「ジャーン。これや、これやぁ! いただきますぅー」
大部屋の病室のベッドの上で周囲もはばからず、母は折箱のフタを開けて大はしゃぎだった。夫が来られなくなったので、私はその日のうちに母の見舞いに来た。差し入れは何がいいかと聞くと、母は5千円の神戸牛ステーキ弁当をリクエストしてきたのだった。
「いいの? こんな脂っこいもの食べちゃって」
「内臓と骨折は関係ないでんか」
20年前、一家で淡路島(あわじしま)を出て横浜に引っ越した時から、淡路弁を直そうとする気などまったくない母だった。夫からの見舞金が入った封筒を渡すと、遠慮もせず受け取り、さっそく中身を確かめた。えげつない関西のオバチャン気質丸出しである。
「アンタもええ旦那(だんな)つかまえたなあ。不景気とか関係あらへんのか、外車ディーラーいうて?」と、肉厚のA5ランク牛を頬張りながら母が聞く。
「なんかよく分かんないけど、顧客がお爺(じい)ちゃんばっかりだから」
「ああ、ようけ貯め込んどる死に損ない、いうことか!」
同室の老人たちに聞こえるように、わざと大きな声で言う。かと思うと、急に声をひそめて「死相(しそう)が出とるわ。もうあかんな、あの人」と窓際で酸素マスクを付けている入院患者を指差した。
「やめてよ……」
「ああ死神もおる」と、付き添いの男性を目で示す。「見てみ、旦那か死神か分からへんで」
病床の奥さんにご飯を食べさせてあげている優しそうな旦那さんのことまで、そう切り捨てる。どうしてここまで口が悪くなれるのか。
話題を変えたくなった私は「で、お兄ちゃんは?」と聞いた。
「相変わらずや。ほんまにもう、ええ歳(とし)して何しよんねん、あのアホは。最近な、またモーニング娘に戻ったんよ。原点回帰(げんてんかいき)、とか言うて」
5つ上の兄の慎二(しんじ)は、いわゆるオタクだ。結婚もせず、実家住まいのまま、アニメとアイドルばかり追いかけている。
「もう死んでほしいわ、ほんま!」
病室で死ぬとか死ねとか言わないでよと思ったが、確かに、あの兄にはそれくらい言っても言いすぎじゃない気がする。
「あんた、体、大丈夫なんか? 痩やせてへんか。大丈夫か」
今度は急に優しい声になってそう言う。コロコロ話題を変えて、いちいち感情の起伏が激しくて、本当にせわしない人だ。子供の頃は兄ばかり可愛がっていたが、今は私に優しい。
「大丈夫よ」
私も思わず頬(ほお)が緩んだ。骨を折ったぐらいじゃへこたれない、元気で口の悪い、いつもの母だった。ひとしきり母の愚痴(ぐち)と悪態(あくたい)を聞いて、私は病室を後にした。
病院の廊下を歩くのは気分のいいものじゃない。最近の病院は明るくきれいになってはいるけれど、それでもショッピングモールを歩くように楽しいものじゃない。意識不明の急患がストレッチャーで運ばれていったり、辛そうな顔、暗い顔を見ることになる。母もいつかは、憎まれ口を叩くこともできなくなる日がくるのだろう。そして、いずれ私や夫も……。そんなことをつい考えてしまう。生きるって何なのだろう。どうして人生の最後には暗い影の時間が待ち受けているのだろう。
中央のエレベーターに向かって歩いていると、バタバタと、若い医師と看護師が駆(か)けてきて私を追い越し、その先の病室に入っていった。「大丈夫ですか!」という看護師の声と、女性の悲鳴のようなものが聞こえる。
開け放たれたドアから中を覗(のぞ)くと、ベッドの上で激しくのたうち回る女性を看護師たちが押さえつけ、医師が注射を打とうとしているところだった。患者はまだ若い、私と同じくらいの年齢に見えた。
「アアアアアアーッ!」
物凄(ものすご)い絶叫。恐ろしい苦痛が彼女を襲っているに違いない。直視できないような光景だったが、戸口に立った別の医師と看護師は、冷静な表情で何か事務的な会話を交わしていた。病院とはこういうところだ。
顔を伏せて通り過ぎようとした時、チラリと病室のネームプレートが目に入った。
「伊藤芹香」という4文字に、私はハッとした。まさか……。
※こちらは『SUNNY 強い気持ち・強い愛』(黒住光著)の試し読みです。続きは、9月6日公開予定です。
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SUNNY 強い気持ち・強い愛
笑おう、あの頃みたいに――。珠玉の90年代J-POPと超豪華キャスト陣の競演で贈る、最強の“笑って泣ける青春映画”。自分らしく生きるって、楽しんで生きるって、そういえば、こんな気持ちだったんだ……