『銀河食堂の夜』のこと
30年ほど前、角川書店の「野性時代」に同題の連作短編を書いた。『銀河食堂の夜』というタイトルは僕が賢治ファンであることを知っていた編集者からの提案だった。当時「小説」を書く意識が希薄で小説としてはかなり雑なものだった。そのことはずっと気になっており、最近改めてこの物語を書き直したいという欲求が湧いて「小説幻冬」に隔月連載で書かせて貰った。舞台の葛飾区四つ木は中学時代を過ごした愛着のある町だが、物語と今の四つ木とは大いに様子が違う。心の中に在る故郷のようなものだ。勿論四つ木に『銀河食堂』は実在しないが、万一この店にふと「行ってみたい」などと思っていただけたなら、ありがたきしあわせ。
さだまさし
「ヲトメのヘロシ始末『初恋心中』」『銀河食堂の夜』第一話 試し読み
下町の人情のまだまだ残る、葛飾は京成四ツ木駅にほど近い四つ木銀座の中ほどに小さな飲み屋があります。
あの震災から二年ほど経った年の、普段より遅い桜も散り終え、露地の花水木が満開の頃に忽然とその店が現れました。
その店の名は「銀河食堂」。
ええ〝銀河鉄道〟じゃなくて「銀河食堂」。
しかも食堂なんかじゃありません。スタンドバーなのに居酒屋なので。
この、チョイと面白いような、ふざけたような名前をつけたヤツぁ一体どんな野郎だというので、この辺りの商店主達が何人かで亭主の器量を測ろうと飲みに来て、そのまますっかり気に入ってしまったような塩梅で。
それで馴染みになってみると実にこの、よろしいので。
何がよろしいのかと申しますと、酒に肴、コの字に亭主を囲むカウンターの幅の広さ高さから椅子の高さ、店の中の明るすぎも暗すぎもしないという照明の具合。店の奥の角に大切そうに飾られている本物のチェロと、L字形の木のフックに吊り下げられた太い弓の醸し出す味わい。壁に掛けられた時代がかった柱時計の音色に、九人も座れば一人は立つ羽目になるというその店の広さから、六十でこぼこといった歳の亭主の、まるで昭和の頃のスタンドバーのマスター然とした、眼鏡の趣味から蝶ネクタイに渋い色のチョッキを羽織った品の良い物腰に無駄口の少なさまで。とにかくもう、何もかもがよろしいので。
この店には幾つも謎がある。
まずは、いつの間にかみんながマスターと呼ぶようになった亭主の経歴。
他人の経歴なんぞ聞くのは野暮だけれども、何となく気になって皆それとなく水を向けるが、マスターは自分のことは余り詳しくは話しません。
高倉健とまでは言わないが、苦み走った好い男で、インテリぶらないインテリで、時折ひょいっと見せるどことなく翳のある笑顔なんぞ、もしやこの人、元はその筋の人ではないかしらんと思わせるような奇妙な歯触りがある。
また、日に一度か二度ほど、どこで調理するのだか分からない大皿に盛った煮物や焼き物を五種類ほど運んできてカウンターに並べ、ちらほら小用を足してはすぐにいなくなる「お母さん」と呼ばれる、無口な、八千草薫とまでは言わないけれども小綺麗で小柄な女の人があって、これがまた謎だ。
他人の事情なんぞ分からないが、マスターの年格好からして母親と見るにはやや若すぎるようだし、かといって女房と見るには歳が離れすぎてるようでもある。
考えれば、幾ら都心から外れた葛飾の四つ木といっても、今時そこそこの店を張るにはそれなりの資本だって要るし、どう見ても常連達が入れ替わり立ち替わり、それでも一日十人ほどしか客のない店をどうやって回しているのだか、それに一体どういう事情でこの町を選んだのだか。とまあ、謎が謎を呼んで、それでもわざわざ自分達の生まれ育った四つ木を選んで来てくれたのだ、と思えば下町育ちのお節介な連中は結構嬉しいので。
従ってこの店の常連は、みな互いに幼なじみという町内の商店主やら、学校が同じだといった地元育ちのきさくな連中ばかり。
それぞれ自分の仕事が終わりますとなんとなくこう、ゆるゆるとこの店に集まって参ります。
*
フリの客と見える四人が既に仕事帰りの一杯で心を満たし、美味しい食べ物で腹も満たしまして、ようよう席を立ちかけようというところ。
そこへ今日も今し方、待ち合わせたかのようにやってきたのは幼なじみの二人です。
壁の大きな柱時計が良い音色で九時半の鐘を一つボオン、と打ったところ。
「この辺りで独り暮らしのお婆さんが亡くなって、十日くらい前に見つかったろ?」
おしぼりでせわしなく手を拭きながらそう尋ねたのは、今年商店会の会長を押しつけられた、と誠に迷惑そうな蕎麦屋「吉田庵」の五代目、吉田輝雄。歳は三十九で仲間内の渾名はテル。
