2007年に父方の祖父が97歳で亡くなった。そのときの祖母の悲しみがすごくて、これから祖母はどうなってしまうのだろうと、祖母がかわいそうで、かわいそうで、私の胸もキューッとした。計算してみたら、祖父母の結婚生活は72年間だった。
でも、いい具合に祖母の認知症が進んできて、祖父が亡くなったことを思い出さなくなってきたときには、みんなでホッとした。でも斑(まだら)ボケになったときには、「どうして私はこんなにバカになってしまったんでしょう」と嘆くのを聞いて、私も泣きたくなった。
去年の春の頃だった。私が実家にいるとき、認知症もだいぶ進んで、祖母が一緒に暮らしている叔母と手をつなぎ、よいしょ、よいしょと実家の二階まであがってきました。みんなでソファーに座り、お茶を飲んでいたら、祖母が「ねえ、私はもう死んでいるでしょうか。生きているんでしょうか」と言い出したので、みんなで驚いてしまった。
「おばあちゃま、死んでないよ。ちゃんと生きてるよ。生きてるよ」と慌てて言ったら、祖母はにっこり笑い、「私の生きているときには、皆さんに良くしていただいてありがとうございました」と言ってお辞儀をしたのだ。
そして、赤ちゃんを抱くように、胸の前で手を交差させ、「みんなをこうしたい」というのだ。祖母の頭にまだ残っている言葉を総動員して、みんなのことを抱きしめたいと言っているのが、よくわかり、母も私も、叔母も、弟の奥さんも、みんな笑いながら、涙ぐんでしまった。
祖母は、認知症になって、出てこなくなってしまった言葉もたくさんあるけど、心の中は、昔と同じように温かくて優しい気持ちで、いっぱいなのだと、私の気持ちも温かくなった。
その頃には、もう私の名前も出てこなくなっていたが、二人で並んでくっついて座っていると、祖母の表情も柔和で、祖母が安心しきっていて、私のことを近しい人だと認識しているのが、よくわかった。
祖母はちょっとずつ、ちょっとずつ、老いた。次の次くらいに会った時には、お地蔵さんのように、おまいかけをかけて、目をつむりながら、叔母にご飯を食べさせてもらっていた。目をつむりながら、一口一口ゆっくり食べている祖母は、とても小さく見えた。
私は、自由が丘に帰り、名古屋に住む妹に、電話をかけた。「おばあちゃま、あとどのくらい生きるかなあ」と私が言うと、「おねえさんね、そろそろ覚悟したほうがいいからね」と低い声で言った。「えっ、私、何も覚悟なんてしてないよ。そんなこと言ったって、ひょっとしたら、まだあと半年くらい生きるかもしれないでしょ」と言うと、妹は黙っている。
私がなにも覚悟もできていない8月末日の朝、コーヒーを飲んでいたら、母から電話があった。瞬時に何があったかわかってしまった。電話に出ると母がいつもより高い声で、「おばあちゃま、逝っちゃったわよ。なんにも苦しまないで明け方、眠ったまま逝っちゃったんだからね」
私は、実家に帰るために、キャリーバッグを出して広げたが、何を入れたらいいのか、よくわからず、そこらへんにあるものをみんな詰めてしまい、岩石のように重いキャリーバッグになってしまった。それなのに黒いストッキングを持ってこなかった。
新幹線で静岡に帰り、荷物を一旦、実家に置き、祖父母の家に向かった。10年以上、両親の介護をした叔母はぼーっと椅子に座っていた。叔母の背中がすっかり丸くなってしまっているのに、私は初めて気が付いた。
自由が丘から時々帰り、祖母の調子のいいときばかりを見て、また自由が丘に帰る私に、「まだ覚悟ができていない」とか「あと、せめて半年」などと言う権利は私には全くないのだということがよく分かった。
祖母は享年103歳であった。立てなくなり寝たきりになって8日間で逝ってしまった。高1と高3の姪が、「おばあちゃまをあんな箱(棺)に入れたらかわいそうだ」と、目を赤くして泣いている。
お坊さんが来て、お経をあげてくれた。お坊さんが帰り、人が少なくなると、姪二人が、木魚と鐘を叩き出した。「ポックンポックン、カンカンカンカン、ポックンポックン、カンカンカンカン」弟が、やめるように言うと、高1の方の姪が、「だって、おばあちゃまが叩いていいって言ったもん」と棺を指して言うので、弟が、「あっ、おばあさん、今ちょっと動いたぞ」と言ったら、姪たちが「きゃー」と悲鳴をあげ、逃げていった。
私があの世に旅立つ時には、この姪たちの子供が木魚をポックンポックンしてくれるのかなと、祖母の横に座り、私はぼーっと考えていた。
さすらいの自由が丘
激しい離婚劇を繰り広げた著者(現在、休戦中)がひとりで戻ってきた自由が丘。田舎者を魅了してやまない町・自由が丘。「衾(ふすま)駅」と内定していた駅名が直前で「自由ヶ丘」となったこの町は、おひとりさまにも優しいロハス空間なのか?自由が丘に“憑かれた”女の徒然日記――。