『銀河食堂の夜』のこと
30年ほど前、角川書店の「野性時代」に同題の連作短編を書いた。『銀河食堂の夜』というタイトルは僕が賢治ファンであることを知っていた編集者からの提案だった。当時「小説」を書く意識が希薄で小説としてはかなり雑なものだった。そのことはずっと気になっており、最近改めてこの物語を書き直したいという欲求が湧いて「小説幻冬」に隔月連載で書かせて貰った。舞台の葛飾区四つ木は中学時代を過ごした愛着のある町だが、物語と今の四つ木とは大いに様子が違う。心の中に在る故郷のようなものだ。勿論四つ木に『銀河食堂』は実在しないが、万一この店にふと「行ってみたい」などと思っていただけたなら、ありがたきしあわせ。
さだまさし
「むふふの和夫始末『ぴい』」『銀河食堂の夜』第五話 試し読み
もうすっかり夏でございます。
やはりこの、夏と言えば怪談でございましょうか。
昔から、夏になりますと何故かお化け話に花が咲くようでございますな。
なにもゾッとしたからといって涼しくなるはずもないわけで、なかなか寝付かれない短夜の退屈凌(しの)ぎ、とでも申しますか、大した娯楽のない時代の名残の一つが「夏の怪談」でございましょうか。
そういえば子どもの頃に「肝試し」などやりましたもので。独りでお墓を通り抜けてくる、だとか、夜、神社の賽銭箱の近くに目印の手ぬぐいか何かを置いてくる、だとか。年長の子どもに命じられて嫌々出掛けると、これをまた別の年長の子どもが待ち受けて脅かしたりなんぞするというヤツでございます。
そのうち気の強い子どもなんかがおりまして、何も怖くなかった、などと言い張りますな。お墓のこことこことここに三人隠れているのは知っていた、などと肝の太いことを言っておりますと、ふと年上の子ども達が怪訝な顔になって、「隠れていたのは二人だけだ」と騒ぎになる。「え? じゃあその、三人目は誰だ」とまあ大変なことになって、とうとう小さな子ども達が泣き出してしまうなどという、実にどうも肝試しには時々本物が混じっているらしいという、ちょいと怖いお話でございます。
さてさて東京では盆の最中という、「銀河食堂」のお噂でございます。
なんと銀河食堂のマスターが季節外れの風邪を引いたとかで、この町に店を開いてから初めて店を休みました。
何でも「気づかないうちに気管支炎を患っていた」のだそうで、高熱を発したのは初日だけで、お医者からもウイルス性の風邪ではないだろう、と言われたようですが、万が一お客さんに感染(う つ)してしまってはいけないというので、先週の金曜日から今週の金曜日まで、一週間も店を休んでおりました。
困ったのは常連達でして、曰く「いつの間にかこの店がないとどこへも行くあてがなくなってしまった」のだそうで、とはいえ病には勝てず、ひとまずマスターが元気になるまでの辛抱だ、と皆再開を待ち望んでおりました。
昨日の夕刻になりまして店の入り口に『鬼の霍乱』という見出しの、『ご心配をお掛け申し上げまして相済みません。明土曜日午後五時よりお店を再開致します。店主敬白』という貼り紙が出て、一同ホッとしたわけで。
それで普段は比較的お客の数も少ない土曜日ですが、本日は常連の顔で早くから席が埋まります。
「マスターもさ、自分だけの身体だと思わずに大事にしてくれないとさ、ほんっと元気でいてくれなきゃ困る俺達がいるんだからね」ブンこと菅原文郎など、マスターに説教を始めております。
「誠にお恥ずかしい」マスターが首の後ろを掻きながら、珍しく照れて謝っております。
今日は開店の時間にお母さんもお店におりまして、「まあどうも、このたびは大変ご心配おかけいたしまして相済みませんでございます」と珍しく客に声をかけたりなんぞしておりますが、その声のいいことに皆驚きます。
普段はカウンターの上に並ぶ料理を運んできては軽く会釈をするくらいでこう、つっといなくなってしまうお母さんの声を、そういえば余りちゃんと聞いたことがなかったわけです。
さてカウンターの上には氷水に浸かった完熟トマトとキュウリ、水茄子などの旬の野菜に加えて、オクラのサラダ、おなじみポテトサラダ、雪花菜、豆腐などが並んでおりまして、魚の方はイサキの塩焼き、キスの素揚げ、鰻の蒲焼きも出てくる、そういうお店でございます。
