「日本人はもともととてもすばらしい民族だった」「日本人は、もっと日本人であることに自信をもってよい」……そう語るのは、歴史学者の山本博文東京大学教授。江戸時代にくわしい教授は、著書『武士はなぜ腹を切るのか』で、義理固さ、我慢強さ、勤勉さといった、日本人ならではの美徳をとり上げながら、当時の武士や庶民の姿を活き活きと描いています。昔の人はカッコよかったんだな、と素直に思えるこの本。一部を抜粋してご紹介します。
たとえ死ぬとわかっていても……
「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞」とは、江戸市中に多いものをいった俗語です。このような俗語の筆頭に挙げられるくらい、とかく江戸市中には火事が多かった。木造の建物も多かったし、全体的にホコリっぽかったので、すぐに火が出てしまったのです。回数もさることながら、歴史に残るような大火事も、何度か起こっています。
明暦の大火(振袖火事)もそのひとつです。明暦三年(一六五七)の正月十八日、本郷丸山にあった本妙寺から出た火が、折からの強風にあおられて、湯島、駿河台、神田、日本橋……と燃え広がり、十万人ともいわれる死傷者を出しました。この火事に絡んで、非常に日本人らしい逸話が残っています。
それは、かなりの広範囲に広がった火が、日本橋小伝馬町に置かれていた牢屋敷にも迫ろうとしていたときのこと。囚獄(牢屋敷の長官)を務めていた石出帯刀は囚人たちを牢から出して「私の一命に賭けて釈放する。ただし、そのまま逃げたりしないで、必ず浅草新寺町の善慶寺に戻って参れ」と申し渡しました。
囚獄は江戸町奉行の配下で、囚人を預かるのが仕事でした。ただし、牢の鍵は町奉行の管理でしたから、大火事という非常事態でさえ、囚獄に牢を開ける権限はありません。しかし、いくら犯罪者であっても大勢の人がただ焼け死ぬのを見過ごせなかった石出は、独断で釈放を決め、牢の格子を打ち破ってしまった。
もし、囚人たちが火事のどさくさに紛れて新たな犯罪を重ねたり、約束の期日にひとりでも戻ってこなかったりしたらどうなったか。その場合、石出は責任を取って、腹を切らねばならなかったことでしょう。
約束は必ず守るのが日本人だ
このとき釈放された囚人は、百二十人余り。なかにはいずれ、死罪となることがわかっている者もいたはずです。これ幸いと、そのまま逃げてしまっても不思議ではなかった。
ところが期日として切った振袖火事の三日後には、釈放された囚人たちは全員、浅草の善慶寺に戻ってきたというのです。石出が命を賭けて自分たちを救おうとしたことが囚人たちに伝わったからこそ、彼らも、その石出の心に応えようとしたのでしょう。
もとより囚人たちは罪を犯した者ですから、真人間ばかりではないはずです。それでも彼らは、人として石出を裏切ることはしなかった。
それは、自分が裏切ったら、石出が腹を切らされることがわかっていたからだと思います。自分によくしてくれた人を、そんな目に遭わせるわけにはいかない。そのためには、たとえ死ぬために帰るようなものであっても、帰ってこいといわれたからには帰る、一度交わした約束は必ず守るという義理堅さを、日本人は本来、もっているのです。
この石出帯刀と囚人たちの逸話は、『むさしあぶみ』という史料に、現在でも残っています。
人から助けてもらったら、受けた恩を必ずや返そうとする。本来そういう考え方をするのが、私たち日本人なのです。
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