『銀河食堂の夜』のこと
30年ほど前、角川書店の「野性時代」に同題の連作短編を書いた。『銀河食堂の夜』というタイトルは僕が賢治ファンであることを知っていた編集者からの提案だった。当時「小説」を書く意識が希薄で小説としてはかなり雑なものだった。そのことはずっと気になっており、最近改めてこの物語を書き直したいという欲求が湧いて「小説幻冬」に隔月連載で書かせて貰った。舞台の葛飾区四つ木は中学時代を過ごした愛着のある町だが、物語と今の四つ木とは大いに様子が違う。心の中に在る故郷のようなものだ。勿論四つ木に『銀河食堂』は実在しないが、万一この店にふと「行ってみたい」などと思っていただけたなら、ありがたきしあわせ。
さだまさし
「まさかのお恵始末『小さな幸せ』」『銀河食堂の夜』第四話 試し読み
世情というものは、決してこの国の「景気」や「気分」だけで決まるような単純なものではないようでございますな。
どこぞの国のミサイルがいつでもこの国に落ちてくるという、その「まさか」の中に潜む恐怖のようなものや、なんだかんだ言っても米国はいつでも裏切ってくるぞという、これまた「まさか」の奥に見え隠れする不安のようなものがない交ぜになりまして、こう、薄ら寒ーいストレスのようにこの……あたかも遊園地の中で暮らしているかのような私達に「外は嵐だぞ」と囁いておりますようで。
おっと大層生意気な口上、まことにお恥ずかしきこと御免蒙りまして、おなじみの小さな居酒屋のお噂でございます。
新キャベツがおいしい春たけなわでございまして、「銀河食堂」のカウンターは柔らかな淡緑が目に優しうございます。
そろそろ鰹の季節でございます。いいのが入りますと、流行りの塩叩きでも自家製の土佐醤油でもいただけます。
また瀬戸内の鰆が旬でございます。活きのいい鰆がお刺身でもいただけるというのが、銀河食堂の不思議で有り難いところでございます。
今日は姿を見せませんでしたお母さんの得意ないつもの料理、雪花菜にきんぴらは勿論ですが、鶏と椎茸、サヤエンドウに蕗に筍などを炒ったもの、頼みさえすればコシアブラ、アシタバ、タラの芽の天ぷらなども当たり前のように出てくるという。ま、どの料理も美味しい上にウィスキーからワイン、日本酒、焼酎、ホッピーに到るまで大概のお酒が揃っております。これでリーズナブルなお値段というのはまことに「神って」おります。
また口数の多くない、かといって愛想がないわけではない、実にこの、押し引きと言いますか、出し入れと申しますか、お客の機微に見事に添ってなおかつダンディというマスターの魅力に惹かれまして、四つ木銀座の密かな人気店です。
と申し上げましても、かといって人がワイワイ押しかけてお店の空気が荒れるようなことはございませんで、あたかも時間指定で予約されたかのようにお客様がするすると入れ替わるのが絶妙で、「何か魔法でも使っているかのような」というのは、常連のブンの言葉でございます。
さてそのブンことコンピュータ管理会社のメンテナンスを担当しています菅原文郎が入り口近くのカウンター席に腰掛けて、珍しく不機嫌そうに塩叩きの鰹を肴に手酌で日本酒を飲んでいますが、時折眉を顰めて奥の方にチラチラと視線を送っております。
その視線の先に、なんと言いますか、このお店に不似合いな、とでも申しましょうか、まあ、どこにいても不似合いかもしれないような一組のカップルがカウンターに寄り添いまして、実にこの仲睦まじくしております。
何が不似合いかと申しますと、その形でございます。