「ウグイスみてーな声ってああいうのをいうんだな。マスター、お母さんあんないい声してんだねえ。俺モロキュウね」今日は何故か釜が損じて早じまい、だそうで、随分早く現れた名代十割蕎麦「吉田庵」店主のテルが目を丸くします。
マスターが柔らかに笑みを浮かべながらキュウリを氷水から引き上げまして端を落とし、すっと三方向に細く皮を剥いたあと大きく上下二つに切り、皿に赤味噌、麹味噌を添えてテルの前に置きます。
「あんなに綺麗な東京弁なんて久しぶりに聞いたわ。最近の若い子なんてイントネーションが気持ち悪いから何言ってるか聞き取れないし、こっちも聞こえなかったことにしてるんだけどね。あ、私はトマト」
ガリバーこと立花志野が大姪の美野、その亭主の田中美喜夫と三人連れで開店早々カウンターに並んで座り、東京弁について熱く語り始めました。
「すみませーん、こちら雪花菜とキスの素揚げお願いしマース」
「オクラのサラダも」
一方、もはや常連、保険会社のOL橋本恵子に飯島さおり、柳井麻絢の三人連れも早くからカウンターの一等向こう側に陣取っております。
誰も彼も開店が待ちきれなかったようでございます。
そこへ明日は珍しく日曜日の非番に当たるのでしょうか、ジャージ姿のヲトメのヘロシこと安田洋警部が、見慣れない顔の男性を連れてカウベルを鳴らして入って参ります。
一瞬皆が入り口を振り向きました。
「なんでえ、繁盛してんじゃん今日は。座るとこあるかい?」
「こっち空いてるよ」テルが声をかけます。
「あれ?」とヘロシの連れを見て声を出したのはブンです。「なんだよぉ、おめえ和夫(かずお)じゃねえの?」
「あっ。よおよお、ブン。何だよ、しっさしぶりじゃねえか。おめえ、一体何やってんだよ」
くどいようだけれどもこの辺りの人はヒとシが逆になったり、同じになったりするので、きちんとそちらで理解してもらわないと困ります。
和夫と呼ばれたのはヘロシの連れで、四つ木銀座にある老舗のジャズ喫茶「マイ・ブルー・ヘヴン(私の青空)」の二代目の主人を去年継いだばかりの箕浦和夫で、この男もテルやブンやヘロシと同じ木根川小学校、中川中学校の同級生の一人です。
ヘロシとは中学時代から部活動が一緒で仲良しですが、銀河食堂へは何故か今夜初めてやってきたのです。
「俺はコンピュータの点検とか修理で日本中飛び回ってるから」
「ああ、そんでなかなか会わねえのかぁ」と和夫。
「ここ、初めてなのか?」とブン。
「この店の評判は聞いてたんだけど、何せほれ、ウチの店なんざ昼間っから夜中までやってるだろ? おまけに年中無休だから、なかなか来たくても来られねえってわけでさ」
肩をすくめて和夫が口をへの字に曲げて笑っています。
「この土日は店の電気系統のリフォームで休んでんだよ。それでね、このお店一度来たかったからヘロシに頼んで連れてきてもらった」
和夫は照れると「むふふ」と笑うので、子どもの頃からの二つ名は『むふふの和夫』だそうで。
「そっかあ、オヤジさんは元気かい?」とブン。
「おお、まだまだ元気でうるさくてしょうがねえ。まぁだマッキントッシュのプリアンプがどうの、JBLのスピーカーがどうのと、昭和から抜け出せないで口うるさいぜ。ま、でも、この時分にレコードだけって店は都内でもあんまりないからってよ、あちこちから噂を聞いたジャズファンが来てくれっけどね」と和夫。
「オヤジさんには随分可愛がってもらったっけ」とブン。
ヘロシは金宮とホッピーで喉を潤す。和夫はまずは生ビール、なのだそうだ。
「そういえば、とうとうよ、あの家壊しちまうってよ」
ふと思い出したように、いかにもがっかりした顔でため息をついたのは、初手から赤ワインのテルです。
「どこの家を壊すって?」
脇からガリバーこと志野が乗り出します。
「ほら、空襲で焼け残った二丁目の」とテル。
「え? あんないい家、壊しちゃうの? 文化財クラスよ」志野が驚いています。
ブンが天井を睨んでしばし考えていましたが、「ああ、あの化け猫屋敷か?」。
「おやめなさい、そんな言い方」と志野がたしなめます。
「志野さん、みーんなあの家のこと化け猫屋敷って呼んでるんだぜ」とブン。
「あらそう。私のことガリバーって呼んでたみたいに?」