吉田庵の売りは〝十割蕎麦〟で、何でも信州安曇野の常念岳の麓の蕎麦農家と提携して、無農薬で育てたものしか使わないそうで。最近〝何とか散歩〟でお笑い芸人にテレビで紹介されて以来、客も増えた様子。
「聞いたよ。妙な事件じゃなきゃいいけど」
そう答えているのは、輝雄とは木根川小学校からの幼なじみで菅原文郎。
コンピュータ管理会社の修理部門にいるのだそうで、肝心なことより余計なことの方に興味があるヤツだと周りは言う。九州のクライアントに頼まれて毎月修理に行くらしいが、仲間に言わせると『毎月修理するってのは修理してない証拠』なのだそうで、あまり頼りにされてはいないけれども、小学校からのムードメーカーで渾名はブン。
「ねえねえ、最近独り暮らしの老人って多いじゃない?」とブン。
「確かに」相づちを打つテル。
「年寄りは増えたが、粋な年寄りが減ったな」ブンが言う。「昔の年寄りはヨ、何だかおっかなかったけど、しゃんとしてたなあ」
「ああ。銭湯行くと、水滸伝の豪傑だの金太郎だの背中に背負ったオヤジが妙に優しくてなあ。モンモン褒める気はねえが、最近、金がねえからかなあ、家族がいねえからかなあ。人生にがっかりしたみたいな年寄りが増えたよ」テルが淋しそうに答える。
「マスター。あれでしょ? 俺らのオヤジの世代からでしょ? 親と同居せずってなったの」ブンが聞いた。
今帰った四人連れの客の座っていた辺りを片付けていたマスターが一瞬考えるように黙りましたが、使用済みの皿など重ねながら、低くていい声で答えます。
「そうですねえ……学生運動の頃でしたでしょうかね? 子どもの学歴が親の学歴を超えた辺りからでしょうか」
「そうだよねえ。集団就職とか、中学、高校出て都会で就職した人は、自分の子どもには高学歴を付けてやりたい、と頑張ったんですよね」とテル。
「いわゆる……マルクス思想とか社会主義革命思想といった……当時流行(は や)りの思想や理論なんか、その頃の親達には理解出来なかったわけで、それを無知・無関心……と侮ったところもあったのでしょう……」
「ふんふん、自分の親達はバカだ、と」
布巾でカウンターを綺麗に拭き上げながら、「また、様々に自分を縛り付けるような旧い家族制度からの解放願望が〝不同居革命〟に繋がったんじゃないでしょうか? でも、誰にも悪意はなかった……気がします」とマスター。
「分かりやすい。マスターの話は分かりやすいね」ブンが深く頷いている。
「いえいえ、あくまで意見には個人差がありますので」マスターが額を中指で掻いています。
親に向かって〝同居せず〟と宣言すれば、未来のおのれも我が子と〝同居せず〟が必然ですので、いずれ自分で姥捨山に籠もる覚悟をするのが当たり前なのですが、人間と申しますのはそんな風に遠くまで見通しの良い生き方なんぞ出来ません。
で、選んだのでもなく、追い詰められたのでもなく、普通に生きて普通に独り暮らしをしているうちに普通に死ぬ。
さてそれを哀れだ、孤独死だ、無縁死だなんぞと今更のように騒ぐ方が無知、無慈悲というものでしょう。
まことに生きることは悲喜こもごもなので。
「ども」
カラン、とドアのカウベルが一つ。男がひょいっと覗いて奥のマスターに声を掛ける。
「おお、ヘロシ」テルが振り返ります。
「よお」
彼は葛飾警察勤めで、交通課を経て今は生活安全課に所属する真面目な安田洋警部。子どもの頃からロマンティックな夢見る少年で、渾名はヲトメのヘロシ。
生活安全課というのは、いわゆる市民生活を脅かす様々なことに立ち向かう部署で、ストーカー被害から騒音問題、近所のもめ事のようなものから、風俗営業、賭博、銃刀法、少年事件、サイバー犯罪まで扱う、まあ、生活の何でも屋です。
明日は非番のようで、すっかりリラックスした格好、燕脂色に白線のジャージ姿で一杯やろうというのです。
二人とは木根川小学校からの同級生でして。
「おめえよ、警官のくせにそういうヤーさんっぽい……つうか完全テツandトモじゃねえかよ」とテル。
「っせえなあ。テル、おめえだって蕎麦屋の亭主なら作務衣(さ む え)か何か着てろっつの。いつもそのユニクロのジーパンなんか穿いてよ」
「ユニクロじゃねえよ。しまむら」
「どっちだっていいよ」ブンが吹き出します。
「マスター、いつものね」とヘロシ。
「承知しました」
待っていたように出てまいります。
ここのグラスはどれもいいクリスタルですから、グラス同士が触れますとチィンといういい音がする。
8オンスのタンブラーも『ホッピー』も『金宮』もどれもしっかり冷えております。
