『銀河食堂の夜』のこと
30年ほど前、角川書店の「野性時代」に同題の連作短編を書いた。『銀河食堂の夜』というタイトルは僕が賢治ファンであることを知っていた編集者からの提案だった。当時「小説」を書く意識が希薄で小説としてはかなり雑なものだった。そのことはずっと気になっており、最近改めてこの物語を書き直したいという欲求が湧いて「小説幻冬」に隔月連載で書かせて貰った。舞台の葛飾区四つ木は中学時代を過ごした愛着のある町だが、物語と今の四つ木とは大いに様子が違う。心の中に在る故郷のようなものだ。勿論四つ木に『銀河食堂』は実在しないが、万一この店にふと「行ってみたい」などと思っていただけたなら、ありがたきしあわせ。
さだまさし
『セロ弾きの豪酒』『銀河食堂の夜』第六話 試し読み
何やら季節のご機嫌よろしからず、今年も果たして何時から何時までが梅雨だったのか気付かないうちに夏になったようで、酷暑と予想されたものの東京辺りでは気温も低い上に、夏中雨模様が続きました。
秋になったかと思えば、駆け足のような速さで、最早この辺り、葛飾は四つ木界隈にも風に乗って木犀の香りがしてまいりました。
朝夕はもう肌寒い、既に晩秋の候。
さてこの日曜日の昼下がり、渋江公園を通り過ぎ、奥戸街道沿いに京成立石駅方面へ少し歩いた辺り、老舗の和菓子屋が経営しております「響庵」という比較的大きな甘味処の奥の、八人ほど座ることの出来る個室に、いつもの連中、コンピュータ管理会社勤めのブンこと菅原文郎に、名代十割蕎麦「吉田庵」店主、テルこと吉田輝雄、それから葛飾警察署生活安全課所属のヲトメのヘロシこと安田洋警部に加え、オヨヨのフトシこと郵便局の息子、池田太志の姿を見ることが出来ます。
本日彼らを仕切っていますのは「エノさん」と呼ばれる中学時代の学級委員長、生徒会長の榎本久志という男で、人柄もいいし成績も良かった彼は、大学を出てから大日本新聞社の記者になり、数年前から学芸部に配属されています。
『オヨヨ』だの『ヲトメ』などと二つ名で呼ばれたりしております中で、何故か榎本久志だけは昔から「エノさん」とさん付けで呼ばれています。
よほど人望があったのでしょうし、もっとも名前を呼ぼうにも『久志』が大ハザードだ。
もう散々に申し上げてきたのでいい加減に呑み込んでもらったと思うけれども、この辺りの連中はヒとシが入れ替わったりごっちゃになったりする。ですから当然『久志』は「シサシ」です。
元より『貧血』と『神経痛』はほぼ同じ発音でありまして『潮干狩』なんぞは「ヒオシガリ」になる。もうくどくどとは言わないけれども、必ず語頭のヒはシと読んでいただきます。ええ、『日野市』は「しのし」です。
少し遅れてジャズ喫茶「マイ・ブルー・ヘヴン」の若い店主となったばかりの『むふふの和夫』こと箕浦和夫がこれに合流いたします。
彼らの中学時代の共通の恩師だった島田春雄先生を偲ぶ会、だそうで、気の置けない仲間数人だけで、毎年十一月二日の祥月命日の前の日曜日の昼間に集まることになっておりまして、堀切菖蒲園に集まり、園内にある静観亭という施設で宴会をした後、この響庵に移って〆に皆で一斉にあんみつを食べる、という儀式を続けてきたのでございます。
何故〆にあんみつなのかというと、エノさんによれば『我が師の恩=和菓子の餡(あん)』なのだそうで、面白いんだか面白くないんだか分からないけれども、みな格別異論も挟まずに従ってきました。
今年はその島田先生の十三回忌に当たるので、他の同級生達にも声をかけて大きな会を、という声も出たが、折悪しく堀切菖蒲園は来春まで改装工事中。
園内の「静観亭」は営業しているのだけれども、と、なんとなく手をこまねいているうちにとうとう間に合わなくなってしまい、結局いつもの悪ガキ仲間だけが響庵に集まって軽食の後、あんみつ〆の儀式を行って島田先生を偲ぶことになったわけで。
