『銀河食堂の夜』のこと
30年ほど前、角川書店の「野性時代」に同題の連作短編を書いた。『銀河食堂の夜』というタイトルは僕が賢治ファンであることを知っていた編集者からの提案だった。当時「小説」を書く意識が希薄で小説としてはかなり雑なものだった。そのことはずっと気になっており、最近改めてこの物語を書き直したいという欲求が湧いて「小説幻冬」に隔月連載で書かせて貰った。舞台の葛飾区四つ木は中学時代を過ごした愛着のある町だが、物語と今の四つ木とは大いに様子が違う。心の中に在る故郷のようなものだ。勿論四つ木に『銀河食堂』は実在しないが、万一この店にふと「行ってみたい」などと思っていただけたなら、ありがたきしあわせ。
さだまさし
「オヨヨのフトシ始末『七年目のガリバー』」『銀河食堂の夜』第二話 試し読み
四年前の春の終わり頃、葛飾は京成四ツ木駅にほど近い四つ木銀座の中ほどにそのお店が忽然と出現しましてから、あっという間にここいらの人々に馴染みまして、今やもう、この近在の商店主達の止まり木となりつつある「銀河食堂」のお噂でございます。
銀河食堂と名乗ってはおりますが食堂ではございませんで、それもまたなぜかスタンドバーなのに居酒屋、という不思議なお店でして。
客から自然に「マスター」と呼ばれるようになった、歳の頃なら六十でこぼこと思われる亭主は鼈甲縁の眼鏡に蝶ネクタイ、渋い色のチョッキ姿で、いつも背筋をきちんと伸ばしてカウンターの中に立っております。
格別に愛想を振りまくでもないけれども決して無愛想ではない。
ずけずけと人の話に首を突っ込んだり、尋ねてもいない己の風呂敷を拡げたりするような人物ではありません。あまりお喋りではないが決して無口でもないという人柄で。
笑顔は柔らかな上に、元々苦み走って、それにあっさりとした甘味を足したような男前のマスターですから、この辺りの若い娘達にはどうやら密かに人気があるのだそうで。そういえば毎日二組、三組の若い娘(と言ったってもう三十過ぎの、貰い手がないのだか嫁に行く気がないのだか、ともあれ颯爽と独り身で働くキャリアウーマンというのでしょうか)が、何とはなしにこの店にとぐろを巻きはじめた様子でして、どうやらお店の方もまあまあの繁盛のようでございます。
さて、店の奥の方に飾ってあるチェロは本物だというのは見て分かる通りですが、この辺りに住む音楽の専門家がふと「あれぁストラディヴァリウスじゃぁねえかなぁ」と言ったとか言わないとかで、いっときは騒ぎになりました。
ですが、冷静に考えればそんな名高い何億もするような名器を、誰にどう触られるのだか分からないような酔っ払いだらけの酒場の隅に飾るバカもいるはずがないだろうから、あれぁお飾りだろうということに落ち着いたようで、常連達の間では以後この楽器の値踏みをする奴なんぞ一人もいなくなりました。
さて、時々お店に現れる「お母さん」。
マスターの母親にしては随分若く見えるけれども、かみさんにしては歳上に過ぎるというので、みなそれとなしに「お母さん」と呼ぶわけですが、質素な形をしているけれどもどこかしら灰汁抜けて、若い頃はよほどに小股の切れ上がった、粋な美しい女だったに違いないことは隠しようもございません。
今日もお母さんはどこからか現れて、大皿に里芋の炊いたの、人参、椎茸、インカのジャガイモに油揚げを刻んで煮染めたの、なぜか岐阜の明宝ハムを使ったポテトサラダ、野菜ばかり刻んだプチトマトの入ったサラダに添えられるのは、どうやって作るのだか分からないが、チョイと甘酸っぱくて遠くで辛みのある醤油ベースのマヨネーズドレッシング。
