらえませんか。ましころいどさんが描く漫画が大好きな人たちが、世の中にはたくさんいるんです。それなのに、漫画を描くこと自体をやめてしまうなんて、もったいないです。私たちファンは、悲しい気持ちでいっぱいです。そう、ましころいどさんに伝えてもらえませんか」
面食らった顔をしている益子七海に向かって、日菜子は懇願の言葉を並べ立てた。
しかし、同時に──日菜子の頭の中では、ある疑問が首をもたげた。
──もしかして。
胸が締めつけられる。
少し考えただけで、いくつかの違和感が、みるみるうちに繫がっていった。
──やっぱり、そうとしか考えられない。
気づいてしまった以上、無視することはできない。だけどそれは、どうしても信じたくない事実だった。
ドクドクと波打っている心臓のあたりを押さえ、ゆっくりと気持ちを落ち着けた。
覚悟を決めてから、日菜子はゆっくりと顔を上げた。
「突然押しかけた上に、こんなお願いをしてごめんなさい。でも、私だけじゃなくて、多くの読者が待っているんです。毎日毎日、最新話の更新をずっと楽しみにしてたんです。お願いします。何も、『ましころいど家族』じゃなくたっていいんです。フィクションとかノンフィクションとかは関係ありません。別の漫画を新しく考えて発表してくれたら、それでファンは喜びます。ましころいどさんが描いた漫画に支えられて生きている人たちが、世の中にはたくさんいます。私もそのうちの一人です。ましころいどさんが心を込めて描いた漫画なら、何でも応援します。どうしてもこのことを伝えたくて、今日はこんなところまで追いかけてきてしまいました」
日菜子は一瞬言葉を切って、益子七海の顔を真正面から見つめた。
「七海さん。これ、私、ちゃんと気づいた上で言ってます。あの──」
そして日菜子は、一つ質問をした。
益子七海は一瞬目を見開いて、ぽろぽろと大粒の涙を流した。
***
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