自然環境が激変、人間は死に絶えるのか? 滅びる運命の中、人はいかに生きるのか? 普段どおりの生活を続ける者、新興宗教に救いを求める者、微かな生存に望みを託す者、いっそ鮮やかな死を望む者、そして――。
平成版『日本沈没』として話題沸騰中の、『人類滅亡小説』。『嫌われ松子の一生』『百年法』などで知られる小説家、山田宗樹さんの渾身作です。今回は特別に、物語の序盤を少しだけお届けします。
自分には関わりがない。そう思っていた
「おい、にいちゃん。これ知ってるか?」
妙に切迫した声とともに、目の前にタブレットが差し出された。驚いて振り向くと、常連の六十代男性が立っている。
「どうしたの、中根さん」
マスターの目にも戸惑いがある。
「これだ、これ」
中根が節くれ立った指でタブレットを叩く。そのタブレットの上半分を、曇り空の画像が占めていた。ただの雲ではない。一部が赤くなっている。画面の下半分には日本語の文章が綴られているが、字が細かくて読みづらい。
「雲がこんなふうに赤くなるんだってよ。知ってたか、にいちゃん」
息が煙草くさい。
「雲なんて夕方になればいくらでも赤くなるでしょ」
むっとして返すと、中根が目を剝く。
「よく見ろって。夕焼けでこんな色になるかぁ?」
無視するとさらにしつこく絡んできそうだ。剛はしぶしぶ画像を見直す。
その雲は濃い赤インクでも流し込んだような色をしていた。発色の仕方も、太陽に照らされているというより、内部から色素が染み出している感じがする。雲の厚みのある部分の色が強く、端にいくほど淡くなっていた。画像の下端に写り込んでいる建物の大きさから推察するに、赤くなっているのは雲のごく一部に過ぎないようだ。腕を伸ばして手のひらを空に向けると、その手のひらに隠れてしまう程度しかない。たしかに、夕焼けでこんな色の映え方はしないだろうが。
「これが撮影されたのは午後二時だ。絶対に夕焼けじゃない」
「画像が加工されてんじゃないすか。こんなの簡単にできますよ」
中根があらためてタブレットを操作し、
「いま、こういう雲が、世界中で見つかってるんだぞ。画像検索したら、ほら、こんなに出てくる」
鼻息を荒くして検索画面を突きつけてきた。ずらりと並んだ画像には、どれも赤い雲が写っている。色調や大きさ、形は微妙に違う。
「だからぁ、こんなのはアプリを使えばあっという間にできるの」
「ところがね、沢田くん」
マスターが低い声で会話に入ってきた。
「ほんとらしいんだな。雲が赤くなる現象があちこちで起きてるってのは」
剛は思わず顔を見つめる。
「なに、マスターまで」
「ちゃんとしたニュースサイトにも出てるよ。コロニー雲って呼ばれてる」
「コロニー? どういう意味」
「集落」
「なんの」
「微生物だよ」
「ミジンコとか、そういうやつ?」
「もっと小さいの。細菌とかカビの仲間とか。あの雲の中では、そういう微生物が異常に繁殖してるんだって。それが赤く見えてるってことらしいよ」
「マスター、やけに詳しいけど、ほんもの見たことあんの?」
「コロニー雲? いや、ないけど」
「だったら、ほんとにそんな雲があるかどうか、わかんないじゃん」
「でもニュースサイトでは──」
マスターがいいかけて口を噤み、考え込むようにうつむく。
「なるほど。沢田くんのいうことも一理あるね」
〈東京〉と同じなのだ。〈コロニー雲〉は、ここにいる自分たちにとっては単なる情報でしかない。端末の画面の中にだけ存在する仮想現実かもしれないのだ。少なくとも、そうではないと言い切るだけの根拠を、いまの自分たちは持ち合わせていない。
「じゃあ、ここに書いてあることはどうなんだ?」
中根が検索画面を閉じて最初のサイトにもどした。曇り空の画像と説明文が書いてあるページだ。マスターがタブレットを受け取って下半分の文章に目を通す。十秒もしないうちに鼻で笑い、タブレットを中根に返して、
「これはデマです」
あっさりと断定した。
中根は納得できない様子で、
「でも専門家がいってるんだろ」
「その専門家の先生、テレビで見たことありますけど、ありゃ詐欺師の顔ですね」
「なんの話? そこになんて書いてあんの?」
「まあ一言でいえば、コロニー雲のせいで人類は滅亡する」
「ふぁっ?」
「ただし、そうなるのは二百年後」
思わず笑った。
「なんだ、そりゃ」
「笑いごとじゃない。少しは子孫のことを考えなさいよ」
中根がなぜか説教口調になっている。
「だって二百年も先だよ。子孫は子孫でなんとかするんじゃないの。ていうか、デマなんでしょ?」
マスターが無言で肩をすくめる。
「ま、どっちにしろ、おれらには関係ない話だよね」
「若いあなたがそんな無責任なことをいっちゃいけないよ。これはみんなが真剣に考えないと」
「まあまあ、中根さん。そのへんで」
ヒートアップしそうなところにマスターが割って入った。
中根も我に返ったのか、決まり悪そうな表情をしつつも、
「いや、これは、ほんとに、たいへんなことだと思うんだけどなあ……」
首をひねりながらテーブル席にもどる。
剛はマスターと苦笑を交わした。
ドアがカランと鳴って客が入ってきた。年配の女性が三人。彼女たちも朝の常連組だ。マスターと気さくに言葉を交わしながらテーブル席に着く。そのあとも中断することなくおしゃべりが続く。彼女たちの話題に赤い雲なんて出てこない。嫁姑、介護、夫への不満、身体の不調。話題はどこまでも身近でリアルだ。奥の席の中根は、ふたたび両耳にイヤホンを差してタブレットを睨んでいる。
剛はモーニングを平らげて珈琲を飲み干した。
「そろそろ仕事行くわ」
「がんばってね」
代金をカウンターに置いて店を出る。ふたたびじっとりとした湿気に包まれながら、商店街の駐車場まで歩く。いまの剛にとってリアルな世界とは、とうに最盛期が過ぎて衰退しきったこの町だった。古びた建物。不便で狭い道。シャッターに落書きの目立つ商店街。そして、ここで消耗し、終わるであろう自分の人生。たとえ赤い雲が実在しようが、それが二百年後に人類を滅ぼすことになろうが、自分の一生には関わりのないものだ。おそらく、東京という街も。
駐車場で白いコンパクトカーに近づきながら、リモコンでロックを解除する。ドアに手をかけたとき、自分は本気で有美のことが好きだったのだ、とあらためて思った。彼女が東京で就職してしまえば、もう会えなくなる。でも、こんな自分になにができるのか……。
剛は答えを求めるように天を仰ぐ。
空には、でこぼこした灰色の雲がひしめいている。その中の、ちょうど頭上を塞ぐ雲塊が、濃い赤インクを垂らしたように、真っ赤に染まっていた。