おそらく三十歳前後と見受けられます男性の方は、なんと髪をショッキングピンクに染めております。いえ、ピンクに染めていようが緑に染めていようが、そんなことでブンが驚くはずはないので。そのピンクの髪の根元の辺りが、すでに三センチほど染める前の地の黒髪に戻っているのです。ブンの心の声に耳を傾けますと、「そろそろちゃんと染めろよ」てなものでございましょうか。
両の耳にはギターを模した金色のピアスをして、首回りには五本ほどの金地のネックレスをちゃらちゃらといわせております。眉は入れ墨のようでして、あたかも暴力団の準構成員といった趣なのでございます。
また女性の方でございますが小柄の肉感的な体格で、これまたブンなら「そろそろちゃんと染めろよ」と言いたくなるような根元の黒い中途半端な金髪の、あたかもさっき自分で切った、といった塩梅のざんばらな短髪姿です。
またこれがまさに「首輪」とでも呼びたいほどの、余り上品でないネックレスを何本も首に巻いております。化粧は薄く、ただ真っ赤な口紅ばかりが目立ちます。
ま、確かにブンが眉を顰めるのも分かるような、異様なカップルに見受けられますな。
一方マスターはといいますと、ブンに肴と酒を出しましたらむしろブンをほったらかしにしてそちらの二人と話し込んでおりまして、そのこともブンを不愉快にさせているのかもしれません。
やがて名代十割蕎麦、「吉田庵」のテルがやってきましたから時間でいえば夜の九時を少し回ったところ、と思ったらおやおやまだ八時になる前でございます。
「お、早(はえ)えなあ、今夜は」
「店休んだ」
「あ、そ?」
「なんだい? 機嫌悪いな。マスター、俺はいきなりワインね」
「お帰りなさい。今日はお早いですね」
「休業にしたんだ」
「ああ、そうでしたね。お店閉まってました」
「分かった?」
「お昼にお蕎麦頂戴しようと思ってお店覗いてみたんです」とマスターが言う。
「ごめんね」
ブンは、嬉しそうにワイングラスを抱えたテルに顎をしゃくって奥の二人を指し、小声で囁きます。
「見てるだけで酒がまずくなるようなアベックだろ」
「今アベックなんて言うと笑われるぜ」
「何てんだ?」
「カップル、だろが」
「ああ、そうか、バカップルってやつだな」
「それでも見ろよ、あれで惚れあってるようじゃねえか」
「け。ベチャベチャしやがって気持ち悪いぜ」
「まあまあ、そう言うな。人には人の幸せあり、だよ。大きな人生なんてないのさ。ただ小さな幸せがあるだけだぜ」
「なんだよう、テル、おめえ、妙に哲学的なこと言うじゃねえかよ」
「今日はよ、研修会行ってきたんだ。奈良の神社の偉い神主さんの講話を聞いてきたところだ。哲学的にもなるじゃねえか」
「へえ? 研修会ねえ」
「面白かったよ、今日一日で俺は進化したね。おめえさ、神社でお参りする時、自分が何に手を合わせてるかなんて考えたこと、ねえだろ」
「神様だろがよ」
「まあ、君の脳の程度はそんなものだろうねえ」
「なんだよう? 妙に格好付けるじゃねえか、じゃ、何を拝んでるってんだよ」
「俺ぁ今日色々教わって進化したんだよ」
「だから説明してみろってんだよ」
「それがよ、感動して、理解したはずなのに説明できねえ」
「相手がバカだと、偉い人の話でも無駄だねえ。糠(ぬか)に釘、豚に真珠、てんだよ」
テルが声を出して笑います。
「ちげえねえ。暖簾に腕押し、猫に小判、だな」
そこへ、もうすっかり常連になりました保険会社のOL達、縮れっ毛で背の高い橋本恵子と小柄で黒目の大きな飯島さおりに加え、少し前からメンバーに加わった柳井(やな い)麻絢という、これまた様子のいいお嬢さんが入ってまいりまして、「先輩」のテルとブンに挨拶をして二人の隣に並んで座ります。
「ゴールデンウィークの話してたんですよ」と恵子。
「今年の話? なんでえ、今頃してたんじゃ遅いって」とブン。