「お待たせしました」
「ぜーんぜん待ってねぇ」テルが笑う。
「なに飲(や)ってるんだい」とヘロシ。
「俺はワイン。この間の旨いの」とテル。
カリフォルニア産のカベルネ・ソーヴィニヨン種の逸品『ディアバーグ』。
もっと高いのも安いのも軽いのも重いのもあるが、店にあるのはどれもマスターの好みの筋のワインだ。
「おれはいつものだよ」とブンがグラスを上げる。
「角ハイかあ」
「その大皿の、お母さんの炊いた茄子。旨えぞ」とブン。
「ありがとうございます」マスターが微笑む。
ヘロシが喉を鳴らして『ホッピー』を飲むのを見ていたテルが嬉しそうに言う。
「おめえ、本当に旨そうに飲むなあ」
「旨えんだもん。殊に明日非番となりゃあ、……ね」
一呼吸置くも置かないもブンが急くように尋ねる。
「なあ? あのお婆さんどうした?」
「あのお婆さんって?」とヘロシ。
「ほれ、亡くなって何日も経って見つかったっていう、あの……シラシゲ神社の近くのさ……」ブンが田中邦衛のような顔で口をとがらせます。
本当は白髭神社なんですが、この辺りの人は「ヒ」が言えなくて「シ」になるから白髭神社はシラシゲ神社になるわけで。
ヘロシの爺さんなんぞ名前を久夫といったが、お蔭で生涯に一度も自分で自分の名前をちゃんと言えずに死んじまった。近所の人だってみんな「シサオ」さんと呼んで暮らして、最後は涙で送ってくれたんだけれども、「シサオー」「シサオさーん」と、笑っていいやら泣いていいやらの告別式だったという塩梅で。
安田警部の名前ヒロシも、シロシじゃ音が悪いというのでヘロシになった。
まあそんなわけで、筆者も面倒なので以後は一々表記しないが、この辺りの連中の台詞に「ヒ」が出てきた場合そちらで勝手に「シ」と読み替えてもらいたい。
「おめえら個人情報保護法って、知ってる?」
「知ってるよぉ」とブン。
「知ってるなら聞くな。いい? 俺ら警察官はそういう情報をむやみに人には言えねえの。守秘義務ってのがあるでしょ」とヘロシ。
ここ、もちろんシュシギムです。
「事件じゃねえのかい?」とテル。
「だからぁ、言えねえって」
「なんかしようってんじゃねえんだ。ただ俺らはねえ、独りっきりで死んじゃったお婆さんって聞くだけで、ほれ、何だか胸が痛くてさあ。これが事件だったら、商店会だって暢気にしてらんねえだろ」とテル。
「特にョ、所帯持つ気のねえ俺なんかさ、他人(し と)事(ごと)じゃねえからな孤独死って」とブン。
「おめえ、所帯持つの諦めたの? まだ早いよ」とテル。
「諦めたわけじゃねえけど、このまんま行きゃあ……」
「孤独かどうかは本人にしか分からねえんだから、勝手な同情なんかしねえがいいよ」
何だか今日はヘロシ、哲学的です。
「そりゃぁ……そうだなあ」ブンが頷いています。
「あの人だって……」言いかけてヘロシが言葉を呑む。
永い沈黙です。何となくみんな黙っている。
「なんだよお」テルが止めていた息を吐き出すように言います。「ヘロシ、おめえ十二秒沈黙したぞ」
「そう……かな?」
「十三秒だった」とブン。
「何つったらいいかなあ……切ない話だったもんでねえ」
「ああ……その……お婆さんかい?」
「いやいや……おめえら口が軽いから」
「誰が他人に言うんだよ。『週刊文春』から頼まれたって言わねえよ、俺はョ」ブンが軽口を叩きます。
「本当かね」
「ハマグリのブンって言われてんだ」
「そりゃ口が堅いって意味じゃなくて、お湯かけりゃすぐに口を開くって意味だろが、バァカ。第一おめえはアオヤギだ」とテル。
「バカ貝」ヘロシが片頬で笑った。
「じゃよ、事件だったら、上向いて。事件じゃなかったらうつむいて。ヒントだけでいいからョ」食らいつくブンに、とうとう笑い出すテル。
「まあ、おめえらなら……」
ヘロシ、深いため息をついたあとで、そっとマスターに尋ねた。
「マスター、安斉美千代って昔の女優さん知ってる?」
マスターが息を止め、何かを考える仕草をしたあと、思い出すように言います。
「ああ……言われなければ思い出さなかったと思いますが……かなり昔の……お姫様女優っていうんですか? 綺麗な人でした。それから、女博徒の映画でもひと頃少し話題になりましたっけ」
「そう……。さすがマスター。何でも知ってるなあ。そうですか。やっぱり綺麗な人だったんだね」とテル。
「そのお婆さん、女優さんだったのかい?」とブン。
「いいかい、これから話すことは、世間話だぜ、いいな?」
ヲトメのヘロシはそう念を押すと、こんな話をした。