自然環境が激変、人間は死に絶えるのか? 滅びる運命の中、人はいかに生きるのか? 普段どおりの生活を続ける者、新興宗教に救いを求める者、微かな生存に望みを託す者、いっそ鮮やかな死を望む者、そして――。
平成版『日本沈没』として話題沸騰中の、『人類滅亡小説』。『嫌われ松子の一生』『百年法』などで知られる小説家、山田宗樹さんの渾身作です。今回は特別に、物語の序盤を少しだけお届けします。
雲間を漂う巨大生物
『当機は高度三万八千フィート、約一万千六百メートルを飛行しております。本日は気流の乱れがあるため、このような揺れが続いておりますが、飛行の安全性にはまったく影響ありません。ご安心ください』
窓の向こうには、真っ青な天空と、その底を埋める白銀の雲海が、視界のかぎり続いている。神々しいまでの光景は、昔ながらの天国のイメージに重なるが、実際は天国どころではない。機外の気温はおそらくマイナス五十度を下回り、気圧は地表の三分の一以下だ。
弓寺修平を乗せて午前九時四十五分に東京を発った佐賀行AJA454便は、対流圏の上限に近い高度を順調に飛行していた。ここから上は雲もできない成層圏だ。成層圏ではオゾンが紫外線を吸収して温まるため、気温は高いところで零度近くにもなる。
成層圏を突き抜けると、気温はふたたび下がり、マイナス九十度まで低下する。それが高度百キロ付近から一転して急上昇し、千五百度という超高温に達する。熱圏と呼ばれる所以だ。ただし、もはや空気はほとんど存在しない。そのため、一般に大気圏というときは高度百キロまでを指し、それ以上は宇宙空間とされている。
つまり大気圏とは、厚さわずか百キロの層に過ぎない。しかも空気の八十パーセントは、大気圏の底、厚さ約十一キロの対流圏に集中している。地球上の生命は、この薄皮のような大気の中で、かろうじて生かされてきた。しかしいま、その大気に、原因不明の異変が広がりつつある。
「ほら見て、あそこ」
後ろの座席から男の声がした。
「え……なにあれ」
応えたのは女性だ。どちらも声が若い。
「知らないの? コロニー雲だよ。いま話題になってる」
(コロニー雲だとっ!)
弓寺はあわてて窓の外に目を凝らす。男のいうとおり、左はるか前方を埋める積雲の一部が赤く変色していた。さっきはまだ視界に入っていなかったのだろう。自分があれを見落とすはずがない。それにしても──。
「くそっ」
危うく窓を叩きかけた。待ち構えているときは現れないくせに、こんなときに限って……。
「おれ、実物を見るの初めてだわ。写真、撮っとこ」
後ろの男が呑気にいった。
「ねえ、どうして雲があんな色になるの?」
「雲の中でウイルスが繁殖してるからだよ」
男が自信たっぷりに断言したが、この回答では落第だ。コロニー雲で繁殖しているのはウイルスではなく、細菌である。ウイルスと細菌では、生物学的に天と地ほども違う。
「そんなものが雲の中で生きられるの?」
「水分はたっぷりありそうだから、なんとかなるんじゃない?」
「でも水だけじゃ生きられないでしょ。栄養分は?」
ほう、と意外に思った。素人にしてはいい着眼だ。生命が育まれるには水分と養分が不可欠である。雲は水や氷の粒子からできているので水分には事欠かない。では養分は?
「……いわれてみれば、空にそんなもんないな」
残念だが、その認識も誤っている。もともと大気にはさまざまな物質が含まれている。たとえば酸性雨の原因は大気中の二酸化硫黄や窒素酸化物だ。これも細菌にしてみれば立派な栄養分になるし、一般に雲の粒子にはそのほかにも多種多様の有機酸やミネラルが溶け込んでいる。栄養源として十分な量だ。そのため、コロニー雲にかぎらず、普通の白い雲にも多くの微生物が棲息している。いや、なにもないように見える空中や、雲もできない成層圏にさえ、エアロゾルという形で無数の微生物が浮遊し、独自の生態系を築いていることがわかってきた。
「でも、あのコロニー雲って、かなりヤバいらしいよ」
男がさらに続ける。
「人類を滅亡させるんだってさ」
「なんで人類が滅亡するの?」
「……おれにも理屈はよくわかんないんだけど」
「絶対デマでしょ、それ。雲ぐらいで人類が滅ぶわけないもん」
「たしかに……」
「そんなデマに騙されるのはリテラシーのない人だけだよ。カイセイくんは頭いいんでしょ」
「え、あ……うん」
弓寺はため息を吐いた。いまだに一般人の認識とはこのレベルなのか。いったい自分はなんのために……。
機内がざわつきはじめた。窓に視線をやると、真っ赤なコロニー雲が眼下まで迫っている。弓寺もスマホのレンズを向けた。上空から観察できるチャンスは滅多にない。
飛行機との高度差は数千メートルあるはずだが、それでもかなりの大きさだった。境界もはっきりわかる。色の違いだけではない。周囲の積雲に比べると表面の凹凸が鋭く、まるで棘が生えているようだ。コロニー雲の上面に特徴的なこの構造は、写真や動画では見たことがあるが、あらためて実物を目の当たりにすると、その異形から放たれる存在感に圧倒される。さながら雲間を漂う巨大生物だ。
「すげえ」
後ろの男が声を漏らす。
「なんか……怖いね」
女性がつぶやいた。