「シャーデンフロイデ」、それは他人を引きずり下ろしたときに生まれる快感のこと。インターネットやテレビのワイドショーなどで、最近よく見かける光景かもしれませんね。
脳科学者の中野信子さんは、この行動が脳内物質「オキシトシン」と深く関わっていると分析します。なぜ人は「妬み」という感情をおぼえ、他人の不幸を喜ぶのか? その謎に迫った『シャーデンフロイデ』より、一部を抜粋してお届けします。
一石を投じたテレビCM
ACジャパンのテレビ広告「苦情殺到! 桃太郎」が、いっとき話題となりました。昔話の「桃太郎」のストーリーをパロディ化した広告です。
オリジナルの桃太郎は、「おばあさんが川で洗濯をしているところに大きな桃が流れてきて、それを拾って持って帰ったら、そこから元気な男の子が生まれた」というエピソードからスタートします。
ところが、その広告では、おばあさんが流れてきた桃を拾うと、その瞬間から批判の嵐に晒さらされます。
「窃盗だろw」
「懲役何年?」
「ていうか、川で洗濯するなよ」
「謝罪会見マダー?」
このような、ネットならではの批判が次から次へと浴びせられ、びっくりしたおばあさんは、どうしていいかわからずに泣き出してしまうのです。
この広告が流されてすぐに、当のネットでは賛否両論噴出しました。
「心に刺さった」「よくできた広告だと思う」「本当に、こういうことはやめなくては」といった賛同意見がたくさんあった一方で、主に次のような反論も寄せられました。
「言論圧殺である。とくに、適切な批判を封殺しかねない」
「批判する側を、批判される側に回そうとする意図が感じられる」
こうした反応を見ていて、もはやこの問題は一種の無限ループに入ってしまっているのだと感じました。
二元論でしか考えられない人たち
ACジャパン側の意図としては、おそらく「むやみに正義を振りかざして人を叩くのはやめよう」と訴えることが目的だったのでしょう。話題になったことからも、ある一定の効果はあったと評価してよいと思います。これもまた、圧殺されてはならない一つの意見として尊重されてよいものです。
しかしながら、正義に訴える快感に貪欲なある種の人たちには、その広告自体が「正義を振りかざして意見している」ように見え、まるで合わせ鏡のように、正義を行使し続け、行使され続け、その価値は膨れ上がり、もはや止めることが難しいところまで来ているのかもしれません。
このACジャパンの広告に限らず、ネットではあらゆる事案に対して自由に意見が交わされます。
その自由さは魅力的ですが、なぜか、何事につけ「右派か左派か」「賛成か反対か」「進むか戻るか」といった二元論で語られていく風潮があります。そこでは、「あなたはどう考えるか」ということよりも「あなたはどちらのグループに入るのか」が問われているようです。
ネットの論戦には、いわゆる「論客」と言われるような人たちが意見を戦わせているものも多く見受けられます。
ところが、そうしたものを一歩引いて客観的に読んでみると、実は内容のあるやりとりにあまりなっていないことが多いのです。
「自分こそが正しい」からの脱却を
双方が自分のアイデンティティを確認する作業に夢中になっており、相手の言っていることを理解したら負け、とでもいわんばかりに、ただの言葉の応酬を単調に繰り返しているようです。
まるで「正義」側により近いのは自分だ、とマウンティング合戦をしているようにも見えてしまいます。互いに傷が深くなるだけで、時間をかけたわりには建設的な内容が導き出せていないようでもあります。
このようなことが起きるのは、「自分こそは愛と正義によって行動している」という確信が双方にあるからかもしれません。
となれば、「相手がなにか教えてくれるかも」という期待を抱く余地は互いに最初からないことになります。「間違っている相手に正義を教えてあげるのは、愛ある私の使命だ」とさえ、極論すれば思ってしまっているのかもしれません。いわゆる「聞く耳を持たない」状態と言えます。
最初から愛などというものを持たない、たとえばサイコパスなら、一円たりとも自分の利益に結び付かないやりとりに、時間を費やすというバカバカしい選択肢は選びません(知名度を上げれば収益に結びつくなど、利益が上がる場合は別ですが)。愛と正義に基づいているからこそ、情熱をもって、相手にその偏った倫理観を理解させようと、際限なく無駄な努力を続け、利他的懲罰を行うためだけに、延々と無意味な労力を費やすことができてしまうのかもしれません。
そして、そうした「愛と正義」、つまり倫理的であるということについての認知の歪みから、戦争が始まってしまうことさえあるのです。