「お酒もあるぜ」メニューを覗き込んでいたオヨヨのフトシが言います。
「よせやい。どうせ夕方から『銀河食堂』行って飲むんだ。昼間っから飲んでちゃ、明日仕事にならねえ」そう言ったのはヲトメのヘロシです。
「ああ、俺もいっぺん行きたいんだよな」エノさんが膝を打ちます。
「今日行きゃあいい」とブンはメニューを見ながら興味のなさそうな返事をしています。
「俺が凄く可愛がってもらってる指揮者の山本直角先生だけど」
「おお、前に聞いたっけ。あの面白い髭の指揮者の先生か」とテル。
「あの先生も連れてけってうるさいんだよ」
「なんであの有名な先生が銀河食堂のことを知ってるんだ?」と和夫が訊きます。
「俺が教えたのさ。先生、謎が好きでさ、面白そうな謎の飲み屋見つけるとやたらとそこに通うタイプなんだよね。だからさ」
「四つ木でもかよ?」と和夫が吹き出します。
「先生の家は松濤なのにさ、前なんか砂町の謎の居酒屋に惚れ込んで週一で通ってたことがある」
エノさんがわざわざ砂町だぜ、と念を押してそんなことを言いました。
「何が謎だったんだ」とヘロシが尋ねると、エノさんがニヤニヤしながら答えました。
「そこのマスターがオネエなのか本物の女なのか謎だったんだ」
「それだけかよバカだねえ。確かにオネエって頭いいのが多いから面白いんだよな。でも、直接聞きゃあいいじゃねえかよ」とブン。
「失礼だろうが」と、エノさん。
「そりゃそうだな」とブン、素直に頷いております。
「で? どっち?」とテル。
「女だった」
「何だよ」とブン。
「一時は深川とか向島とかに凝ったり、福生の居酒屋に凝ってたこともあるし、京都に凝ったら月一で京都通いって人だからね」とエノさん。
「お。いいねえ先生、面白え人だなあ」ヘロシが何だか嬉しそうな顔で話に乗ります。
「それじゃあマスターとは気が合うかもしれねえなぁ」テルが口を尖らせて、真面目な顔で頷きながらそう言いました。
「その先生も謎めいてるが、マスターがまた謎の人だからなあ」とブン。
「あの店は最初から謎だからな」
ヘロシが奥戸街道に開いた窓の外をぼうっと眺めながら小声で、「もう冬の日差しだなあ」などと言う。
「最近あちこちから便所の匂いがするんだよな」とブン。
「金木犀だよ。芳香剤じゃねえよバカヤロ」テルが吐き捨てます。
「可哀想な花ではあるな」と和夫。
「電話してみるかな」エノさんが携帯電話を取り出します。
「誰に?」
「先生にさ」
「まだガラケーかよ」ブンが笑うと、「仕事が出来るヤツはパッドと二つ持ち。電話は電話専用機に限るんだよ」とヘロシが言いました。
暫く部屋の外で話をしていたエノさんが戻ってくるなり、嬉しそうな顔で言います。
「先生、あとでここへ顔出すってさ」
「ホント。おお、会ってみてえと思ってたんだ」ブンが嬉しそうです。
「え? どこから?」とテル。
「そこの、かつしかシンフォニーヒルズ。明日コンサートでね、今朝からリハーサルやってたんだ。もう終わったからあとで顔出すって」
「ねえ、あの髭の先生って、今お幾つなの?」フトシが訊く。
「六十は過ぎてるが六十五にはならない」とエノさん。
「ふうん。じゃあ? マスターと同じくらいかねえ」とテル。
「いずれ六十半ばか」とブンが呟きます。
「ともあれ山本先生、まだ暫くかかるからご飯食べちゃおか」
エノさんがそう言うと、先ほどから真剣にメニューを覗き込んでいたヘロシが思い出したようにぽつりと聞きます。
「ところでさぁ、十三回忌は分かってるが、島田先生って……お幾つで亡くなったんだっけ」
「喜寿のお祝いの翌年……だから満の七十七歳だった」とエノさん。
