2015年夏から深刻化したヨーロッパ難民危機の最前線が、この島だった。トルコからギリシャを経由してバルカン半島を北上し、ドイツを始めとする西ヨーロッパのEU諸国を目指す、いわゆる「バルカンルート」の入り口がここだった。
この人口9万人の島に、2015年だけで約50万人もの難民が、トルコから海峡を渡り押し寄せた。当時取材した記者によると、島の海岸で待ち受けていると、難民を乗せたゴムボートが次々に接岸して、難民たちが上陸してきた、という。
これまで単に難民と表記してきたが、正確には「難民認定を主な目的とする正規の出入国手続きを経ない入国者」と言うべきだろう。
難民の定義に幅があるが、本来は、圧政や戦乱から着の身着のまま隣国に逃れてきた人と言えるのではないか。母国を離れた理由が政治的迫害ではなく、経済的な困窮の場合は「経済難民」とされ、本来の難民の定義に当てはまらない。また、避難先からさらに第三国に移動する人々のことは、難民ではなくもはや移民と言えるのではないか。
付け加えるならば、EU諸国が結んでいるダブリン協定では、最初に入国したEUの国で難民申請をしなければならないことが定められている。EUの別の国に移動して難民申請をすることは許されない。
ただ、ヨーロッパに押し寄せる人々を難民と呼ぶことがすでに一般化しているし、ここでも特に断る必要がある場合を除き単に難民と表記する。
私が泊まったピルゴスホテルのロビーで、このホテルの女性経営者エブゲニア・ドレコリア(44)に当時の様子を聞いた。彼女は、アテネの大学で勉強した後、島に戻り、ホテルを2軒所有、経営している。聞きそびれたが、親から経営を引き継いだのかもしれない。
「2015年7~8月の20日間が特にひどかった。難民収容所が整備されるまでの1か月半ほどの間、ミティリーニ市の通りは難民であふれた。島の観光業はイメージの悪化で大きな打撃を被った。ミティリーニは援助関係者やジャーナリストでそれなりに潤ったが、観光だけで成り立っている島内の他の町は観光客数が4分の1にまで減少した」とドレコリアは嘆いた。
ただ、「この島の住民の多くは、第1次世界大戦後、ギリシャとトルコの間で起きた紛争や、ローザンヌ条約に基づく両国間の住民交換により、対岸のトルコ領から逃げてきた人々の子孫だ。彼らは難民を助ける気持ちを持っている。だから難民を排斥しよう、といった動きは大きくはならなかった」と言う。
彼女の話は、しまいにはドイツに対する文句になった。
「なぜギリシャだけが苦しまねばならないのか、不公平だ。ドイツはシリアの学歴の高い難民を優先的に獲得した。ギリシャが借金を返そうとしないので、ドイツはギリシャに罰を与えようとしているのか」
こうした独断的で感情的なドイツに対する批判は、ギリシャ人の中で広く見られるようだ。
肌の浅黒い、エネルギッシュな女性だった。
※試し読み、続きます。
本音化するヨーロッパ
エリートの建て前は、もう聞き飽きた――。反難民、反既成政党、反EUが常態化し、ロシアの揺さぶりにいらだつ「普通の人々」の肉声ルポ。