くじけそうなとき、負けそうなとき、古今東西の「名言」が、自分を助けてくれることがあります。ロングセラー『人生は名言で豊かになる』は、スティーブ・ジョブズ、シェイクスピア、チャップリンから、村上春樹、立川談志、坂本龍馬、良寛まで、著名人や歴史上の人物の「名言」を多数収録。どのページを開いても、心が晴れやかになる一冊です。本書の中からいくつか抜粋してお届けします。
「落語とは人間の業の肯定である」
――立川談志
教科書には載らない「人間の本音」
落語には、熊さんや八っつぁん、与太郎など、憎めはしないが、どこかネジが1本欠けているような人物が登場する。彼らは、行き倒れの死体を自分の死体だといい張って自分で運ぼうとしたり(粗忽長屋)、番茶を薄めたものを酒、タクアンを玉子焼きに見立てて花見をしたり(長屋の花見)、その言動は、あまりにバカバカしかったり、無茶だったり、成り行きまかせだったりする。そんな非常識ぶりが笑いを生んでいるわけだ。
この落語の構造を立川談志流にいうと、「落語とは人間の業の肯定を前提とする一人芸である」ということになる(『あなたも落語家になれる』三一書房)。
人間の業とは、簡単にいえば、愚かさということだろう。「酒の飲みすぎは身体に悪い」とわかっていても、つい飲んでしまうのは人間の愚かさ=業だし、「どうせなら楽して儲けたい」という気持ちも、人間の業に違いない。べつな言い方をすれば、およそ道徳の教科書には載らない“人間の本音”とでもいえるだろうか。それを肯定してしまうのが落語だと立川談志はいうのである。
彼は前掲書のなかで、忠臣蔵を例にこんなことをいっている。
「(四十七士をヒーローにした講談や映画とは)落語は違うのです。討ち入った四十七士はお呼びではないのです。逃げた残りの人たちが主題となるのです。そこには善も悪もありません。(略)つまり、人間てなァ逃げるものなのです。そして、その方が多いのですヨ……。そしてその人たちにも人生があり、それなりに生きたのですヨ、とこういっているのです。こういう人間の業を肯定してしまうところに、落語の物凄さがあるのです」
どんなに紳士然としている人でも、人間はどこかに業の部分を隠し持っている。しかし、「それでもいいんだよ」といってくれるのが落語ということだろう。
なんとも素晴らしい人類愛ではないか。落語が庶民に愛され続けてきた理由がよくわかる。
私が垣間見た談志の素顔
愛されたといえば、立川談志自身がそうだった。談志といえば毒舌家のイメージが強いけれど、実際の彼はサービス精神に溢れた、とても心優しき人だった。
じつは談志の熱烈なファンだった私には、立川談志と差し向かいで、昼間っから一杯やりながら彼の話を聞くという至福の体験がある。いまから20年ほど前、場所は不忍池のほとりにある伊豆栄という鰻屋で、彼に語り下ろしの本を依頼するために設けた席でのことである。昼過ぎに始まった打ち合わせは、いつしか彼の独演会になり、気がついたときには夕刻近かった。
談志の話は、抱腹絶倒の連続だった。口から出ることがすべて落語になるといえばいいか。ファンにとってはなんとも贅沢な時間というほかなく、同席した二人の編集者と私は、役得とはこのことだと我が身の幸運を神に感謝した。
いま思い返してみると、あれほど人を幸せな気分にさせた談志もまた、人類愛に溢れていたのではないかという気がしてくる。彼は落語を心から愛していたが、それと同じくらい人を楽しませることが大好きだったに違いないのだ。