自然環境が激変、人間は死に絶えるのか? 滅びる運命の中、人はいかに生きるのか? 普段どおりの生活を続ける者、新興宗教に救いを求める者、微かな生存に望みを託す者、いっそ鮮やかな死を望む者、そして――。
平成版『日本沈没』として話題沸騰中の、『人類滅亡小説』。『嫌われ松子の一生』『百年法』などで知られる小説家、山田宗樹さんの渾身作です。今回は特別に、物語の序盤を少しだけお届けします。
#1
吉井沙梨奈は、最後の書き込みを終えてから、スマホの電源を切った。通学鞄に入れて下に置く。あたしのメッセージは、だれの目にも触れないまま、実体のない世界でひっそりと保存される。これがあたしの、この世界に残していく、すべて。
網フェンスに手をかけた。高さは二メートルくらい。有棘鉄線のようなものはないので、沙梨奈でも乗り越えられる。実際、思ったよりも簡単によじ登って、外側に降りることができた。そこから雨水溝をまたぐと、端まで五十センチもない。強い風が吹き上げてきて、制服のスカートがふわりと膨らんだ。
マンションの屋上は、点検業者以外は立ち入り禁止になっているが、屋上に通じるドアのロックが壊れたままで、その気になればいつでも出入りできる。沙梨奈が知っているくらいだから、ほかの住人も気づいているはずだが、ずっと放置されてきた。
慎重に足を踏み出し、端に立つ。
もう惨めな思いをしなくて済む。この世界に引け目を感じなくて済む。これ以上、自分を嫌いにならなくて済む。
背筋を伸ばし、目をつむる。
さよなら、あたし。
身体を前に傾ける。
ふっと重力が消える。
「え」
目を開けると同時に身体をひねった。足が離れて宙に浮く。落ちる。腕を伸ばした。雨水溝に届いた。そこに倍加した自重が襲った。指がちぎれそうになる。足の下にはなにもない。虚空が口を開けている。歯を食いしばった。二本の腕で身体を引き上げる。ぎりぎりで重力を振り切って転がり、雨水溝にすっぽりとはまった。底から舞い上がった埃にせき込んだ。溝から出て網フェンスを摑む。振り返って空を見上げる。さっき目をつむる寸前、異様なものが視界に入った気がしたのだ。
上空を埋め尽くしているのは灰色の雲塊。その中にあって一つだけ、赤い色の塊が紛れ込んでいた。いちごシロップをたっぷりかけた、かき氷みたいな色。夕日のせいではない。まだお昼を過ぎたばかりだ。それに、あれは夕焼けの色とは違う。もっと毒々しくて、ぞっとするような……。
ふたたびフェンスをよじ登って内側にもどり、通学鞄を拾い上げて中からスマホを取り出す。電源を入れ直して〈雲 赤い〉で検索する。すぐに判明した。
「……コロニー雲」
ネットでも話題になっているらしい。ぜんぜん知らなかった。ここ数カ月というもの、空を見上げたことなんかないし、世の中の動きにも関心が向かなかった。
さらに検索結果を追っているうちに、ある言葉を見つけた。ずっと胸の中に澱んでいたものが、跡形もなく吹き飛んだ。
「そっかあ」
晴れ晴れとした笑顔で赤い雲を見上げる。
「人類、滅亡しちゃうんだ」
◇
暗いドアを引くと、カランと音が鳴る。照明の控えめな店内から、乾いた冷気に乗って、珈琲と煙草の匂いが流れてくる。
「いらっしゃい」
「どうも」
沢田剛は、マスターにちょんと頭を下げ、いつものカウンター席に着く。
「きょうのモーニングはシナモントーストだけど」
「じゃ、それで」
両肘をカウンターにのせ、さりげなく店内を見回す。四人掛けの小さなテーブル席が三つ。先客が一人いる。六十代と思しき痩身色黒の男性で、たいてい平日のこの時間に来ている。言葉を交わしたことはないが、マスターは中根さんと呼んでいる。きょうは量販店で買ったに違いない白いポロシャツを着ていた。イヤホンを両耳に差し、小難しそうな顔でタブレット型のデバイスを睨みながら、クリームをたっぷり盛った珈琲を飲んでいる。灰皿の底には折れ曲がった吸い殻が数本。中根のほかに人の姿はない。
「有美ちゃんならお休みだよ」
剛は、がっくりと肩を落とした。
「きょうから東京に行ってる」
マスターは四十歳くらい。いつも小さな眼鏡をかけ、真っ白いシャツに黒いエプロン姿でカウンターの中に立っている。頰は少しふっくらしているが、太っているというほどではない。そのマスターが、挽きたての豆に湯を細く落としながら、剛の反応を楽しむような視線をよこす。
「彼氏に会ってくるんだってさ」
「マジ?」
剛の生まれ育った見和希市は、大きな河川に面しており、昔は水運業の拠点として栄えたという。いまも市の中心部には、当時の栄華を偲ぶ建物が多く残っている。この小さな喫茶店は、その中心部からやや外れた、古い商店街の中にあった。
「はい、お待たせ」
珈琲とシナモントースト、ゆで卵とミニサラダが並べられる。シナモントーストは、バターを塗ったトーストにシナモンシュガーを振りかけただけのものだ。
「っていうのは冗談でさ」
剛はトーストをくわえたまま顔を上げる。
「ほんとは仕事の面接を受けに行ったんだよ」
「有美ちゃん、向こうで就職すんの?」
「前からいってたからね。いつか東京で働きたいって」
トーストを食いちぎるとシナモンの粉が白い皿に散った。
「そんなにいいかな、東京暮らしが」
「この辺りの女の子なら、一度は憧れるもんだよ」
「きょうのシナモン強すぎない?」
「そう?」
剛は二十三歳になるが、まだ東京に行ったことはない。剛にとって東京とは、情報として存在するだけの都市であり、オンラインゲームの中にある架空の街と変わらなかった。有美はそんな場所に行っている。なんとなく、二度と戻ってこないんじゃないか、という気がした。