季節らしい手料理の並ぶカウンターは、彩りも鮮やかで目にも安らぐ家庭の匂いがいたしますな。
従って、この辺りの独身男や、家庭ではあんまり大事にされていない中年の親爺達の、格好の水場のようになっておりますので。
さて、まもなく立春という寒い夜でございます。
今夜は、店の奥の方に若い、と申しましても、昔なら大年増でございますが今ならまだまだ小娘という、三十ちょいといったお嬢さんが二人座っております。
時折マスターに話しかけては、さして面白くもない話題でも嬉しそうに笑いこけております。笑いのセンスも基準も年寄りにはさっぱり分からない。
それでもこの店に来ようというような娘達は、いわゆる今時の若い娘とは少しばかり違いますな。と申しましても、年寄りが見てフツーの格好をしているというだけのことで。
とにかく今時の娘なんざ、まず指先からして凄いですな。極彩色の、もの凄く長い付け爪をした娘があったりする。余計なお世話だろうが、あんな毒林檎でも企もうかってえ怪しげな指で厠(かわや)へ行ってきちんと尻が拭けるんだろうか、ケツの皮でもひん剥きゃしないか、ひょっとして、爪の先に妙な物が付きゃしないかと心配になるほどでして。
そういった手合いに比べりゃまあ、今夜の二人は大人の女の入り口をくぐったばかりの年頃ですが、それなりの風情も出てこようという……。
さて、その二人から椅子二つを隔てた並びに、年の頃なら四十でこぼこといったスーツ姿の男性。
その隣にかれこれ七十に手が届こうかというような女性が座って早くから二人で話し込んでおりますが、母子には見えない。時折眉を顰めて小声になって囁いては、頷き合ったり、ぱあっと笑顔になったりします。
仲の良い叔母さんと甥っ子がのんびり話しているような、ほのぼのとした空気が漂っております。
そこへカラン、とカウベルを鳴らして男の二人連れが入ってきました。
どちらも常連ですが、一人は名代十割蕎麦と胸を張る「吉田庵」の五代目の若い店主で、一昨年四つ木銀座の商店会長を〝押しつけられた〟と愚痴っております吉田輝雄。愛称は「テル」。独身の気楽さもあって、午後九時に店を閉めたあとは若い者に任せて、すぐにこの店へとやってまいります。
もう一人はこの近所のコンピュータ管理会社に勤めるエンジニアの菅原文郎、通称「ブン」。
どちらも嫁を貰う気がないのか嫁の来手がないのだか、咲きもしない〝花の独身〟でございます。
「寒いですね」マスターが熱いおしぼりを差し出すと、「ひゅー、さぶいさぶい」鼻水をすするように両の腕を自分でさすりながら腰掛けたブンがおしぼりを握って、「おお、あったけー」と呟きます。
「マスター、身体が温まるものをお願い」テルがおしぼりで手を拭いながらそう言います。
さて、いつもならもう一人、葛飾警察署生活安全課に勤めます安田洋警部、ロマンチストの、通称「ヲトメのヘロシ」という人が小学校時代からの友達で飲み仲間ですが、今日は来ないところをみるとどうやら夜勤らしい。
「ホットワインがいいね」とか言いながらマスターの仕事を覗き込んでいたブンが、ふと店の奥の方に視線を送るなり、大きく目を見開いて、「あれ? フトシじゃね?」と声をかけます。
老女と二人、話し込んでいた男性がその声にこちらを振り向く。
「オヨヨヨヨ。ブンじゃねえか? 久しぶりだなあ」
「やあ、やっぱフトシか、や、いやいやいや、久しぶりだなあ」
前回もお願いはしたけれども、この辺りの人は『ヒ』が言えずに必ず『シ』という発音になるので、会話の中に『ヒ』が出てきたなら必ずそちらで『シ』と読んでもらいたい。従ってここはどちらも「シサシブリだなあ」になるわけで。これはひとつ気をつけて固く守ってもらわないと困る。