指折り数えていたヘロシが、「じゃあ、お元気なら今年卒寿(そつ じゆ)だったか」とぼそりと呟きました。
「いい先生だったな」
「うん、いい先生だった」
「優しくてな」
「厳しいところもあったが温かな人だったな」
「俺達こうして十二年も先生の命日に集まってるくらいだからな」
口々に先生を偲んでおります。
それから三十分ほど経った頃でしょうか、電話が鳴って迎えに出ていったエノさんに伴われて、髭の指揮者こと山本直角先生が現れました。
長髪というほどではないけれども、首のあたりまで伸ばした真っ白な髪をオールバックに撫でつけ、鼈甲柄の眼鏡を掛け、鼻の下のたっぷりとした白い髭は綺麗に整えてあります。まあ、テレビで観た通り。
黒いハイネックのセーターに黒いスーツで胸には赤いチーフが覗いていて、左手に黒の薄い鞄を提げた、なかなかダンディな出で立ちで、一同が思わず立ち上がって迎えるほどでございます。
「や」山本先生は柔らかな笑顔でみんなに会釈をすると、エノさんの案内で一等上座の、奥の席に座ります。
「あ、こちらご存じ指揮者の山本直角先生」とエノさんが紹介します。
「やあやあ、アイ・ラブ・ミュージック! 髭の指揮者の山本です」
山本先生、有名な自分のキャッチフレーズを交えて、もう一度立ち上がって気さくに笑顔で会釈をします。
「お目にかかれて光栄です。僕らは榎本の幼なじみばかりで」とテル。
「そうらしいね。でもなんで男ばっかりで甘味処なんだい?」
「そこはホラ、中学時代の恩師を偲ぶ会ですから……」とエノさん。
「おお。解った和菓子の恩か。うめえじゃねえか」
「和菓子の『餡』です」とエノさん。
「おお、餡です山脈」と山本先生。
「さすがだねえ」ブンが驚いております。
「感心しちゃいけない。笑うとこですよ」と山本先生。
「うちの新聞が大日フィルのスポンサーってこともあってね、先生とは実は五年前に取材でヨーロッパツアーに同行させていただいて以来可愛がってもらってるんだよ。明日かつしかシンフォニーヒルズで公演だ。大日フィルと……えっと……アラブのヴァイオリニストの……」
「イスラエルだ。おめえ、新聞記者として絶対間違えちゃいけねえところで間違えやがったな」山本先生が吹き出します。
「あ、イエース」とエノさん。
「ISか、上手い!」と山本先生、拍手などしております。
一同ついて行けずキョトンとしておりますな。
「いやいや、僕は駄洒落が大好き……失礼して上着を脱がせてもらうね」
山本先生が上着を脱ぐと、エノさんが壁のハンガーに掛けます。
「今のどういう洒落?」ブンがテルに訊きます。
「よくは分からねえがイスラム国に関係するらしい」とテル。
「物騒な洒落だなおい」とブン。
「そういうのが好きなんだよ」と山本先生。
世界的な指揮者の、とても人なつこくて温かな人柄にみんな一気に惹かれております。
それから改めてそれぞれが自己紹介をします。
警察官に郵便局、蕎麦屋にコンピュータ屋、ジャズ喫茶店主、と一々頷いて山本先生。
「多士済々ってヤツだな。面白ぇ集まりだね」
「元々ここに根付いてる連中ばかりが、こうして昔のまま付き合ってるだけですよ」とヘロシが説明をしている。
「ところで酒は出ないのかい」という先生の一言で、ひとまず瓶ビールしかないけれども、まあ、駆けつけ三杯。
昼間っからだが、軽くならいいだろうと、座が和み始めました。
そのうちなんとなく銀河食堂の話になる。
「いや、実にこの、いい店なんですね。何しろ居心地がいい」とフトシ。
「マスターがまた良く出来た人で、寡黙すぎず喋りすぎず、人の話に過剰に首を突っ込むでもないが、盛り上がってる話にはちゃんと乗ってくる」とテル。
「何でも知っていてダンディで、お酒の知識も半端ないし、また何でもないようで手の込んだ料理が普通に出てくるし」とブン。