「いえいえ、もう決めてるんですぅ」とさおり。
「海外かい?」
「いいえ、都内の温泉巡りデース」恵子がそう言います。
「都内の温泉?」
首を捻るブンへさおりが答えます。
「ほら、今、あっちこっちにそういう温泉施設が建ってるじゃないですかぁ?」
「ああ、前の都知事が家族で行って会議したような?」とブン。
「あれは千葉でしょう?」と恵子。
「ああ、江戸前温泉とかってヤツか?」とテル。
「テルさん、それ、大江戸でしょ?」と吹き出すさおり。
「ああ、そうか江戸前じゃぁ寿司屋だな」テルも笑います。
「そりゃいいアイデアだな。ああいう所って泊まったり出来るんだろ?」とブン。
「そうです。ご一緒しませんか?」と恵子。
「ああ、残念だなあ。俺、九州出張だよ」と真顔のブン。
「その気になってやがら、リップサービスだよ、バァカ。だーれがおめえみてえなの誘うかよ」テルが大笑いしています。
「いえいえ、本気ですよ。ああいう所って、案外遊園地より盛り上がれるんですよ大人は」とさおり。
「そうかあ、じゃ、俺も一緒に行くか」とテル。
「行きましょうよ!」さおりが目を輝かせると、「九州誰かに代わってもらおっかなぁ」ブンったらその気になっております。
「誘ってくれてありがとね。一気に気分が良くなった」とブン。
「気分が悪かったんですか?」と麻絢。
「チョイと腹が立つことがあってね……」
「そのようですね」マスターが慰めるようにブンの前に雪花菜の載った皿を置いて、娘達の注文を聞いております。
奥の二人は、他人のことには全く興味がないようでございます。
こういう感じの人が増えてまいりました。もう、二人だけの世界というヤツで、自分達以外に何の興味もないという……。人に不愉快な思いをさせぬよう、とか、その場の雰囲気を壊さぬよう、などという心遣いとは無縁な方々があります。
おっと、ようやく二人の世界がほどけましたようで、奥のカップルがマスターを呼んで会計を済ませて立ち上がります。
二人は手を繋ぎ、仲の良いところを見せつけながら、恵子、さおり、麻絢の後ろを抜け、ブン、テルの背中を通ってドアまで行き、マスターに挨拶をすると、何気なく保険会社女子達と目が合います。
「きゃ!!」カップルの女性の方が目を丸くして短く叫びます。「あ!」と叫んでいるのは背の高い恵子です。
「恵子姉さん!?」
「雅美(まさ み)ちゃん!?」
「きゃあ、恵子姉さん!!」
「雅美ちゃん、すっかり元気になって!」
二人は抱き合ってその場で泣き出しました。
「あ!」男の方が叫んで思わず直立不動になって、「相原(あい はら)です! あ……こんな格好ですみません」と叫ぶなり、ぽろぽろと涙をこぼし始めました。
不審がる周りの視線に気づいた恵子が慌てて涙を拭いながら、「あ、ちょっと出てくるね。すぐ戻るからね」と言いました。
「う、うん」さおりが頷くと、恵子はカップルを促しながら出ていってしまいました。
「恵子姉さん、って呼んでたな」とテル。
「こんな格好ですみませんって言ってましたね」とさおり。
「知らない人?」とブン。
「私は知りません」とさおり。
「予想外の展開、ですね」と麻絢。
「確かに予想外」とブン。
カップルが座っていたカウンターの食器を片付けながら振り返ったマスターが、「美味しいものでも作りましょうか」と言った。
それから一時間以上経って、ようやく恵子が戻ってきます。
「知り合いなんですか?」
「どういう関係ですか?」
「恵子ちゃんがあのバカップルと友達とは思わなかったね」とブン。
驚いた顔でみんなが一斉に訊く。
一気にホッピーを呷って気を落ち着かせた恵子は、大きく深呼吸をしたかと思うと、こんな話をした。