「自由」は考えることによってしか手に入らない
その大切なものとは「自由」である。私たちは考えることによってはじめて自由になれる。考えることは、自分を縛りつけるさまざまな制約から自らを解き放つことである。
世の中のルール、家庭や学校、会社での人間関係、常識や慣習、自分自身の思い込み、さまざまな怖れや怒り、こだわりから、ほんの少しであっても距離をとることができる。それが私たちの生に自由の余地を与える。私たちが考えるのは、考えなければならないのは、私たちにとってもっとも大切な自由を得るためである。
考えるなんて、いつもやっている、自分はじゅうぶん自由だという人もいるだろう。牢獄につながれていても、思考だけは自由だ。そんな考え方もある。あるいは哲学好きな人であれば、人間にはそもそも自由なんてないんだ、それは幻想なんだ、という人もいるだろう。しょせん理想にすぎないという人もいるだろう。
だが、私がここで言いたいのは、そういう当たり前のことでもなければ、幻想や理想に追いやってしまえるようなものでもない。きわめて具体的で身近な問題であって、まさしくすべての人に、子どもにも大人にも、人生の最初から人生の最後まで関わることである。
私が「考えること」を通して手に入れる自由を強調するのは、現実の生活の中では、そうした自由がほとんど許容されていないからであり、しかもそれは、まさに考えることを許さない、考えないように仕向ける力が世の中のいたるところに働いているからである。だから、自由になるためには、「考えること」としての哲学が必要なのである。
そんなことができるのかと思うかもしれない。たしかにただやみくもに考えればいいわけではない。一人だけで頑張っても、途中で力尽きるだけだろう。しかし、共に考える「対話」としての哲学には、それが可能なのである。しかもそこでは、一人で勝手に自由になるのではなく、他の人といっしょに自由になることができるのだ。
これで本書のテーマ「生まれてから死ぬまで、いつでも誰にでも必要な哲学」を始める準備が整った。このあと第1章では、哲学対話で言われる哲学がどのようなものか、その特徴について述べ、対話のルールの意味を説明する。第2章では、このような哲学の存在意義として、先に述べた「自由」についてより詳しく説明し、「他者と共に自由と責任を取り戻す」という目的を提示しよう。続いて第3章では、哲学対話について、「問うことと考えること」「考えることと語ること」「語ることと聞くこと」に分けて述べていく。第4章では、哲学対話の場の作り方、ファシリテーションの仕方と注意点を具体的に説明するので、自分でも「哲学すること」を実践してみてほしい。
(次回に続く)
考えるとはどういうことか
対話を通して哲学的思考を体験する試みとしていま注目の「哲学対話」。その実践からわかった、考えることの本質、生きているかぎり、いつでも誰にでも必要な哲学とは?