「その料理も旨いしねえ」と和夫。
「僕らもその店のマスターの大ファンになって、通い始めてもうかれこれ四年目になるんですけどね、でもマスターの本名すら知らない」とヘロシ。
「僕もまだ行ったことがないんですがいい店みたいですよ。よかったらこのあと行きませんか」
エノさんが先生を誘うと、先生乗り気で、「いいねえ。行こう行こう。四つ木に行きつけの店なんて出来たら渋いじゃねえか」などと笑っておりますな。
「先生、謎がお好きだから」とエノさんが聞く。
「それそれ。そのお店のさ、何が謎なんだい?」と先生。
「ひょっこりお店が出来て忽然と現れたマスターですけど。どうもこの辺りの出でもないようだし、なら何故四つ木に? って思うじゃないですか? 都内の一等地だってやってけるような渋くていい店なんですよ。それだけでもう謎でしょ」とテル。
「人の事情なんて根掘り葉掘り聞くことじゃないしな」とブン。
「でも、謎があると覗きたくなるってのが人情かねえ」とヘロシ。
「お前が聞けば職務質問だろが」テルが笑います。
「どこで何をしていた人なのか……お店開いて四年半になりますけど、マスターが今どこに住んでいるのかもよく知らない。まあ、聞かないからでしょうけど」とブン。
「ほほう」と山本先生興味深そうに聞いております。
「第一、今時分わざわざ四つ木辺りで居酒屋始める人はいないでしょ? ウチの店なんてほぼ赤字すれすれなのに」と和夫。
「そりゃ店主の人気の差だな」ブンが笑います。
「うん、確かに」とテル。
「うるせえなバカヤロ」和夫が吹き出しております。
「本物のチェロが飾ってあるんですよ」
「それさ。僕の興味のあるところだ。生楽器が飾ってあるのかい?」と山本先生。
「そうです本物のチェロ。値打ちなんか僕らには分かりませんけど、古そうな、綺麗な楽器ですよ」とヘロシ。
「ほほぉ」山本先生が一瞬考え込んでしまいました。
「あ? 先生音楽家だから、そういう所に小道具みたいに生楽器を飾るの、お好きじゃないんでしょう」エノさんが聞きます。
「あ、いやいや違う違う。生楽器飾る店なんて幾らもあるが、チェロは珍しいってこと。ディスプレイしてあるだけ? 置きっぱなし?」
「いえ、毎日マスターが出しちゃ片付け、片付けちゃ出すのね」とブン。
「ふうん。その人は弾いてた人かね」と山本先生。
「いえ、誰も演奏は聴いたことない」とヘロシ。
「そりゃ尚更謎だねえ。弾く人なら弾いて聴かせるはずだし、弾かずに飾るおもちゃみたいな楽器ならその辺におっ放っといても大丈夫だけど、毎日仕舞っちゃ出すってのは、きっと大切な物だろう」
「なるほど」とエノさん。
「先生の知り合いだったりしてね」とブン。
「うん、それでさっきから僕の頭の中が騒がしいんだが、そうだと面白い人がある」と山本先生、目を輝かせます。
「え? その可能性があるんですか?」とテル。
「いやまさかそんなことはないとは思うがね。もしも奇跡的にそうだったらその人は大変な人だってこと」と山本先生。
「お、何かワクワクするじゃんね」とブン。
「てめ、さっきからなに先生にため口きいてんだよ」とテル。
「大変な人って……どう大変なんですか?」エノさんも目を輝かせます。
「おいおい決めてかかるなよ。まずそんなはずはないし、根拠なんかなんにもないんだが、何て言うのかなあ、さっきから僕の胸の奥でね……その……チェロが僕を呼んでるような気がしてる」
「芸術家の言葉は面白い」エノさんが呟く。
「お友達の話……なんですか」とフトシ。
「うん」
山本直角先生、言葉を探しておりましたが、「大親友だった男の話だ。聞くかね」
「聞かせていただけるんですか?」和夫がのめっております。
「構わないが……長い話になるぞ」
先生はゆっくりと皆を見回してから、こんな話を始めました。