「あちゃぁ。やぶ蛇だった」ブンが笑います。
「元気にやってたあそこのおばあさんがね、おじいさんが五、六年前に亡くなってから、急に元気がなくなっちゃったから気にはなってたんだよね」テルが大きなため息をつきます。
「おばあさん。若く見えたけど八十幾つだったか、今年に入ってから急に可愛くなっちまったらしいのよ」とテル。
「可愛くなったって?」ブンが聞きとがめる。
「そのくらい察しろよ。〝惚けた〟なんて言うより優しいだろ」ヘロシが小声で答えている。
「ああ、なるほどね、そういう意味かあ」ブンが痛い顔で頷きます。
「そうなのか。あそこの……跡取り娘の華子(はな こ)ちゃんが最近ちょくちょくあの家に帰ってきてたのはそういうことだったんだな」とヘロシ。
「え? 誰」とテル。
「岡田華子だよ。俺らより二級下の美人のホラ」とブン。
「ブンは美人のことになると妙に詳しいからな」とヘロシが笑う。
「そうそう。彼女確か巣鴨の方に嫁いだんだけど、この頃時々見かけるのはそういうことね」志野が頷いています。
「え? 今話してた化け猫屋敷って、お茶の先生の岡田さんのこと?」
今まで黙って聞いていた和夫が目を丸くして尋ねます。
「おうよ。この辺りじゃもう、あの家くれえじゃねえの? 空襲で残った家って。それも一番立派だったあの家がよ、解体だってさ」テルがまたため息をついた。
「盆、猫、家の解体って三題噺の怪談だな」とヘロシ。
「夏向きだねえ。家を解体したら謎の死骸が出たなんてな」ブンが茶化す。
「いやそりゃ、困る。そうなると俺の仕事になる」とヘロシ。
「バカ。そういうつまらないことを言うんじゃないのよ。猫が増えたのはご主人が亡くなってから急になのよ。特に増えたのは、この一年くらい。あのお茶の先生なさってらっしゃる千代さん、前から猫好きだったんだけどね。ご主人が亡くなってから、寂しいのでそこいらの捨て猫をみいんな拾ってきちゃっただけなのよ。そんな薄気味悪い言い方はやめなさい。千代さんのお父さんはね、昔ここの町会長だったのよ」とガリバーの志野。
「さすが民生委員」ヘロシが妙なところで頷いております。
「実は華子ちゃんのお母さんが早死にしたもんでね、千代さんの跡取りって、今は華子ちゃんしかいないんだよ」とテル。
「詳しいね商店会長」とヘロシ。
「へ? 華子ちゃんってあのおばあさんの娘じゃないの?」ブンがひどく驚いております。
「違うよ。孫だよ。歳が違いすぎるだろうよ」とテル。
「ああ、皆さん、ちょいと事実と違うところがある」先ほどから黙って何かを考えていた和夫が言いました。
「なんだい、急に。何を思い出したんだよお。まさかおめえ、華子ちゃんとよ、昔なんかあったなんてんじゃあねえだろうなあ」下卑た声でブンがわざと和夫を真似てむふふ、と笑います。
「あの家は解体しねえ。修繕はするようだけども、後はその……お孫さんが戻ってくるってさ」和夫、なかなか事情に詳しいようで。
「ああ、そうなの」とヘロシ。
「実は五年ほど前に、あることがあって……あそこの家によくお邪魔したもんでね」
思いがけない和夫の話に皆興味を持ったようでございます。
「五年前?」
「……そうそう、『ぴい』だった」和夫が膝を打ちます。
「ぴい? なんだあ? そりゃあ」
一斉にみんなが聞き返す。
柱時計が午後七時半の鐘をボオン、とひとつ打ちました。
「女の話じゃねえよ。ジャズの話ったって、おめえらじゃちんぷんかんぷんだろうがよ。聞くかい?」和夫が勿体付けます。
「なんだよ、面白ェ話なのか?」とヘロシ。
「面白いも何も、おめえ、この話はまあ……一種の怪談だなあ」
「怪談~~~」向こうで恵子、さおり、麻絢の女子三人がユニゾンで叫んでおります。
「怪談化け猫屋敷ってか?」とブン。
「そういう妙なこと言わないのよ」志野がたしなめております。
「いいじゃねえか、この季節、そういう話が聞きてえな」とテル。
「マジでちょいと怖いぜ」と和夫。
「その……ぴいが? いいねえ、受けて立ちましょう」とブン。
「マスター、その前にワインお代わりね」生唾を飲み込んだテルが、少し掠れる声でそう言いました。
「いいかい。これは本当の話だぜ」和夫がむふふと笑ったかと思うと、生ビールで口を湿らせてから、こんな話をした。