「フトシ」と呼ばれたのはやはり幼なじみで、驚くとすぐに『オヨヨ』としか聞こえない叫び声を上げるので渾名は『オヨヨのフトシ』。
本人はオヨヨなんて言ってないと言い張りますが、それなら一体何と言っているのか聞きたいものだというのがテルの意見で。
この男は四つ木銀座の一角にある簡易郵便局の息子、池田太志、四十歳です。
簡易郵便局というのは、郵政省とか地方公共団体から郵便業務を委託された団体や個人が営む『郵便業務を執り行う施設』のことでございまして、フトシの場合、曽祖父の代から自宅で郵便業務を行っているので「郵便局の息子」でいいのです。
フトシの父親がまだ現役の郵便局長で、フトシはそこの局員として手伝いをしながら、個人的にはインターネット関連の商売をやっていると聞きます。
ブンに声をかけられて明るく手を挙げましたフトシに、小声で何か囁いてから老女はつと立ち上がり、軽く会釈をすると、マスターへ少し嗄れたような声で「お勘定を」と言いました。すると、「しのさん、ここはいいから」フトシが声をかけます。
『しのさん』と呼ばれた老女は頷くと悪びれずにマスターとフトシに会釈をし、可愛らしく右の掌をこちらへ見せてヒラヒラと振ったあとカラン、とカウベルを鳴らして外へ出ていきました。
ここはヒノさん、ではなく確かにシノさんです。
「オヨヨヨ、元気そうだけどブン、何年ぶりだい?」
フトシはブンの隣へ席を移します。
「フトシも元気そうじゃん。三年ぶりくれぇか?」とブン。
ホットワインがテルとブンの前に置かれますと、フトシが、「旨そうだな。マスター、僕にもお願いします」と言う。
「承知しました」とマスター。
「つまみにいいものってない?」ブンが聞くのへ、マスターが、「ハムでも焦がしましょうか? 醤油で」ときましたね。
「お、いいねえ、明宝ハム」テルが嬉しそうです。
「いいねえ……そのインカのジャガイモ食べてインカ?」フトシも何かはしゃぎます。
「うううううう」何だか急に、壊れた掃除機が空中のゴミを吸うような音でブンが唸りはじめました。
「なんだよブン」テルが片方の眉をつり上げて不審そうにブンを見ます。
「あああ……思い出せない! どっかで会った気がするんだけどなあ」と今度は天井を仰いで放心状態です。
ブンはまるで、犬歯の脇にスルメイカの繊維が挟まって昨日の夜からずっと取れないで苛立っているような、歯切れの悪い微妙な顔で首を傾げております。
「誰?」フトシが眉を上げ下げして尋ねます。
「いや、ほれ……今、おめえと一緒だった……あの女性よ……どっかで会った気がするんだけど、思い出せねえ」とブン。
「え? 立花(たち ばな)さんのこと?」フトシがそう答えます。
「何?……誰?」とブン。
「あの人、立花さん、ほら、木根川小学校の裏門の脇の古い大きな家の人。庭によくボール放り込んで叱られたの憶えてないか?」
一瞬、時間が止まりました。
「あ」テルが大声を出したので、向かいの女子がびっくりしてこちらを見ています。
「お、驚かせちゃったか? わりいわりい」テルが謝ると、女子はぷっと吹き出して白い歯を見せる。
「あれ、じゃ……ガリバー?」テルがそう言うと、「え」今度はブンが大声を上げます。
娘さん達、今度は驚かない。大声で笑っております。
「え!? あのガリバー? えええ? 今の人が?」
「そうそうそうそう」フトシが膝を打って答えます。
「ガリバーだった。ああ、懐かしいなあ」
「がりばぁ……ですか?」マスターが小声でそう言って首を捻るのを待っていたかのように、ブンが急き込んでこんな話をしました。